ササキさんちの朝
よろしくお願いします。
くるくるふわふわの栗色の髪をママに可愛くツインテールに結ってもらい、いつもはくりくりと良く動く黒い目を目の前の大きな鏡に向けて、マホちゃんはご機嫌にポーズを取った。
今年の春に幼稚園に入ったばかりのマホちゃんは、金色の紋章が左胸に付いた紺色のブレザー、細かいチェック柄でグレーのプリーツのスカート、ウサギのワンポイントが入った真っ白な靴下の制服姿の自分に今日も満足げだ。
腰から下だけをフリフリと揺らせば、マホちゃんの動きに合わせてスカートはふわりふわりと優雅に広がる。
毎朝幼稚園に行く前の彼女の儀式だ。これをしないと今日という日が始まらない。
そんな彼女の様子をニコニコしながら見守るのは、一人娘を愛して止まないママとパパだ。それぞれスマホを掲げて姿見の前で夢中でポーズを決める愛娘をひたすら撮影している。マホちゃんの世界を壊さないように、ひたすらシャッター音だけが響き渡る。
マホちゃんが幼稚園に入園してすでに1ヶ月が経つが、1日たりとも欠かした事は無い。この夫婦も今日の娘を画像に残さないと離れて過ごす数時間を乗り越えられないのだ。
なおママとパパは同じ機種のスマホ(色違い)を使っているが、145cm・38kgのちっさいママと198cm・100kgオーバー元ラグビー選手のガチムチパパではまるで違うサイズに見えてしまう。
結婚する前は「子供と野獣」と揶揄された夫婦である。今もだけど。
そして夫婦それぞれのスマホから鳴り響くアラートの音。決して着信があったわけではない。スマホの目覚まし機能を作動させた音なのだが、この家族のこの瞬間に至っては…朝の儀式修了を告げる音である。朝のルーティーンに時間の経過を忘れてしまうのはいつものことだ。
このシステムを導入する前は全員遅刻するところだった。
アラート音を機にマホちゃんはブレザーと同じ色の帽子を被り黄色の鞄を肩に掛け、ママはママが持つと妙にでかく見える通勤鞄を抱え、パパは調節ベルトを最大限に伸ばしたリュックと『ときめき!きららんラブリン♡』という昨今の幼女少女を虜にして止まないアニメデザインの体操着袋を一掴みにすると、全員玄関に集結する。
そして皆それぞれ靴を履き終え、家の中を振り返ると。
「「「いってきます!」」」
家族揃って元気に家の中へと挨拶をする。リビングに置いている金魚鉢のメダカだけが水面を揺らすばかりだ。
これがご近所でも名物、仲良しでテンションが高めでギャップも激しめの家族の平日朝の光景である。お隣の年配のご夫婦はこの声で朝の連ドラにチャンネルを合わせることも隠れたルーティーンだ。
ママもパパもお仕事をしているが、マホちゃんを幼稚園に送り届けるのは1日おきにママとパパが交代でやっている。お互い「毎日送りたいのに…」と思っているが、愛娘と公平に時間を過ごすための苦肉の策である。
ちなみに幼稚園には送迎バスもあるのだが、夫婦は即決で断った。
今日はパパが幼稚園に送ってくれる日だ。
一度幼稚園の帽子を脱いでピンク色のヘルメットを恭しく被せられ、慎重に(しかしパパの顔はゆるゆるだ)抱き上げられると乗せられた先はママチャリの後部座席。
娘の安全が確保されているか、スカートが捲れはしないか、ヘルメットは緩すぎずキツすぎずになっていないか手早く再確認すると、自らの巨体も愛車に搭乗させた。
「さあ出発!」
「しゅっぱ~つ!」
「いってらっしゃ~い」
家の駐車場の前からニコニコ手を振るママに見送られてマホちゃんとパパは一足先に出発した。
明らかにサイズ感がおかしいことになっているママチャリは、元ラガーマンの脚力に必死で応えながら走り出す。ご近所からは密かに「ポニーに乗る覇王」と呼ばれている。
