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水溶性マーメイド〜絵描き×歌姫×共依存〜

作者: 水輝 聖一

元々連載で考えていた内容のため、

短編としては少し長めです。

眠る前に楽な姿勢で読んでいただければ幸いです。

「なあ、人魚って、いると思うか?」


 煤けた八畳間の片隅で、ベットに腰を掛けた青年が呟いた。


「……どうしたの。何か変なものでも拾って食べた?」

「茶化すなよ義姉さん、真面目に聞いてるんだ」


 義姉さんと呼ばれた線の細い女性は、青年に背を向けたまま、ひらひらと片手を揺らす。


「上が魚の方なら、会ってみたいものね」

「聞いた俺が馬鹿だった」

「本当にね。冷蔵庫にスイカ入れといたから。熊本のおばあちゃんから」

「ああ、後でデッサンのモチーフにするよ」

「食べなさいよ、さっさと」

「へいへい」


 他愛のない会話を終え、部屋のドアノブに手をかけようとした女性は、ふと何かを思い出したかのように振り返る。後ろで束ねた艶やかな黒髪が踊るように跳ねた。


「そういえば詩末(しずえ)、戻したのね」

「え、何が」

「一人称、昔の方に。そっちの方がらしいわよ」


 思いもしない方向からの指摘に、青年の表情が少しだけ引き攣る。


「人魚さんの影響かしら?」


 言いたい事は全て吐き出したのだろう。女性は踵を返し扉に再び手をかける。青年が刹那の中で見た彼女の横顔は、僅かに微笑んでいた。


 蝉時雨に取り残された部屋の中、青年……尾張詩末(おわりしずえ)は呆けた顔で、去る義姉を見送る。それは残暑の熱気が滲む昼下がりの出来事だった。







 全てのうたは海へと還る。


 この幻想世界マザーズリィンの水底を故郷とする、水守族アクアリアに伝わる言葉だ。


 全ての生命の起源が海に在るように、帰結もまた海に在り。故にそこに至る全ての人生ものがたりは海へと還り、星が記憶し語り継ぐだろう……とは、水守族の信仰の根源でもある【はじまりのうた】に記された一節だった。


 水守族アクアリアとは半身は人、もう半身は水生生物の姿をした種族の総称である。

 船乗りの中には、その一部を指して【人魚】と呼ぶ者も多く、今ではそちらの俗称の方が聞くに明るい。


 水の中で生活を営む水守族には、書物に残す、という文化は存在しない。だからと言って、知性に乏しいという訳ではなく、寧ろ博識な者の方が多い。その理由は単純なことで、水守族が【はじまりのうた】信仰に基づき、歴史や文化、そして戒めを“歌”として後世に残すからである。


 中でも重要性や秘匿性の高い“歌”を唄い継ぐ、重責を担う者はこう呼ばれている。


 歌姫ディーヴァ


 その代で最も麗しい歌声と、荘厳な歌唱力を持つ者に与えられる、一枠限りの栄誉ある役割。

 次代の歌姫に選ばれたのは、齢16歳の人魚、エレンだった。


 エレンはよく笑い、よく怒り、よく泣く。

 感情の起伏が豊かな思春期の少女だ。

 それ故に、歌にこめられた思いを読み解く力に長けていた。

 彼女の歌はまるで、魔法のように聞く者の心を震わせた。

 そんなエレンが歌姫の見習いに選ばれた時、歌唄いの誰もが羨み、同時に納得した。

 彼女であればと。


 ただ一人、エレン本人を除いて。


「ねぇ、一生他人の歌を唄う人生は楽しい?エレン」


 エレンは自問自答を繰り返す。

 唄う事は好きだ。

 今までだってそうだ、着の身着のままに唄ってきた。

 でも、自分の唄う歌を他人に選ばれる“今”は本当に楽しいのか。

 その人生を終えた時、果たして彼女は満足したと言えるのだろうか。

 皆が言う、歌姫は栄誉ある素晴らしいお役目だ、と。

 でも本当は……。

 そんな考えが頭を過る度に、エレンは自分がどうしようもなく孤独な存在なのだと自覚する。


「唄う自由を奪われたら、私には何が残るのかな」


 だから彼女は、自分だけの歌を探していた。

 歌姫が語り継ぐべき新たな英雄譚に出会う事ができたなら。

 誰かが残した歌ではなく、自分が見つけた歌を残す事ができたなら。

 それを拠り所にして、生きて行けると、そう信じて。


「……まだかな」


 全ての詩が海に還るのなら。

 私の求める、私だけの歌は、いつになれば私の元へ還ってくるのだろうか。

 そんな淡い期待を胸に抱きながら、光差す水面を見上げ、エレンは今日も待っている。


 誰かの歌じゃない。


 自分のためだけに紡がれる、心を震わせる物語を。







 鉛筆を削る。


 それだけで詩末しずえ八畳へやは世界で一番静かな場所アトリエになる。

 鉛筆を削る。研ぎすます。外の喧騒は遠くなる。


 思考を削る。心を削る。削る。不要なものは全て。


 そうすれば美しいもののみが残る。美しいもののみが描ける。絵画とは想像し生み出すものではなく、自身を感性のままに削り、残ったものを指すのだと、そう信じて。ただひたむきに削る、削る。


 数分の後、鉛筆を削り終えた詩末は、カッターナイフの刃を引き、万全に仕上がった鉛筆を天に掲げほくそ笑む。目の前には純白のスケッチブック、そしてたった今削った鉛筆が5本。ここで平静に傾く天秤は一転する。心は次第に高揚し「描きたい」という直情的な欲望が沸々と湧き上がる。処女雪のような紙面に、漆黒の牙を突き立て、嬲り、思いのままに線を奔らせ──そこで牙が折れる音がした。


「……力み過ぎたか」


 大きな樹の絵だった。線の一本一本が荒々しく何の秩序もない、酷い落書きだ。そんな事を考えながらスケッチブックを閉じ、ベッドに倒れ込む詩末。


「まだ削りきれてなかった、かな」


 尾張おわり 詩末しずえは荒れていた。荒れる理由は勿論ある。それがふと詩末の脳裏を過ったのだ。嫌な思い出とは、一度湧き上がると中々すぐに枯れてはくれないもので、昨日の批評会での出来事が悶々と浮かび上がってくる。







