僕の事象
「先輩、好きです。」
僕と先輩が最後に心を通わせた会話は、その言葉が始まりだった。
「先輩の心を、僕は動かすことは出来なくて・・・それでも歪に育ち続ける気持ちを、どうか断ち切ってくれませんか。かつて僕とキスした・・・その愛おしい唇で。」
まるで詩でも詠むかのようにそう言った。
「・・・話したい事って、そっちが本題か?」
「どっちもです。先輩、知らないでしょうけど、僕は先輩と出会ってから今まで、一度も先輩への気持ちが途切れることはありませんでした。先輩の好きな人への想いが、幼い頃から深いところであり続けていたように。先輩が思っている以上に、いえ・・・何も思ってはいないと思いますけど、自分にしかわかりえない病的な恋心に、取りつかれていました。この気持ちが根を張って、また僕に・・・死にたいと思わせる前に、助けてください。」
ただそう懇願した。
何気なく語りながら、狂いだしそうになる頭の中を鎮めながら。
「・・・俺は・・・×××ちゃんを愛してる。お前が言うような病的な恋心なのかもしれない。でも少し違うのかもな。薫のその気持ちには、一生応えることは出来ない。こう言ったら・・・お前は救われるのか?」
「救われるなんて誰がいいましたか?先輩は神様でも何でもないじゃないですか。へし折ってぐちゃぐちゃにするか、スッパリ断ち切ってしまえば、その痛みで傷ついて一生分泣くんですよ。そしてまた、違う花が芽生えて育つまで、ゆっくり立ち上がるんです。」
僕は傘を持つ先輩の手を覆うように重ねて握った。
「先輩の口から・・・誰かを愛してるなんて聞きたくなかった。僕だけを見てほしかった。僕だけに優しく微笑んでほしかった。哀れんで僕を抱いて、そのクズな精神で僕の恋心を育てておいて、一度も水をあげずに・・・切り落とすことだけは上等なんですね。」
思い出せば思い出す程、心の奥から淀んだ気持ちが流れ出していく。
「お前がそう思うなら、クズなまま返答するよ。お前が言えって言ったから言ったんだろ。薫のことは人間として好きだ。それ以上でもそれ以下でもない。ずっとそれをわかっていて、改めてふられたかったんだろ?」
僕は手を離して、その瞳を見上げた。
「お人よしですねぇ・・・先輩は・・・。」
そう言葉をこぼすと同時に、抑え込んでいた全てが、ただの一粒になって落ちた。
とっくに視線を逸らせていた僕は、先輩がどんな表情でそれを目の当たりにしたのかわからない。
「では、今日はこれで失礼します。先輩、お時間いただきまして、ありがとうございました。小説・・・楽しみにしていてくださいね。」
僕はそう言ってその場を立ち去りました。
雪が舞う空も、寒くて感覚がなくなった指先も、靴下を二重に履いて寒さを凌いでいた足先も、先輩に伝えることは本当にこれでよかったんだろうかという自問も、すべて捨てながら歩きました。
僕が綴るこの文章も、いずれ先輩が目にすることでしょう。
けれど僕はわかっています。
これをただ一つの大事な大事な作品として、思い出として、僕の中に残り続けたとしても、先輩にとっては、ただ後輩がノンフィクションの話を書いた、というだけの事象でしかないと。
先輩の世界はこれから色んな困難や幸せに満たされ、そこに僕は一生存在していたかもわからないような一つの事象になって、息づいていくことはありません。
人間はそうして、自身の人生の多くを占める存在と、そうでない存在を分けてしまいます。
誰かのたった一人の存在になれる、唯一無二の存在になれるということは、なんて困難で尊くて、奇跡的なことなんでしょう。
僕は間違いなく先輩に恋をしていました。何年も・・・。
そして当たり前で、残酷で、美しくて尊いそれを、何度もむざむざと目の当たりにしながら、最後には敗れたんです。
これを書き終えた後の春から、僕は先輩と同じ大学に通うことになります。
ですが顔を合わせることがあってもそれもまた、ただの事象になるでしょう。
現実で起こる物事は、常に僕にとって厳しくあるように思いました。
ですが同時に、幸いにも素晴らしいことも何度か起きたんです。
僕はこれから、また心機一転、新しい環境で生きて行きます。
生まれ変わるつもりで、また日々を過ごしていこうと思います。
時には大きく視野を広げて、小さなことに悩まぬように。
そして時には、小さなことに目を向けて、大きな幸せへと繋げられるように。
*
「柊・・・」
「はい。」
「これ・・・柊のノンフィクションなんだよな・・・。」
「はい、もちろん。今回のテーマがノンフィクションだったので・・・書きたいと思える僕の話は、こういうものしかありませんでした。」
