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 鼻腔をくすぐるのは、生地にたっぷり混ぜ込んだバターと小麦粉の甘い香り。


 焼きたてパンの美味しい匂いが眠っていた食欲を目覚めさせる。


「おはようございます」


「おはよう。ユヅキ」


 結月と呼ばれた少女は、長い月日撫でられ続け、艶の出た手すりに軽く手を掛けながら階段を降り、笑顔で挨拶をした。

 そしてそのまま階下で待つ女性から渡されたお皿を受け取り、食卓に並べる。

 四人掛けテーブルに三人分の朝食の支度。

 これで準備が整ったのだろう。椅子に座るよう促される。

 その前に二人並んで座るのは、ここのパン屋を営んでいるらしい夫婦。そして、この夫婦の子ども……娘さんは一緒に住んではいないらしく、結月は今、その娘さんの部屋を借りて生活させてもらっている。


 結月が一晩、薄寒い闇の中で夜を明かした翌朝。

 行き場を失い、狭い小道にうずくまっている彼女にその手を差し伸べてくれた女性は、住宅兼パン屋の中へ招いてくれ、戸惑っている少女に食事をくれただけでなく、住むところまで与えてくれた。

 何故か申し訳なさそうにクローゼットの中を見せてくれたが、何故そんな表情をするのか結月には分からなかった。確かにクローゼットの中はまだ衣装が入りそうな余裕はあるが、それでも約一週間分のワンピースが並んでいるので、逆にありがたい。色だってピンクに青に、と、とりどりだ。

 今日はミントグリーン色のワンピースを身に纏わせてもらっている。スカート丈が若干膝上なのが気になるくらいで、胸も緩すぎるとかキツすぎるということもなく、ちょうどよい。

 背中の中ほどまで、若干癖がありながらも丁寧に伸ばしてきた黒髪は、低い位置で邪魔にならないようにまとめている。

 

 結月は目の前に座る夫妻の真似をし、胸の前で両手を組んだ。

「…………」

 食前の祈り。

 だが、彼女はそれを同じように言葉にはできない。

「……」

 目を閉じ、注意深く耳を傾け、そろそろだろうか、というタイミングをみて

「いただきます」

 と、ふたりと同じタイミングで食事に手をつけ始める。

 並ぶのはクロワッサンに、奥さんが仕込んでいるジャム……今日はマーマレード、と、カフェオレ。

 ここの生活にも少しずつ慣れてきた。

「……」

「……」

 目の前のふたりは何か話しながら食事を摂る。

 ここの主人が作るパンは、味だけでなく、匂いまでとても美味しい。ひとくち食べると思わず笑みが溢れるくらいに。

 温かい食事がとれるのは、本当に幸せだ。

 思わず溢れる心からの少女の笑みに、夫婦は目を見合わせて微笑む。


 ここへ来て初めての頃は、お店の手伝いをしようと頑張った。

 分からないことが多いながらも手伝っていたが、このお店は夫婦で仕事が成り立っているくらいのこじんまりとした店内だったので、正直、自分がいなくても成り立っていた。

 わたし、邪魔になっちゃうな。

 心の隅でそう感じ、ただお世話になる事に罪悪感を覚え、ここから出ていく事を日に何度も考えた。


「今日できることを明日に延ばすな」が座右の銘である結月は、自分にできることを必死で探す。

 右も左も分からない彼女を理由も聞かずに世話してくれる夫婦に、何かしたかった。

 ただボーッと一日を過ごすのは自分に合わない。

 面倒くさいだの真面目だと言われてきたが、それが染み付いてしまっているのだから、変えようとしてもなかなか難しい。

 そんな中、部屋の中にギターに似た楽器を見つけた。

 埃がかぶってしばらく手入れしていなかったそれは、結月の手にしっくり馴染む。

 右手で弦を弾いてみると、若干音は狂っているものの、チューニングすればしっかり弾けた。

 少しだけペグを巻いて、何度かソの音を調節し、残りの弦についても音を整える。


 何か歌えるかな。

 綺麗に音の奏でるそれで、少し指慣らししながら、頭の中で歌を歌う。


「…………」

 息を吸い……


「…………」

 音を探りながら、歌を歌う。


「…………」


 よかった。

 忘れてない。

 結月は喉から声を出した。

「…………」

 言葉を紡ぐ。


 大丈夫。


 たった数日。

 言葉を発しないだけで、忘れたりはしなかった。


 声の出し方を。

 しゃべり方を。

 口の動かし方を。

 喉の鳴らし方を。

 音の震わせ方を。


「…………」


 最後の音が終わる。


 ふぅ。


 結月は大きく息を吐いた。



「よかった」

 そしてギターを抱きしめる。

「わたし、まだ話せるよ」

 


 ここへ来て言葉が通じないと分かったのは、目の前から聞こえる音を認識してすぐに感じた。

 目の前の女性が自分に向けて話してくれていると分かり、口元を凝視してしまう結月は、今思うと失礼だっただろう。

 そんな少女の様子をみて、迷う事も疑う事もなく自分の家へ招き入れてくれた奥さんには感謝しかない。


「ごちそうさまでした」


 ミルクたっぷりのカフェオレも飲み干し、結月は両手を合わせる。


 簡単な挨拶がようやく間違えずに口にできるようになったのは、つい最近。


 気付いたら、作り笑いが上手になっていた。



 

 



 


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