「君の絵は実に美しいよ、詩末くん。計算された構図、約束された配色、型にはまった世界観。うんざりする程に美しい絵だ。わかるかい?君のこれは芸術品ではない。ただの綺麗な絵なの」


 目の前に立つ白髪の老人は恐らく惚けている。詩末は最初、そう考えた。汚い絵より綺麗な絵の方が評価されるに決まっている。綺麗な絵とは一定の秩序やお約束の上に成り立つものだ。そのお約束を破綻させない事こそ、この世界で言うところの『技術』や『技量』なのだと詩末は信じていた。技術に基づく綺麗な絵が芸術品でないわけがない。よってこの老人は惚けているに違いない。そんな詩末の考えなどお構い無しに、老人は尚も言葉を続ける。


「芸術ってね。世界観が額から飛び出すのね。君みたいに額の中で完結したりしないの。嗚呼、尤も一つの技法としてわざと世界観を狭める人もいるだろうけど、そういった絵にはそういった絵の奥行きが出るわけ」


 そこまで聞いて漸く、詩末は自分の絵が正当に評価された上で「凡作」と蔑まれている事に気がついた。


「技術に問題があるわけじゃないよ?これは感性センスの話しだからね。まあ強いて言うなら額縁と絵の相性はイマイチかね。額も絵の一部だから、そこは妥協しないでね」


 確かに額縁の選択には思う所がない訳ではなかった。決めていた予算や納期の都合上、妥協した面もある。しかしセンスという言葉を出された以上、詩末もただ黙っている事はできなかった。


「僕には、センスがないと、言いたいのですか?」


「はは、どうかな。散々扱き下ろしておいてなんだけど、絵って人によって受け取り方が違うからね。ウケるウケないは受け手の人生観や経験に左右されるから、結局は好き嫌いの話しさ」


 老人はやれやれといった表情で一息吐くと、ただね、と続けて語り始めた。


「大衆に受け入れられる作家の絵は、どれも心の深淵……てか人の根源?なんと言うか、人間という生物の本質に迫っている、と私は思うよ。年の功が成せる技なのかな。ほら、君は今年で25だろ?まだ若手だから」


 この時に抱いた気持ちを何と例えようか。羞恥心と憤り、様々な負の感情が詩末の心に渦巻く。作品の評価に年齢など関係ない。目の前の老人はその事をわかって言っているのだ。明らかに侮られている。このままでは顔から火が出るのではないか、と詩末は本気で考えた。


「尾張先生……君の父君が何故巨匠と呼ばれていたのか、詩末くんに無くて父君が持っているものを探しなさい」


 最後に父を引き合いに出された事が何より悔しかった。父の絵は国内で高く評価されている。故にその名前には反論を許さないだけの力があるのだ。比べられて、劣っていると指摘されれば返す言葉もない。だから詩末は言いたい事を全て呑み込む。絵が綺麗で何が駄目なんだよ。心の中でそんな言葉を呟くのが、精一杯だった。







 音が聞こえた。

 穏やかで、優しくて、暖かい。

 振れる揺籠のような早さ、間隔で響く静かな音。

 そう、これは波の音だ。


 いつの間にか眠っていた事に気がついた詩末は、ゆっくりと瞳を開く。そして飛び込んで来た白光にたまらず目を細めると、そのまま瞳を閉じて寝返りを打った。


 暖かく、少し固い大地の感触が心地よい。


 このままもう一度眠ってしまおうか。微睡みに身を委ねた意識の縁で、先程一瞬見えた光景を脳裏に浮かべ詩末の口角はわずかに吊り上がる。


 白いの上に横たわる腕と、その先でしっかりと握られた鉛筆。



 鉛筆持ったまま。

         寝るとか。

              どんだけだよ。



 そんな事をぼんやりと考えながら、詩末の意識は再び、波の音にさらわれた。












「わ!わ、わ、わぁ!!すごい!すっごーーーーい!!」



 気の抜けた、けれども良く通る女性の声が聞こえた。

 だからこそ、詩末の意識は急速に覚醒する。


 女性・・


 生物学上、男性と対を成す存在であり、一人暮らしの身で彼女がいない詩末には縁のない、部屋にいるはずのない、生息区域がまったく別の!そんな生物が女性なのだ。中でも大和撫子種は近年レッドリストに加えられ国を挙げての保護活動が以下省略。


 兎にも角にも現状把握だ、寝ている訳にもいかない。そう考えた詩末は上体を起こすと、眼前には視界いっぱいに広がる水、つまり海が広がっていた。自室で寝て起きたら海、ああ、これは夢だな。と早々に無難な落としどころを見つけ、一先ずは自分を納得させたものの、口内に入り込んだ砂利のリアルな嫌悪感がそれを否定する。唾と共に砂利を吐き出し、シャツについた砂を払い、股間の上にいたヤドカリを浜に捨てる。そこで漸く自分が砂浜で眠っていた事を『現実』として受け止めると、記憶を辿り情報の整理を試みる。


 1:自室で絵を描き……。

 2:ベッドに倒れ込み……。

 3:起きたら海。是如何これいかに。


 眠気は弾け飛び、理解は追いつかず、頭の中は真っ白。

 この時、詩末の左脳は宛らポップコーンと化していた。


「ほぉー。はぁー。お、おおぉぉおぉ!?」


 そんな詩末の困惑などお構い無し!と言わんばかりに、能天気な声が潮風に運ばれてやってくる。詩末は声のする方へ顔を向けると、すこし離れた岩場の上に、腰をかける少女の姿を見た。晴れた日の空のような、澄み切った水色の髪、風に揺らめくおさげ、白い肌、そして彼女の手には……


「あ、おい!僕のスケッチブック」


 勝手に見るな、と続けるつもりだった詩末は、スケッチブックから目を離しこちらを覗き込む少女を見て、思わずその言葉を呑み込んだ。理由は二つある。一つ、年齢は16、7くらいだろうか、無邪気に瞳を輝かせたその少女が、あまりにも美しかったから。



「ねぇ!ねぇねぇ!そこな人間さん!!」



 彼女と目が合った。一瞬とは言え、年端も行かない少女に見蕩れてしまった。そんな気恥ずかしさから視線を下げる詩末。白いノースリーブ越しからでもわかる、思春期特有の健康的で美しい体のライン、エメラルド色の光沢を放つ鱗、上質な絹を連想させる透き通った尾ヒレ。──尾ヒレ?



