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無知

作者: ちゅうなごん

 その日の蝉の鳴き声を今でも覚えている。静まり返った空間に大人が正座をしながら、村の全員がラジオの前に俯いていた。厳かなようで、優しそうな声で難しい日本語がラジオから流れてきていた。母にこれは誰の声じゃと聞いても口を開こうとしない。ラジオが終わったら、村のみんなは終わった、終わったと言って、いつもの日常に戻っていった。中には立ち上がれない人や、ただ泣いていた人もいたが、理由は気にならなかった。今思えば、そのような人達は女の人ばかりだったと思う。しかし、小学校に行く前の少年には、そこに潜在的に存在していた戦争の残忍性を気づくことはできなかった。

 少年が戦争の終わりを初めて感じ取ったのは、空襲警報が鳴る頻度が極端に減ったことに気づいてからだ。少年は、空襲警報を恐ろしいものだと気づいていなかった。少年にあのサイレンの音の説明をする大人もおらず、少年はあの恐ろしい音をかくれんぼの合図だと思っていたほどだった。少年の生活の習慣として、防空壕に入ってかくれんぼをするというサイクルが出来上がっていた。そんな数少ない遊びの一つが、あのラジオ以降きっぱりとなくなってしまった。少年は母に最近なんでかくれんぼの音が流れないのと聞いたが、無視をして食卓にご飯を並べていた。祖父が説明をしようとしていたが、祖母に無言の圧をかけられ、話を変えられた。母はこの時何を考えていたのか。戦争の残忍性に気づいていない子供の恐ろしさか、空襲警報を遊びだと思っていた呆れか、それともまた別の事か。今となっては知る由もなかった。

 戦争が終わったからと言って、子供たちの生活が変わることはあまりなかった。田舎の母親の実家に疎開していたこともあって、進駐軍が来るということもなかった。変ったこととなると、父親が帰ってきたことくらいだろう。終戦の次の年の春、父は日本に帰ってきた。父は、南洋諸島のパラオに配属され、直接的な戦闘を経験せずに終戦を迎えていた。父は陽気な人ではあったが、少し痩せていて、疲れているようだった。それでも家では明るく振舞っており、家では日常が戻ったという雰囲気が溢れていたが、物心がついてから、ほとんど会ったことがなかった男に対する態度は酷いものだったと思う。父親は、戦争の話をほとんどしなかった。そのことは、小学校に上がろうとしていた少年にはつまらなかった。この時の学校の話はそれぞれの父親の自慢ばかりだった。戦争が終ったといえ、少年たちの憧れの存在が変るまでには、まだ時間が足りなかった。友人には父親を亡くした人も多かった。彼らにはその話題は辛かっただろう。父親自慢をしようとも、死んでしまっては自慢話を聞けない。しかし、そんな父親を英雄と言う時代は終わってしまったのだ。今思うと、父はそのような英雄たちへの後ろめたさがあったのだと思う。しかし、小学校一年生という年齢の少年たちが、そんなセンシティブな話題に気を配るわけがなく、オセロのように自慢話を重ねていった。

時が過ぎていくほど、戦争の匂いはしなくなっていった。中学生の時に疎開先からようやく東京に戻ってきた。父の大学時代の伝手で、父が東京で仕事をすることとなったからだ。私たち一家は、東日本橋周辺に引っ越してきた。七年前、ここら一体が焼け野原だと思えないくらいには復興していた。四月の終わりにはサンフランシスコ講和条約が公布されたので、進駐軍も東京からいなくなったこともあり、日本は気持ちの面でも復興し始めていた。美空ひばりの歌と、巨人軍のバットの快音、そして蔵前から聞こえる相撲の体と体がぶつかる音が青春時代の全てだった。これらの音がどれだけ戦後の日本の希望となったかは分からないが、少なくとも、それらの音は敗戦ということを忘れさせるくらいには、人々を熱狂させた。復興と共に、人々は戦争から目を逸らしていった。町には傷痍軍人が数多くいた。日本の発展とともにかつての英雄は、思春期の時の父親に対する嫌悪感のような、そのような感じで彼らを見ていた。また、町にいる傷痍軍人を見ると、父が五体満足で戻ってきたのが、不思議でならなかった。送られた場所が違うだけで、父と何ら変わらなかったはずの人たちが、腕を失っていたり、目が見えなくなってしまっている。軍人以外にも、民間人だって戦争でたくさん死んだ。今、目を逸らしているほとんどの人があちら側に立っていたかもしれない。そんな恐怖を人々は、発展という音で戦争という音を聞こえないようにしていた。しかし、当時の私はなぜ英雄たちを無下に扱うのかが、理解できなかった。

 東京はみるみるうちに発展していった。大学受験真っ只中の時には、東京タワーも着工し始めた。私は浪人をしてしまったので、大学生になった時には東京タワーは完成してしまっていた。二十歳の時に一年生というのは少し恥ずかしかったが、案外浪人というのは多いもので、安心した記憶がある。しかし、入学した年にある事件が起こる。安保闘争が始まったのだ。同い年の奴らは二年生が多かったので、その運動の中にいた奴らが同い年もいるということに驚きを隠せなかった。たった一年でこんなにも大人になってしまうのかと、ショックを受けるのと同時に浪人をした自分が情けなくなってしまった。安保闘争は、自分には少し過激すぎた。あの時の大学生は、安保反対という錦の御旗を掲げる官軍のような立ち振る舞いだった。私は、周りの官軍たちを嫌った。勉強がしたかった。いや、それは多分あいつらを嫌う理由作りをしたかっただけで、本当は勉強なんてしたくはないのは頭では分かっていたが、彼らに反抗するようにただただ勉強をしていた。大学二年の時に、母が亡くなったがあまり覚えていない。覚えているのは、父が泣いていなかったことくらいだ。

 東京タワーが完成し、ビルはどんどん建てられていった。もう日本を敗戦国から抜け出せていないという人はほとんどいなかった。しかし、学生運動が激化していく中で、かつての英雄は今日もお金を恵んでもらおうと、町中に立っている。かつて、敵と見なしていた共産主義の官軍がその隣を通る。一人の学生が

「帝国主義の残滓が、どっかいけや!」

と言って、英雄に向かって石を投げた。英雄は、逃げるようにその場を去った。学生運動のグループは笑いながら、大通りを行進する。年齢的に石を投げた学生と同じくらいの年に軍隊に送られたのだと思う。彼らは何のために死んだのか。彼らはなぜ手足を失わなければならなかったのか。彼らが命をかけて守ろうとしていた命は、今彼らに向かって石を投げている。私は、さっきの彼を追いかけ、五千円札を渡した。彼は、ありがとうございます。と一言だけ言い残し、またお金を貰うためにどこかに去っていった。私はなぜか、お金を恵んだことに罪悪感に苛まれた。あと数年でオリンピックがここ東京で行われるらしい。戦争の匂いはいよいよ消えてしまう。



史実を織り交ぜながら書くのは、難しいですね。

矛盾があってはならないので。

二作品目なので、技術などは悪しからず…


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