一度おまわりさんに止められたことがあるので速度は全力の6割程度に抑えての走行だ。――― お巡りさんが思わず止めたのは、拐かしを疑ってのことだったのだが。
元々パパは出勤時は駅まで歩いて電車を使っていたが、愛娘を幼稚園に送るため自転車通勤に切り替えたのだ。かつてパパと電車を共にしていた乗客は少しホッとしている。
ちなみにママが送る日はママの軽自動車である。その為、悪天候の日は必然的にママの日だ。
「昨日ね~せんせいがね~明日はお庭でお絵かきをしますっていっててね~今日おてんきだからよかった~」
「そうなんだね~。描けた絵パパにも見せてね~(ああクソっ、日焼け止め塗ってあげてないじゃないか。日焼けしてお肌が赤くなっちゃたらマホちゃん可哀想!明日からは自分でも塗れるように鞄に入れてあげなければ。今日中に携帯用の子供向けの日焼け止め…できれば『ときめき!きららんラブリン♡』デザインのヤツを入手しないと…。次点で『こりすのマリン』か…。今日の仕事…会議速攻で終わらせてドラッグストアに行く算段を付けなければ)」
「あとね~ハヤトくんがね~おおきくなったら『甲冑戦隊ボーグジャー・火炎のスイコウ』になるんだって~。でもね~マホちゃんはハヤトくんは『月光のヨウヒ』の方がにあうと思うんだ~」
「へ~そうなんだ~。マホちゃん甲冑戦隊っていうのも知ってるんだね~すごいね~(は?ハヤトくんだと?どこの馬の骨だ?うちのマホちゃんに話しかけるなんぞパパは認めておらんぞっ。そもそも甲冑戦隊ってなんだ?毎週日曜日の朝マホちゃんと視ている子供向け番組の中になかったはずだぞ?火炎なのに水耕?月光なのに陽日??意味が分からん。会社に着いたら始業の前にググらなければ…)」
娘を幼稚園に送る間に交わす会話は実に至福の時である。己の後ろから聞こえて来る天使と言って憚らない声は、今日を乗り越える原動力となっている。頭の中は如何に娘の為に尽くすかでフル回転だ。悪い虫が付かないかにも敏感である。
安全の為に後部座席に座る娘の方を振り向けないから正面を見据えたまま会話をする。すると必然的に大声になるわけだが…。悲鳴を上げんばかりのママチャリに乗る巨漢を正面から見れば後部のチャイルドシートは見えないし、走行中のママチャリ上の幼稚園児の声など周囲には聞こえはしない。事情を知らない人々からは、猫なで声(大)で独り言を言いながらママチャリを疾走するスーツを着た巨漢のヤバイ人と思われているが、娘のことで思考が占められているパパは気が付いていない。
家を出てママチャリを全力の6割で漕ぐ事10分。マホちゃんが通う『ユメマチ幼稚園』に到着だ。
ちなみにママの軽自動車では20分かかる。道路の渋滞事情は悪くないのにどういうことだ。
幼稚園の駐輪場にママチャリを駐めて、愛娘を抱き上げる。街中を疾走して汚れてはいないか、知らぬ間に怪我をしてはいないかを手早く確認して娘を地面に降ろす。マホちゃんが地面に足を着けるとき「きらきら降臨!」と決めゼリフを叫ぶのは『ときめき!きららんラブリン♡』の影響である。
この瞬間の度、パパは内心身もだえて叫びたい気持ちになるが外なので一応弁えて微笑むだけにしている。しかし何か悪巧みを思いついたかのような極悪人顔の様相になってしまうため、マホちゃん以外の園児とその親御さんはビビりまくっている。
娘のヘルメットを帽子に替えて前籠に乗せていた己のリュックと娘の体操着袋を片手で持ち、反対の手は娘と手を繋ぎ、身長差が激しいのでやや背中を丸めて園内へと進む。本当は抱っこして歩きたいが「もう幼稚園のおねえさんだからあるく!」という愛娘の宣言に従ってのことだ。