「どんな魔法を使えばこーんな綺麗な絵が描けるの!?」

「え?」



 二つ、それは彼女が人魚だったから。



「ねぇ、おしえて?」








挿絵(By みてみん)








「おーい!こっちこっちー!」


 人魚の少女は手を大きく振りながら、詩末のことを呼んでいる。呼んでいる事が詩末にわかる、それはつまり日本語が通じるという事を意味する。何故人魚に言葉が通じるのかは謎だが、詩末にとっては都合が良かったため、一先ずはそういうものだと納得しておく。


「ほら!もっとちこう!こっちからは寄れないの!」


 確かに、向こうに足がないのだから、詩末から赴くより他はない。詩末は立ち上がると、人魚の少女が待つ岩場に向かい、ゆっくりと歩を進めた。

 古典における人魚の中には、人を誘い海に沈める輩がいる事を、詩末は知っていた。しかし、不思議と警戒する気にはならなかった。岩場に腰をかける人魚の少女からは一切の邪悪さを感じられない。或は変な訛りに毒気を抜かれていただけかもしれないが。


 詩末が手の届く手前まで人魚に近寄った時、琥珀色の瞳を輝かせた人魚の美少女は、手に持ったスケッチブックを前に突き出して笑った。

 

「これ、すごいね!」

「え、え?」


 最初、詩末には何がどうすごいのかがわからなかった。人魚の少女は単純に絵を褒めたつもりだったのだが、つい最近自分の自信作を酷評された詩末は、素直にその言葉を受け入れられなかったのだ。


「そう!絵!これ、あなたが描いたんでしょ!?」

「いや、そうだけど」

「やっぱり!そうだよね!ねえこれどこの絵?」


 まさに興奮冷めやらぬ、とでも言うべきか。少女の勢いに押されるように詩末は答える。


「京都。……って何普通に答えてるんだ、というかまず、ここがどこ?」

「キョウト!じゃあこっちは!?」

「四日市の工業地帯だけど、じゃなくて!ここどこ!?」

「ヨカイチ!ヨカイチすごい!!」

「四・日・市、な」

「うん!ヨカイチ!!」


 嬉しそうに尾ヒレをパタパタと動かす人魚の少女。まるで犬の尻尾だな、と詩末が考えている間にも、次々とページが捲られていく。そしてその度に人魚の少女は感嘆の声をあげるのだ。流石に段々と恥ずかしくなってきた詩末は、スケッチブックを奪い返す事もできず、俯いて、人魚からの質問攻めに答え続けた。


「ねえ、これは何?」

「自由の女神」

「自由かぁ。動くの?」

「動かん」

「自由で神様なのに?」

「動かないのも神様の自由だ」


「これ何?」

「ピサの斜塔だな」

「これ描いた時、寝違えてたの?」

「こういう塔なんだ!」


「わ!丸くてきれいが沢山だよ!」

「京都にある和傘の専門店だ。面白いだろ?」

「わ、がさ?」

「ああ、そこからか。傘は雨を凌ぐための道具な。濡れたら困るだろ?」

「別に?」

「……だろうな」


「これは?」

「空港、あー飛行機が飛ぶところ。わかるか?」

「ヒコーキ、なんぞ?」

「空を移動する乗り物だよ」


 飛行機がピンとこないのか、人魚は顎に手を添え、頭を捻った。人魚でも考える時のポーズは人と変わらないようだ。そのまましばらく唸っていた少女だったが、はっと顔を上げると、自信に満ちた表情でこう言った。


「……これ、飛竜ね?」

「あ、これ長くなるヤツだ」


 直感的に詩末は悟った。馬鹿正直に話しに付き合っていては、埒があかないと。思えば先程から目の前の人魚にペースを狂わされてばかりで、肝心な疑問が何一つ解決されていない。それどころか新しい疑問が増えていくばかりで、詩末は頭が痛くなってきた。


「はは、竜なんているわけ……いないよな?」


 果たしてそうだろうか。詩末の常識を、目の前で首を傾げる少女の存在が否定する。もし、仮に、ここがそういった非常識な存在が集う場所であった場合、詩末に防衛手段はない。故に詩末は祈るように少女からの返答を待った。人魚の口から「竜なんていない」と聞くまでは気が休まらない。


「え?いないよ?」


 よって、非常識にんぎょ非常識りゅうを否定した時、詩末は心の底から安堵した。


「だ、だよなぁ」

「もー、竜なんているわけないじゃん!」

「だよな!」


「こんなところに」


「どこだよ!ここは何処だ!!」


 世界で一番短い心の休憩だった。







 詩末は目の前の人魚に、自身の状況を簡潔に伝える事にした。本当に困っているとわかってもらえない限り、話しを聞いてもらえないと思ったからだ。自室で眠り起きたら知らない場所にいた事、元の場所に帰りたいという旨、そして最後にここが何処なのかを改めて聞いた時、人魚の少女は複雑な表情を浮かべた。


