第6話 別れとはじまり① 「おにいちゃん」
リララックの家の前で立ち止まってしまった。
ここまで休まず走って来たものの、ラスティはどんな顔をしてアニスに会えばいいのか、わからない。
アニスの容態が悪くなったのは、フォンセを守れなかったから。罪悪感が胸の中にひろがると、目の前の扉を開けることができなくなった。しかし、家の中からバタバタと走る音が聞こえ、木の扉が開く。
「らすてぃー」
扉から元気に飛び出したのは、クセのある赤い髪のカルデニアだった。両手をひろげてピョン、ピョンと跳ねるから、ヒョイと持ちあげ、肩にのせた。すると、カルデニアはキャッ、キャッと笑い、エトワールが「ずるい!」といって、ラスティの足もとにまとわりつく。
「おいおい、危ないぞ」
カルデニアをおろし、今度はエトワールを肩にのせると、懐かしい声が耳に届いた。
「やっぱり、あの大きな足音はラスティだったのね。うるさすぎて、ここにいてもわかったわ。エト、これからラスティと海にいくの。カルデニアと、お留守番しててくれる?」
エトワールはキョトンとした顔で、大きくうなずくと、ラスティの肩からするするとおりた。
「えらいわね。エト」
ふわふわの布団から白く細い手を伸ばすと、エトワールがアニスの腕の中にポンと飛び込んだ。
「忘れないで、エト。私も、フォンセも、あなたのことが大好きよ」
頭をなで、やさしく頬にキスをすると、エトワールは幸福にみちた顔で、にっこりと笑った。そして、するりとアニスの腕の中から抜け出し、カルデニアのもとへ走っていった。
カルデニアにも頭をなでられて、子犬のようにはしゃぐエトワール。アニスはエトワールの姿を目に焼きつけるかのように、じっとみていた。
どんな宝石よりも高貴に輝く金色の瞳が、力なく曇っている。
ラスティは、生命力というものを感じられないアニスに心を痛めながらも、いつも通り話しかけた。
「そんな身体で、大丈夫か? エトワールのそばにいたほうが、いいんじゃないか?」
「大丈夫。約束があるの。岬へ、連れていって」
アニスのいつものわがままに、深いため息をつく。そして、漁で鍛えられた太い腕でアニスを抱きかかえると、そのまま海へとむかった。
神の国の入り口といわれる聖なる岬は、緑に透きとおった海の上に突き出し、すこし振りかえると海岸線がよくみえた。
ぐっと弓なりに曲がった白い砂浜にそって、どこまでも続く港町も一望できる。
潮の香りをふくんだ重い風が、ねっとりとまとわりつくように流れたが、アニスの顔は穏やかだった。
「フォンセは私の願いを、なんでも叶えてくれたわ。でも、一番私のわがままを聞いてくれたのは、ラスティだったわね。ありがとう」
「なにいってるんだ、アニスらしくない」
「これをフレムにかえして」
「これは……」
アニスから受け取ったのは、フレムにあげたはずの願い石。
「長く生きれるように願えば、エルネロスさまが叶えてくれるって、フレムがいっていたのに、ダメね、私。……ずっとフォンセに会うことだけを願ったわ」
弱々しく微笑むと、アニスはひどくせき込んだ。唇からブドウ酒のような血がしたたると、細い身体を包む毛織物を赤く染めた。
このままでは危険だと判断したラスティは、家に戻ろうとしたが、アニスは拒む。
「今日、エルネロスさまが願いを叶えてくれるの。だから、お願い。このままで」
ラスティにしがみつくアニスの手に、もう力はない。これが最期と覚悟するしかなかった。
ラスティのやさしさを受け取ったアニスは、金色の目を細める。
「大人になれないはずが、お母さんにまでなれたのよ。ほんと、すごいわ。夢をみてるみたい。……でもね、今度は、私、エトワールとお友達になりたいの。カルデニアと一緒におままごとしたり、おやつを食べたり」
「なんだ、ままごとって。ずいぶん幼稚なことをいうな」
「だって、私、同じ年の子供と遊んだことがないのよ。ずっと部屋に閉じこもって……。あ、でも、ラメルの人たちはみんなやさしかった。あなたは口が悪かったけどね」
かすかにほほ笑むけど、呼吸が荒くなる。もう息をするのもつらいはずなのに、苦しそうに顔を歪めても、アニスは話すのをやめない。
「今日はね、ここでフォンセと会う約束をしたの」
陽のひかりがすこし西へと傾き、やさしいオレンジ色の空に、アニスは手を伸ばす。そこには岬に激しくぶつかる波の音と、海鳥の鳴き声しかない。それでもアニスは話しかける。
慈愛のこもった眼差しで、うっとりしながら唇を震わせ、フォンセを呼ぶ。
「やっと……会えた。……会いたかったわ、フォン……セ」
金色の瞳から大粒の涙がこぼれると、ケホ、ケホとまた激しくせき込んだ。
「大丈夫か、アニス」
声をかけても、金色の瞳にラスティはうつっていない。華奢な身体で、ずっと手を伸ばす。その痛々しいほど白く細い腕に目をそらした。
はじめて出会ったのは、ラスティがフレムと結婚した一七歳のころ。アニスはまだ十歳だった。
疎まれて育ったアニスはまるで人形のように、表情ひとつかえることがない。ずっと小さな窓から海をみていた。
この子を笑わせてみたい。
もともと明るい性格のラスティは、なんとかしてアニスを笑わせてみようと、肩車をしてよく港町を歩いた。はじめは強張った顔をしていたアニスだったが、いつの間にか、鈴の音のようなかわいい声で笑ってくれた。
今度はすこし怒らせてみたい。
世話になっているという遠慮からか、アニスはいつもだれかに気を使っていた。そんな堅苦しいことから解放してやりたくて、ラスティはわざとアニスを怒らせた。それからのアニスは、よく笑い、泣き、怒る。普通の女の子とかわらない、キラキラとした感情をみせるようになった。
そんなときに、フォンセがあらわれた。
死神の色と呼ばれる黒い髪と瞳。子供のような顔つきだが、目をそらしてしまうほどの傷や手術にも、顔色ひとつかえずに淡々とこなす。度胸があるヤツかと思えば、海を怖がり、酒に弱い。でも、アニスを一番幸せにした。
エルネストの神のように、海からきて海に消えたフォンセ。ラスティは顔をあげ、アニスが見つめる海に目をむける。
そこにはだれもいないけど、アニスが手を伸ばすなら、フォンセが立っているような気がした。
「アニス、フォンセ。エトワールのことは心配するな。今度こそ、俺が必ず守ってやる」
下をむくと泣き出しそうだったから、海にむかって誓いを立てた。すると、アニスの白く細い指が、ラスティの頬をなでる。
「ありがとう……、おにいちゃん」
それはパッと花が咲いたような、アニスの明るい笑顔。
いつも見せてくれた、ラスティを頼りにする、大好きな――。
「アニス?」
伸ばした手がパタリと落ちて、もう動かなかった。
それでも、アニスは笑っている。
ラスティの手にグッと力が入った。
アニスはいつもキラキラと輝いていた。でも、小さくて細くて、力を入れると簡単に壊れてしまうガラス細工のような身体。だから、一度も抱きしめることができなかった。でもいまは、どんなにつよく抱きしめてもアニスはもう痛がることもない。
激しく打ち付ける波の音にまぎれて、ラスティの慟哭が響いた。