「すごいなぁ・・・。」
「・・・すごい・・・ですか。」
二人きりの文芸部の部室で、長机に向かい合った先生は、そうポツリとこぼした。
「辛く悲しいとも感じるし・・・美しいとも感じる。ノンフィクションらしい生々しい表現がいい意味で活かされてる。最後の告白した後の会話は、テンポ重視で書いてるから読みやすいし、ぐっと物語の中に入っていける・・・緊迫感が静かな情景で緩和されて、けど柊の痛々しい程の想いがちゃんと伝わってくる。・・・柊さ、本当にここに書いてある通りのセリフで告白したのか?」
先生は猫背でパッドを持ったまま、下がった眼鏡の上から覗いた。
「はい・・・。」
「そうなのか・・・。つれぇなぁ・・・。」
そう言いながら先生は、ぎゅっと目を閉じて、ゆっくり開いた。
「ありがとな、高校最後のコンテストにわざわざ書いてくれて・・・。半ば強引にお願いしちまったけど、こんな話が読めると思ってなかった。柊の人生をちょろっと垣間見て、俺はなんか・・・のぞき見しちまってみたいでちょっと後ろめたくなってるけど・・・学生らしい青春もあるし、よくまとまってると思ったわ。」
「そうですか。お気に召していただけたならなによりです。僕も・・・書いてみて何だかスッキリしました・・・。アウトプットって大事ですね。」
「はは、そうだろう?ま、人生何事も経験ってこったな。」
先生はそう言って立ち上がると、小説のデータは学校から応募しておくと言って去っていった。
ガラガラと世話しない音を立てて戸が閉まると、またそこは一人の空間になった。
文芸部は去年の時点で新入部員も入らなかったので、既定の部員数を満たさず廃部となった。
けれどもその昔、歴代の先輩方は名だたるコンテストで優勝や金賞を獲得した生徒もいたらしく、立派な本棚と愛された小説たちが残されていた。
才能があるかもないかもわからない僕たちは、それらを読み漁っては楽しく時間を過ごした。
顧問の先生は、僕が最後の部員だからと、卒業するまでは文芸部員の扱いで形だけでもと部室を残していてくれた。
時刻は16時過ぎ。運動部も文化部も活動している時間帯。
僕は残された小説たちと、次はどんな場所に変わるかわからない教室で、西日が窓から入ってくるのを待っていた。
線路のように等間隔に並ぶ教室の窓から、舞台のライトのようにオレンジが照らすと、いつも思い出す。
先輩と黙って二人きり、手元の本に目を落として流れていく時間を。
二人でいる時はいつも、時々こっそり隣の先輩の横顔を盗み見て、端正な顔立ちがまるでマネキンのようで、集中して小説を読んでいると、瞬きすらあまりしていなかった。
そしてばれていないのをいいことに、その横顔に見惚れながら、ゆっくり呼吸する速さで肺が膨らむ度、先輩が生きている人間なのだと自覚した。
制服に着られている僕とは違って、紺色のありきたりなブレザーも、何の変哲もないネクタイも、先輩のためにあるようで、『男子高校生の先輩』を完璧に作り上げていた。
そうして僕が先輩を見つめていても、滅多に視線を返してくれることはなかった。
部室に来ること自体が珍しくて、学校でもそこまで顔を合わせることはないから、そうして二人きりの時、僕にとって本を読む時間ではなく、先輩との空間を味わう時間だった。
好きだった。先輩の全てが。
もう半月もすると卒業して、ここに戻ることもないだろう。
もうここで夕日が降りるのを待っていても、ガラっとドアが開いて、先輩がやってくることはない。
「先輩」と・・・ここで呼ぶこともなく、ただの母校の部室として空間は終わってしまう。
僕が学校生活で得たものは、疎外されたクラスの中で、授業を受けながら勉学に励んだことではなく
男子生徒にからかわれて羞恥を晒された事実でもなく、先輩と出会って過ごした素晴らしい時間を、自分の中で永遠に残すという貴重な体験だった。
大事にしたいものだけを、最大限に美化して、先輩の良いところしか心の内に残さず
その人となりを全て知っているわけでもないのに、自分の中にある確かな事象だけをいつまでも抱きしめて
そうやっていつまでも、先輩を身近に感じていたい。
もうほとんど顔を合わせることはないのだから、ただの友人関係以上に何かが変わるわけはないのだから
ゆっくり落ちて来た夕日は、ここでの時間を惜しむ僕の気持ちを、恥ずかしいくらいに照らす。
「どこにも・・・帰りたくないんです先輩。・・・先輩・・・今どこにいますか?」
窓ガラスを突き抜ける光の向こう、ずっと遠くを見つめながら、誰にも聞こえない独り言を口にした。
赤く染まる教室の中で涙を流しても・・・
放課後の喧騒と一緒に、溶けてしまうだけだった。