「うーん、よし!沢山素敵な絵を見せてもらったし、この場所の事教えたげる!本当はあんまり教えちゃ駄目な場所なんだけど、人間さんは特別!」


 ここで人魚の少女は一度、大きく深呼吸をする。


「私の名前はエレン、水守族アクアリアの歌唄い。綺麗な絵を描くそこな人間さん」


「詩末だ」


「では、シズエさん。私、今から唄うから、後で感想聞かせてね」



 詩末は愕然とした。聞き間違いでなければ人魚の少女改め、エレンは唄うと言ったのだ。現在地を聞いただけで、何故そうなるのか、詩末にはさっぱり理解できなかった。これが異種族間交流の壁か、もはやカルチャーショックというレベルを超えている。とは言え、童話に登場するあの人魚が唄う生歌だ、一生に一度とて聞けない貴重な機会とも言える。葛藤の末、大人しく歌を聞く事にした詩末は、再び浜に腰を下ろす。一方、エレンはスケッチブックを傍らに置くと、胸に手を当て瞳を閉じた。



「お題目は【水守族の休息地アクアリアンズ・レスト】」



 その瞬間、波の音が、止んだ。

 ──人魚の歌が始まる。







 竜の瞳に流るる涙

 いつしか褥は墓標となりて

 水清く澄む入り江とならん


 彼の地、人に知れ渡る事無く

 集うは水守、求むは癒し


 嗚呼、水守族の休息地

 悠久の風、還りし場所

 潮の流れに身を任せ、いつか彼の地で唄いたい


 嗚呼、水守族の休息地

 夢見るは、虹色の珊瑚礁

 深き緑に包まれて、いつか彼の地で眠りたい







 エレンが唄い始めた瞬間、詩末は波の音が遠ざかり消えるような錯覚を覚えた。まるで周囲で響いていた音という音全てが、その歌声に舞台を明け渡すかのように引いて沈むと、硝子の鈴のように透き通った声が物語を紡ぎ始める。


 水守族の休息地アクアリアンズ・レストとは、ローレラ大陸の隅に存在する小さな入り江の俗称である。霊峰ヒララ=カンダを囲う、荒波を押し返す切り立った崖、その一郭に存在する、不自然に窪んだ地形。この入り江だけは、まるで何かに守られているかのように波が穏やかで、澄んだ水底には、ここでしか見られない虹色の珊瑚や、瑠璃色の小魚が群生しているとか。そんな、秘境とも言えるこの地には、昔から竜にまつわる伝説があった。曰く、戦い傷ついた古竜が墜ちてできた入り江、つまりここは竜の墓標だった。竜の死を哀悼した水守族アクアリアは、祈り尊ぶために足を運ぶ。いつしかその風習が形骸化し、入り江は水守族が羽を休める(ヒレ休めと言うべきか)ための休息地となった。水守族と人間の関係は良好ではない。そのため、周囲の潮の流れに守られ、断崖の底に位置するため、陸路からの侵入が困難なこの地は、水守族にとって都合の良い場所だった。水守族はそこで思いのままに唄い、語らい、時には愛を確かめ合う。彼の地に平穏と安らぎを求めて。


 故に水守族の休息地アクアリアンズ・レスト

 そう、詩末が今いるこの場所こそ、正しく彼の入り江だった。







「…………っ」



 絵描きが頬に流れ伝う雫に気がついたのは、歌が終わったその時だった。


 詩末は冷徹な人間ではないが、自分が歌を聞いたくらいで涙を流す程、感受性の高い人間だとも思っていなかった。人並みに情は持つし、映画や小説を見て涙することもある。しかし、それは登場人物の心理に迫り、共感を促す、計算された演出の上に成り立った感動だ。少なくとも、詩末にとって感動とは、数分と限られた時間の中で得られるものではない。だからこそ、エレンの歌は、詩末に少なくない衝撃を与えた。

 何故自分は泣いているのか、そもそもこの涙が感涙なのかすら、詩末にはわからない。しかし、不思議と気分は悪くなかった、というかむしろ心地よい。先程まで抱えていた心の靄が晴れ、憑き物が落ちたかのように清々しい気分だ。


「この歌を聞いて泣く人って、結構いるの。ちょっと問題があってね。もう、ここに来る水守族はほとんどいなくなっちゃった。けどみんな、もう一度この場所に戻りたいって、今も願っているから」


 この時、詩末はエレンの意図を理解した。エレンが急に唄いだした理由は、それが一番手っ取り早く、正確に、詩末の疑問に答えられると思ったから。決まった歌詞があるのであれば、無駄に言葉を選ぶ必要もない。そして、この場所について教える事を躊躇った理由は、人間に秘匿する必要がある場所だったから。それでも教えてくれたのは、詩末がすでにこの場所に辿り着いてしまったからか。或は、とある問題を抱えた水守族は、すでにこの場所には近づかなくなっていたからだろう、と。この推測は大凡正しい。付け加えるなら、気分屋のエレンがただ唄いたかっただけ、というのが一番大きな要因だったりするのだが。



「えーと、それで。どう……だったかな?」



 エレンは両手で持ったスケッチブックで、顔の下半分を隠し詩末を覗き込む。知り合い以外の前で唄うのは久しぶりだった。ましてや人間の前で唄ったことなどなかった。にも関わらず、いや、だからだろうか。いつも以上に歌声に気持ち・・・が乗ってしまった。唄い終わった今、エレンはそのことを自覚してしまい、急に恥ずかしくなってきた。

 一方の詩末は、心地よい歌声の余韻から未だ抜け出せず、求められた感想に対する言葉が上手くまとまらなかった。手放しに賞賛する事は簡単なのだが、自分の知る語彙では、逆に歌の芸術性を貶めてしまうのではないか、そう考えていたのだ。よって……


「その、すまん」


 出た言葉は謝罪だった。そんな詩末の気持ちなど伝わるはずもなく、エレンの眉はハの時に下がる。唄っている時は凛としていた瞳も、だんだんと潤い揺れはじめ、そこで漸く自身の失言に気がついた詩末が弁明を始める。


「いや違うんだ。正直、すごかった!すごく、綺麗、だった」


 が、それがちゃんとしたフォローになったかは別の話しである。

 上手く褒める事すらできない男に、上手く弁明などできるはずもなかった。


 しかし、それがまた何故か、この上ない程にエレンの乙女ツボに入った。当たり所が悪いと「褒め言葉」は「殺し文句」となる。不器用だからこそ生まれた、素直で端的な詩末の賞賛は正にそれだった。 