初めてそう言われた時は娘の成長に喜ぶべきか、少しずつ少しずつ離れていくことに寂しく思うかパパは悩んだ。悩み過ぎて娘がお嫁に出るところまで想像してしまい、職場で「嫁には出さない!」と叫んでしまった。娘を溺愛していることは会社中に知れ渡っているので、同僚からは生暖かい視線を頂き、上司からは「せめて仕事中は会社のことも考えてね…」と窘められた。
ユメマチ幼稚園は、今時は珍しくも無くなったが男性教員もいる。しかし若い男性職員は決してお出迎えに現れない。なぜならパパに超睨まれたことがあるからだ。鬼も殺しそうな視線に男性職員は怯えた。周囲にいた園児も泣いた。睨むだけで、理不尽な要求をするモンスターペアレント、というわけではないので、送り迎えの出禁にすることも出来ない。
それで幼稚園の玄関にはマホちゃんが登園するまでは女性職員が対応する決まりとなった。ママが送迎の日も同様である。パパかママかどちらが送るかはおおよそ交互であるが、念の為だ。
「じゃあパパいってらっしゃい!」
「うん、マホちゃんもいってらっしゃい」
そして大男と幼女はハイタッチをして別れるのである。娘を溺愛している割にずいぶんあっさりとした別れであるが、ここまで別れの時間を短縮させるまでに職員達の並々ならぬ努力があったことは事実だ。
今生の別れと言わんばかりに、最初の頃はお別れに30分以上かかっていたのだから…。
離れたくなくてぐずる娘…ではなく、終いにはむせび泣き出す大男を宥めて会社に向かうよう説得する幼稚園職員は大変気の毒であった。ちなみにマホちゃんは「パパ泣かないで」と頑張って慰めていた。
それを目撃した他の親御さんは「せめて自分は聞き分けの良い親でいよう…」と心に決めた。
そしてパパは愛娘が教室に恙無く入って行くのを確認すると名残惜しく思いながら駐輪場へと向かう、つもりが『ときめき!きららんラブリン♡』の体操着袋を渡し忘れたこと思いだして正門から大股で元来た道を戻る。
うっかり走ると他のお子さんを吹っ飛ばしかねないので慌てずに。自分が周囲に与える物理的影響をパパはちゃんと自覚しているのだ。
顔の怖さ(主に笑顔)も一般的で無い事についても早く気が付いてほしいところである。
幼稚園の玄関まで戻るとちょうど先生(男性)が顔を出していたので「ゆり組のササキマホに渡して下さい」とピンクの割合が多い体操着袋を渡す。
先生(男性)はビビりながらも体操着を受け取るが冷や汗が凄い。この先生こそマホちゃん入園当初、パパの視線をまともに食らってしまった男性教員だ。マホちゃんが教室に入ったので他の園児をお出迎えするため表に出てきたのだが、覇王が戻って来るとは運が無い。
パパ的には入園式のとき最初に会った先生に「娘をよろしくお願いします」という念を込めて挨拶をしたつもりだったのだが、なにせパパは通常時でも目力が凄まじい。顔自体も巨匠が制作した仁王像並の迫力である。ちょっと表情を意識しただけで威力の増大は計り知れない。
特に力を入れて挨拶をした最初の先生がたまたま男性だったこともあり、お陰で「娘に手を出したらコロスぞ…」という誤解を与えてしまった。視線のみで男性職員へ容易にトラウマを植え付けるくらいだ。
この迫力満点の顔面に幼稚園関係者から理解が得られるまでには、あと1年かかることになる。
無事に体操着袋を届けると今度こそパパは駐輪場へと戻って行った。リュックを背負い、マホちゃんのヘルメットは前籠に乗せて再びママチャリに跨がると自分の職場へと向かったのであった。
ママチャリの苦行は続く。
そして翌朝の幼稚園の始業前ミーティングでは、登園時間後に正門を閉めるまで男性職員は玄関へ出ない事が決定されたのだった。
甲冑は防具じゃ。