第1話 夢をみる受験生② 「ただの夢じゃない?」
カサをもちあげて、スタスタと歩く男子生徒がぬれないように、うしろからついていく。まるで付き人のようだ。
夢の中のカルデニアは、わたしと同じ背丈だったのに、目の前の男は背が高い。
あげたままの腕が痛くなる。
男子生徒の赤っぽい髪が揺れるたびに、堂々と「あなたは、カルデニアですか?」と聞きたくて、うずうずしている。
でも、あれは夢。考えが混とんとして、訳がわからなくなってきた。
それでもやっぱり聞いてみたくて、ささやくような声を出す。
「カルデニア?」
ドキドキしながら広い背中をみつめても、ヒュゥと吹きつけるつめたい雪のまじった風や、車の騒音に、わたしの声はかき消される。
ただの夢だと思っていたのに、刺すようなつめたい風にまじる潮の香り。
聞こえるはずのない波の音。
あまりにも不思議な感覚に、心が落ち着かない。
だけど、こんな大雪の日に手袋もない手。
指先が凍りそうで痛くなる。
おまけに、あげたままの腕も、もう限界。
カサをもった左手をおろそうとしたとき、カルデニアによく似た男子生徒は、立ち止まった。
寒さに身震いしながら、濃紺色のブレザーのポケットから使い捨てのカイロを取り出して、ぎゅっと強くにぎると「学校、そこだから」と、教えてくれた。
白い息の向こう側に、コンクリートの四角い建物がみえる。
「あ、ありがとうございます」
温そうな使い捨てのカイロがうらやましくて、カイロに注目したままお礼を言った。
すると、男子生徒は使い捨てのカイロと、わたしを、交互にみて口元をゆるめる。
「カサ持ってくれて、ありがとな。これあげる」
いきなり、使い捨てのカイロを放り投げてきた。
慌ててキャッチすると、男子生徒はカサの中からするりと抜け出し、大粒の雪をかぶる。
「わっ、ちょっと。カサ」
走り出そうとする男子生徒に、声をかけた。
「今日一日、大雪らしいから、貸してやる」
「え、貸すって……。ちょっ、待ってよ」
「合格して、四月に、なっ。オマエもがんばれよーッ!」
すこし照れたようなはにかんだ笑顔をみせると、男子生徒は人混みの中に吸い込まれ、あっという間に見失った。
これから大切な高校入試試験がはじまるというのに、わたしの心はざわめき、激しく動揺している。
ずっと夢だと思っていた。
エメラルドグリーンの海にかこまれた、はなやかな港町。
白い石畳の上を軽やかに走ると、色鮮やかな果物や、精巧な細工を施した、煌びやかなアクセサリーを並べた店がみえる。
男たちは、昼間でも甘い酒の香りを身にまとい、女たちは、新鮮な食材の前で値切り交渉をする。
豪快な笑い声や、陽気な音楽が流れ、心が思わず躍り出す。
幼いわたしもカルデニアと手をつなぎ、さわやかな潮風の中を走る。
途中で転びそうになっても、カルデニアがしっかりと支えてくれた。
幼い頃からいつもそばにいて、困ったときには必ず助けてくれる親友。
「いや、いや。そんな」
カサをギュッと握りしめて、歩き出す。
カルデニアは、もっと燃えるような美しい赤い髪をしていた。
しかも女で、男じゃない。
そもそも、あれはただの夢。
すべてを否定する言葉を思い描きながら、浮き足立った気持ちを必死に抑えようとした。
いま、やるべきことは決まっている。
はかない空想に惑わされて、希望校に不合格なんて結果は、シャレにならない。
大きく息を吸い込むと、鼻の奥がツンと痛くなった。
でも、気合いを入れるには十分。
しっかりと前を向いて、正門をくぐった。
緊張がかなり大きくなっていたけど、「あっ」と、驚いたような小さな声が聞こえた。「ん?」
立ち止まって、声がした方向へ振り向くと、セーラー服姿の女の子がいる。
「あぁッ!」
瞬時に大きな声が出た。
鼻先と頬を赤くしてたたずんでいる、セーラー服姿の女の子は、さっきバスの中でたたいてしまった女の子。
「さっきは、ごめんさいッ! たたくつもりはなくて、えっと……」
額から変な汗を流しながら、必死に謝ると、女の子はクスクス笑いだした。
「ちょっと驚いたけど、大丈夫。痛くなかったし。それよりも、ここの受験生なのに、変なところで降りちゃったから、心配で。間に合ってよかったねー」
不安げな表情から、パッと花が咲いたかのようなやさしい笑顔をむける女の子。
白地に赤い花の描かれたカサを差していても、ゆるいおさげの黒髪には雪が。
「ご、ごめんさい。なんだか心配をかけちゃったみたいで……」
「あー、いいの、いいの。こっちが勝手に待ってただけだから。受付を済ませましょう」
女の子がわたしの手をとると、湿った土の匂いと、朝露にぬれた緑の香りを感じた。
あたりには、うっすらと雪が積もりはじめたコンクリートの道に、花のない花壇が並ぶだけ。
強い土の匂いと、瑞々しい新緑の香りが、どこからくるのかわからない。
また心臓がやけにうるさく、トクン、トクンと胸を突き続け、男子生徒をみたときと同じ、不思議な感覚におそわれていた。
そして、糸をたぐるように、なにかを思い出していく。
はなやかな港町から、すこし離れた山のふもとにあるほったて小屋。
海辺とは違う、落ち着いた静寂に包まれた緑の中に、わたしは住んでいた。
夢の中だけど、幼いわたしの紅葉のような手をしっかりと握って、慈愛に満ちた優しい笑顔をむける……母、アニス。
女の子からは、アニスと暮らした森の香りがする。
――今日はいったい、どうなってるのォ!?
これから入試がはじまるというのに、デジャヴのような不思議な感覚が、わたしから離れない。
ただの夢だと思っていたのに、カルデニアとアニスに出会った?
あり得ないはずの出来事に、頭がクラクラする。
もし、あれがただの夢ではなく、前世やパラレルワールドみたいなものだとしたら、わたしのことを『エトワール』と呼ぶ、あの人にも会えるのかな?
中世の騎士のような服装で、帯剣している姿は凛々しく、すこし怖い。
でも、わたしをみつめる空の色をした瞳は、この世のものとは思えないほど美しくて、心を奪われた。
そんなあの人も、いま、この現実の世界にいる?
「……まさか……ね」
コレはただの偶然。
アレは、ただの夢。惑わされるな。
踊らされるな。
という気持ちと、アレはただの夢なんかじゃない。
さがせばあの人もきっと見つかる。
という相反する事柄が激しくぶつかり、心の中に波を立てる。
受験の本番当日には、不測の事態に陥ることがある。と、塾の先生がいっていた。
だから、焦ってはいけないと。
でも、無理。ヤバい。
試験中も、ふとしたときに、夢のことを考えてしまった。
手がとまり、ハッとしては試験に集中するのくり返し。
焦りに焦って、もうボロボロ。
このままじゃ、トラッドカラーのリボンに、チャコールグレーのブレザーを着た、城南高校のかわいい制服に身を包むわたしが消えてしまう。
神さま、お願い。助けてよッ!