「お、おぉ祖末さまでしたぁっ!」


 エレンは顔を真っ赤に染めながら、なんとも拙い言葉を捻り出す。幾百の伝承を修めた人魚の歌姫といえど、まだ少女。エレンはたまらず、スケッチブックで顔を覆い隠した。


「いや、何で顔を隠すの」

「だってだって!」


 かと思えば。ちょこんと、顔の上半分を出して心の内を明かす。


「その、すごい絵、たくさん見せてもらって、こっちもいつもより熱が入ったっていうか、そんな時に恥ずかしいこと言うから」


 そして話し終えれば、またすぐに顔を隠すのだ。

 人のスケッチブックだという事も忘れて。

 詩末は詩末で一杯一杯だったため、少女の心の機微になど気が回るはずもなく。


「恥ずかしいこと?」

「綺麗だ……って。だからちょっと、意識しちゃって」


 指摘されて初めて、自分の言動を振り返り、そこで漸く自覚する。初対面の人外相手にチープな口説き文句を使う絵描きがいるらしい。そいつは誰だ。そう、自分だった。



「ばッ、違ッ!それは歌の話しで!」


「あーあーあー!わかってる!それはわかってて、でも一瞬びっくりして、それも含めて恥じておるの!」


「ちょ、勘弁してくれ!それじゃ俺がまるで、とお」


「わかってる!わかってるから!この話しお終い!」



 スケッチブックから飛び出した停戦協定。

 そして訪れた束の間の沈黙。

 寄せては返す波の音を幾度か繰り返し、沈黙を破ったのは人魚の少女であった。



「ぷ、くくく、ふふふふふ、あはははは」

「何だよ急に、何が可笑しい」

「さっきシズエ、すごーく慌ててた。なんかちょっと可愛くて」



 可愛いと言われて素直に喜ぶ男は少ない。例にも漏れず、詩末は複雑な心境だった訳だが、無邪気に笑う少女を見ていたら何か言う気も失せてしまう。


「こ、こんなに笑ったの久しくないかも」

「あんま年上をからかうなよ」

「年上……ふむふむ」


 どうやら詩末の言う『年上』というワードが引っ掛かったらしいエレン。よくよく考えてみれば、彼女は人魚なのだから、見た目の年齢がそのまま人間の感覚に当てはまるとは限らない。とはいえ実際の話し、人魚の寿命もさほど人間と変わりはないのだが、詩末がそれを知るはずもなく。


「えーと、もしかして、人魚……さん?」


 手探りの言葉を投げかけた。


「敬称やめれ!あと名前はエレン!呼び捨てでよいから!」


 そんな年齢じゃありません!とご立腹のエレンだが、実は次期歌姫として、人魚の間では様づけで呼ばれている。エレンは堅苦しい空気を好まないため、よくこの入り江に逃げ込むのだが、そこでたまたま出会った人間にまで、そんな扱いを受ける事は勘弁願いたい。そのためエレンは、名前の呼び方から距離を縮めようと試みた。


「私じゃなくてね。シズエってものすごく童顔だけど、実は結構な年齢?」


 異種族、そして異性。しかも初遭遇。さらに付け加えるなら、相手は何やらすごい絵描き。呼び捨てで名前を呼ぶには些か勇気が必要だったが、詩末はまったく気にした様子を見せずに言葉を返す。


「僕か?いやいや童顔て、そんな訳ないだ……」


 なんとなく、逸らした視線の先で見た光景に、詩末は言葉を呑み込む。


 エレンが腰を下ろしている岩場、その窪みに溜まった海水に映る自分の姿は、毎朝鏡で見ていた自分よりも、確かに若返っていた。それこそ元の世界で、高校生と詐称しても誰も疑わないレベルで、だ。詩末自身は気がついていないが、実は身長もわずかに縮んでいる。


「……マジか」


 再び、彼の左脳は白く爆ぜた。自身の周りで起きた変異ではなく、自身に起こった変化に、何がどうしてこうなったのか、暫く頭を抱える詩末なのであった。







 詩末の脳裏には様々な疑問が浮かび上がっていた。知らない場所に若返り、ローレラ大陸に霊峰ヒララ=カンダ。絵の着想を求めて海外に足を伸ばした事もある詩末だったが、それらはまるで聞いたことのない地名だった。人魚と人間では地名に関する認識が異なるのだろうかとも考えたが、空に浮かぶ大小二つの白い月を発見した詩末は、馬鹿馬鹿しくなって深く考える事をやめた。



「ま、いいか」


 考えても答えが出ない事を考える程無駄な事もない。ここは知らない場所で、人魚や竜がいて、不思議な現象が起こる。浦島太郎ふけるのは勘弁願いたいが、若返る分には問題ない。詩末はそういうものだと結論付けて、今後の事を考える事にしたが、何を考えればいいのか思いつかない。そんな詩末の様子を、しばらく見守っていたエレンだったが、まるで人形のようにピクリとも動かないので呼びかけてみる事にした。


「シズエ、どしたの?」

「ああ、どうなったんだろうな」


 初対面の人魚に心配されている。そんな一風変わった状況を冷静に消化した時、人はどうするのだろうか。詩末は声をあげて笑った。何が可笑しいのかは、詩末自身にもわからなかった。


「どうなったんだ俺はぁあああーーーッ!!!」


 そのまま勢いで海に向かって叫びだす詩末。大声に驚いたエレンはスケッチブックを海に落としそうになったが、反射的に動いた尾ヒレがそれを弾き上げ、両手で抱きかかえるようにキャッチする。


「どうなってるんだ世の中はぁああああぁーーーー!!

 俺の絵の何が駄目なんだあーーーー!!

 絵が綺麗で何が悪いッ!

 額縁しょぼくて悪かったなクソッタレ!!

 一々親の名前引っ張ってくるんじゃねぇよ糞爺ぃいいいーーー!!」


 絵描きの口から溢れた言葉はとても自分勝手な罵詈雑言であった。この場所において詩末は詩末以外の誰でもない。若手の画家でもなく、巨匠の息子でもなく、日本国民ですらない。社会の楔から解き放たれた詩末が何を言おうと、誰も咎める者など存在しない。だからこそ詩末は気に入らない事全てを自由に罵る事にした。【自由】は、この訳の解らない状況で詩末が手に入れた唯一の宝物だったのだ。


 一方エレンは、詩末の言葉の意味する事が正確には理解できなかったものの、世の中にはこんなにも清々しい表情で不平不満を口に出来る種族がいるのか、と人間の生き方に深く感心した。


「強いね」


 エレンは思いのままを呟いた。不平や不満を誰にも相談出来なかったエレンにとって、それは眩しくなる程の強さだった。しかし詩末にとっては思いもしない切り返しである。急に叫びだしたのだ。気が触れたと思われて逃げられても何ら可笑しくはない。強いものか、これは弱さだ。そんな言葉をなんとか呑み込んだ見栄っ張りな絵描きは、平静を装い自嘲ぎみに肩をすくめてみせた。


「色々な事があって、でも比じゃないくらいに酷い現状があって、ただ自棄になっただけさ」

「ううん、詩末はきっと、この絵の大っきい樹みたいに、すくすくと成長するよ」


 微笑んだエレンは、先程の曲芸じみた救出劇の際に開かれたスケッチのページを、そのまま突き出すように詩末に向ける。それは詩末が寝る前に描いた、絵描きにとって落書きにも等しい絵だった。当てつけのように描き殴った線を見て恥ずかしくなった作者は、ここにきて落ち着きを取り戻す。


「あー、すまんな急に大声……」

「どうなってるのだーーーーーっ!」


 そんな詩末の謝罪を掻き消すように、今度はエレンが叫びはじめた。


「勝手に歌姫に選ぶな、横ー暴ーだぁーーーーーー!!

 私の唄う歌くらい、私に決めさせろぉーーーー!!

 好きな時に好きな場所で唄って何が悪いのだぁあーーーー!!」


 今の詩末の表情を絵にしたら、おそらくタイトルは【唖然】とつけられるだろう。叫び終わったエレンは少し紅潮した顔ではにかむと、これでおあいこ!と言って、やはりスケッチブックで顔を隠した。


「あー、まあその。いろいろあるんだな、お互い」

「えへへ、そうなの。それはもう鱗の艶がなくなっちゃいそうなくらい」

「とりあえず、スケッチブックは返してくれ」

「ほわわ、ちょっ、今はだめ」


 陸上で足の無い人魚からスケッチブックを取り返すのはそう難しい事ではない。しかし元はと言えば詩末が作った流れだ。自分の所有物とは言え、すぐと強引に押収するのも忍びない。


「……好きなの一枚やるから」

「それまこと!?ならこれ頂戴!」


 太陽の笑みでエレンが抜き出したのは、詩末が寝る前に描いた落書き、もとい大樹の絵だった。


「そんなんでいいのか?もっと色がついたやつとか、細かく描き込んだのでもいいけど」

「うーん。でもやっぱりこの絵が一番美しいので、これがいいの」


 エレンから見たその絵は、色も単色で線も無骨だが、美しさに縛られた他の絵とは違い、とにかく力強くて自由だった。種族のために覚える歌を、唄う歌を制限されているエレンだからこそ、より強くその絵の在り方に心を惹かれたのである。


「感情が見えるの。この大樹さんから。畜生!負けるものかーっていう力強さが。それと、絵が好きなんだっていう真心も。心の色が強く濃いほど綺麗に見えるのは絵も歌も一緒だね!」


 実際の話し、描いていた時の詩末はそんな気持ちだったが、だからこそ一番好きな絵として持って行かれるのは複雑な気持ちだった。曲がりなりにも自身の絵を認めてくれた少女に、絵描きとして報いたかった詩末は、一つ提案を投げかける。


「ならもう一枚描くよ。何かリクエストはある?」

「リクエスト?」


 実はこの何気ない提案が、絵描きと歌唄いの運命を大きく動かす事になる。


「つまり、私の、私のためだけの絵?」

「まあ、そうなるかな」


 何故なら、この時エレンは見つけてしまったのだ。

 心の底から願って止まないものを。

 見出してしまったのだ。

 本来交わる事のない、種族の、世界の壁を越えた存在の中に。

 尾張詩末の中に。


「見つけた、私のためだけの歌の題材」


 エレンの鼓動がどんどん早くなっていく。尾ヒレは震え、胸の高鳴りは増すばかり。頬は勝手に緩んでしまう。本当だったんだ、本当に還ってきた!私は、私の歌を歌えるんだ!!そんな歓喜の気持ちが心を満たすものだから、彼女は言葉に出来ずにはいられなかった。



「シズエはきっと、歴史に名を刻む世界一の絵描きさんになる。だから私、シズエの傍でシズエの見たもの、感じた事を見届けたい!私はそれを歌にしたい!」


 それは、人魚の本心だった。


「世界一美しい絵を描く絵描きの物語。それが私だけの歌!」


 そして、憧憬でもあり、切望でもあり、明確に定義出来ない感情の渦。


「馬鹿な。エレンは僕に、何を描かせたいんだ?」


「水守族の歌には世界中に点在する【奇跡の光景】に関する伝承があるの。金色の空に浮かぶ群島、霊峰の頂に咲く幻の花、今尚成長を続ける生きた古代遺跡、天をも貫く巨人の剣に、この水守族の休息地だってそう!誰もが息を呑むほどに美しい秘境。普通はとても辿り着けない場所でも、水守族の伝承が!私の歌が導いてあげられる!世界一美しい絵と歌!私達ならきっと創り上げることができるはず!きっと!」


 若き歌姫の瞳は煌めく。詩末から見たエレンは、まるでその未来はさも当然の如く訪れると確信しているようだった。そして詩末は理解した。人魚は歌の題材を、己の内なる渦の中に引き込もうとする。そうして沈んだ先の水底にどんな景色が待っているのか、人は好奇心のままに身を投げ出すのだ。


 この時、詩末は覚悟を決めた。


「はは。リクエスト多過ぎでしょ。空に島?巨人の剣?やっぱり夢でも見てるのか。でも、夢の中でくらい、夢を見たっていいよな?」


「詩末ってば、瞳を閉じないと夢は見れぬのかな」


 そう言って人魚が片手を差し出した。


「馬鹿言え。今も見えてるさ」


 絵描きはその手を固く握りしめると、こう答えた。


「そのリクエスト……が引き受けた!」







 格好良く乙女の願いを引き受けたまでは良かったが、現実問題としてどうにもならない事もある。もっと具体的に例を挙げれば、ひとつは足の問題だった。水中を移動する者と地上を歩く者が旅を同じくする事は不可能に近い。背負って移動する事も考えたが、お互いの種族も違えば生存圏まで違うため、人魚を街に入れる事など出来ようはずもない。そもそも二人はこの世界の土地勘すら怪しいのだ。これはどうにも困った問題ではあるが、すぐに解決方法など思い浮かばなかった。


「淡くて優しい色ね」


 そうして今に至る。砂浜に身を預けたエレンは相も変わらずスケッチブックを眺め、腰を下ろした詩末はその様子をただただ見守る。要するに現実逃避である。


「水彩絵の具だよ。珍しいか?」

「しかり!私の知ってる絵は、もっとごてごて?なのばっか」

「岩絵具か。いや、油絵かも」


 そもそもの話し、水生生物である人魚が絵を見る機会などあるのだろうか。詩末がそんな疑問を口にすると、エレンは少し頬を膨らませて、勿論あると答えた。自ら生み出せない分、水守族ほど芸術を愛する種族はいないのだとか。難破した行商船等から文化的に価値のある芸術品を保護し、人間と取引する大胆な者もいるだとか。そんな話しが始まった。


「お化け昆布を長方形にカットして薄く伸ばすでしょ?それを絵の表面に貼り付けて……じゃじゃーん!できましてよー!これで海の中でもへっちゃらさぁ!」


 エレンは透明な巨大昆布にラミネートされた大樹の絵を、嬉しそうに天へと掲げた。つまりは天然の撥水フィルムで絵を保護してるという事なのだが、水守族の民俗学には然程興味が無い詩末は適当に聞き流していた。


「ねね!全部の絵についてる、これ何ぞ?」

「あー。それは俺のサインだよ」

「サイン?」

「俺が描いた絵だっていう証明さ、そこに書かれているのは俺の名前だよ」


 そう答えた詩末は、文字の形をわかりやすくするため、少し大きめのサイズで砂浜に書き写す。鉛筆の尻を使って砂を押し込み、あっという間に【詩末】の二文字が縦に並んだ。


「うーむ、私の知ってる文字と違うのね」

「漢字だよ。俺の国の文字。難しいだろ」

「文字はもっとシンプルにした方がよいと思うわ」

「かもな。だけど特殊な形だからこそ、繊細な表現が文に宿るって事もあるのさ」


 詩末は思いつく範囲で漢字の成り立ちを説明した。火は燃えている炎から着想を得て作られた漢字であり、木は正に樹そのものの形から生まれた漢字である。そんな欠伸が出る程に当たり前で退屈な話しも、エレンにとっては初めて聞く物語のように新鮮で楽しかった。


「わわ!すごい!これはもう文字というより半分絵だよ!」

「結構強引な簡略化ばっかだけどな」

「だね。私には使えないかも。でも読めたら面白そう」


 そうして暫くの間、俯いて漢字と睨めっこをしていたエレンだったが、急に顔を上げ詩末の名前を三回呼ぶと、唐突な質問を投げかけた。


「ねね!私の名前って漢字にしたらどうなるの?」

「また難しい注文を……いや、これだな」


 先刻残した【詩末】の二文字。その横に絵描きは【絵恋】と書き足した。


「絵に恋する、と書いて絵恋エレンだ」

「わーい、ぴったりだー!」


 つい先程まで垂れ下がっていた尾ヒレをピンと張り立てて、目に焼き付けるかのように自身を現す二文字を眺めるエレン。今後の身の振り方を考えながら、遥か彼方の水平線を見据える詩末。人と人魚が並ぶ入り江。言葉はなくとも不安もない、そんな安らかな世界の中、波の音が緩やかに時を刻む。


 どれくらいの間、そうしていただろうか。


「んっ」


 詩末は首筋に落ちた冷たい感触を掬う様に撫でる。煤けた指先が少しだけ湿っている事を確認すると、スケッチブックを閉じた。


「やれやれ雨か。本格的に降り始める前にどうにかしたいな」


「……魔女の涙だ」


「魔女?」


「そう、魔女。最近この近くに住むようになったの。その魔女は雨粒を通して離れた場所の景色を覗き見る事が出来るみたい」


「まずいのか?」


「水守族が語り継いできた数多くの詩が、魔女の危険性を後世に残しているの。だから水守族はこの地に寄り付かなくなったんだ」


「俺にはただの雨にしか見えないな」


「勿論、全ての雨が魔女の仕業、なんて事はないよ。私だって違いはわからぬもん。けれど私は雨が好き。世界を小さく閉じ込めてしまう水玉が幻想的で好き。水面に広がっては消えていく丸い波紋が儚くて好き。去り際に澄んだ虹を残す雨が大好き。だから誰に見られたっていい、雨を怖がるなんて勿体ないよ」


 海の中では雨が降らない。当たり前の事ではあるが、まだ若い水守族のエレンにとって、地上で起こる自然現象は全てが幻想的に映った。ありのままの世界を愛でる少女、その姿を見た時、詩末の脳裏にかつての父の言葉が蘇る。


『目に映る全ての景色は絵描きにとってのパレットさ。俺達はそこから好きな色を掬い取り、筆にのせて世界を創るのさ。好きな色もあるだろう。嫌いな色も勿論ある。でもそういった色だって影に少し乗せてやれば、それは味になる。絵が、世界が、深くなる。本当に描きたいものってのは、本当に描きたくないものと向き合った、その奥に見えてくるものなんだよ』


 詩末の父は日本画の天才だった。事、人物画を描かせた時、その美しさは多くの人の時間と意識を奪っていった。幼い頃の詩末は、そんな父の創り上げた世界に憧れた。その背を追いかけ、挫折も味わった。


 すべてが壊れたのは、詩末の父が母を捨て、別の女性と家を出たあの日。自分が追いかけていたものが、自分の目指したものが、輝きを失ったあの日。


 父への反抗心ゆえに日本画から洋画家に転向し、人物画より風景画を好むようになった。標を失った詩末の絵は、その時色を亡くした。


 いつの日か最も憧れた父の在り方を、最も美しいと思った世界の在り方を、今は最も忌諱している自分がいる。自身のルーツと向き合う事を辞めた詩末の絵は、薄っぺらいと評された。



「絵描きにとって雨は天敵だ」


「ふふ、濡れたら困る、だものね?」


「真似すんな。で、雨宿りできる場所はあるか?」


 スケッチブックをシャツの中に入れて雨から守る。詩末は体が冷えてしまう前に落ち着ける場所を見つけたかった。それにこのままではどの道野宿になる。夜を過ごすならせめて屋根は欲しい。詩末は形だけでもいいから、拠点にできる場所を求めてエレンを頼る。するとエレンは海とは逆の、絶壁側を指差して言った。


「あのね、あっちの崖の下?えーっと、奥にある茂みの向こうに洞穴があるの。雨を凌ぐのにぴったり良いと思う」


「そうか、助かる。……今日はここまでだな」


「うん、そやね」


 惜しむような、一拍の沈黙を挟んで詩末は別れを告げた。


「じゃ、行くから」


 洞穴を目指し走り出す詩末の背中に、エレンが呼びかける。


「シズエーーー!また、会えるよねーーー!!」


「ああ!リクエスト、忘れてないからな!」


 エレンは詩末が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。







 詩末がいなくなり、いつもの砂浜が戻って来た。

 エレンは夢から覚めたような、少し物悲しい感情を胸に抱えて呟いた。


「楽しかったな。素敵な幻を見ていたみたい」


 否、砂浜に刻まれた二人の名前が、確かに尾張始末が存在していた事を証明してくれる。エレンは先程教えて貰ったばかりの漢字を愛おしい気持ちで眺める。


「雨に濡れたら、困るもんね」


 そして絵恋、詩末、その二つの文字の間に、上向きの矢印を書き足す。


 それはまるで、二人を雨から守る傘の様に見えた。







 詩末が洞穴に入った直後、雨は勢いを増し、外の世界を白く染め上げた。絵描きは間一髪のタイミングで免れた結末に胸を撫でつつ、洞窟の内部に視線を向ける。


 そこは不思議な空間だった。


 洞窟の中には淡い光を放つ苔が自生しており、なんとも頼りなく壁面を照らしているのだが、そのわずかな光源から照り返すようにして奇妙な模様が浮かび上がる。その模様が何を記しているのか、詩末には解らなかった。


 内部に生き物の気配は無いが、この未開の地で、何の準備も無く奥へと進む勇気を、詩末は持ち合わせていない。それに一人になると、どうしても今後の事を考えてしまう。


「はぁ。立ったままじゃ、気分も落ち着かないわな」


 腰を下ろすのに丁度良い、平坦な岩場を見つけて体重を預ける。すると、腰掛けが満ちた月のように静かな輝きを放ち、空洞を照らし始めた。詩末が岩場だと思っていたそれは、接触すると光る大きなキノコだったらしい。思わず触れてしまった絵描きだったが、それだけで害のあるものではないようだ。


「あっ」


 新たな光源が壁面を照らす。

 すると、そこに描かれていた模様の全容が姿を露にして視界に広がる。


「これは……龍。いや、飛行機……か?」


 詩末の言葉に呼応するかのように、光源が強く明滅する。

 打ち付けるような雨音が遠のき、詩末の意識はそこで暗転した。








 肌を舐るような熱を感じ、詩末の意識が覚醒する。

 雨音はいつからか、嫌という程に聞き慣れた蝉の混声合唱に変わっていた。

 詩末は気怠さを引き摺りながら上半身を起こす。

 見慣れた八畳間、よく見る天井、付き合いの長い掛け布団。


 どうしようもない現実に、絵描きは帰って来た。


「あら?目が覚めたのかしら」


 人の家の冷蔵庫を勝手に開けて、麦茶を飲んでいる線の細い女性がいた。


「……エレン?」

「流石に絵描きは器用ね、寝言を起きて言えるんだから」

「なんだ、義姉さんか」

「一応インターフォンは鳴らしたわよ。ノックもしたわ、三回も」

「別に怒ってないって」

「そう。なら……いいけど」


 あれは、自身の行き過ぎた承認欲求が具体化した、妙にリアルな夢だった。詩末はそう結論づけた。それは元来の日本人の性質からすれば、恥ずべきエピソードとも言えるのだが、その時の詩末には不思議と嫌な感情は湧き上がっては来なかった。


 なんとなく、傍らに抱えていたスケッチブックを手に取る。開いた瞬間、わずかに白く細かい砂粒が零れ落ちた。ページを捲る。旅の最中、自身が綴った景色の数々が、変わらずに、色褪せずに、そこには描かれている。



 けれども寝る前に描いたはずの、たった一枚の落書きだけは、何度見返しても、どこを探しても見つける事は出来なかった。



 だからこそ詩末は、どうにも間抜けた質問を繰り出してしまう。







「なあ、人魚って、いると思うか?」

















 尾張詩末は、その日から毎夜、同じ夢の世界に迷い込み、その先の物語を追い続ける事になる。そこで得た様々な出会い、そして経験が彼を大きく成長させて、何れこの国に1人の巨匠が誕生する。


 絵画に恋した人魚と、詩を終わらせた人間の心を巡る旅は続く。

 その物語は、また別の機会に語ろう。


 


いつか続きを書くかも?

それでは皆様に良い夢を。

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