第1話 夢をみる受験生① 「やってしまった」
部屋のあかりを消すと、真珠のような満月がうす暗い窓ガラスに、皓々と浮かび上がる。
わたしは、この青白い月あかりをあびながら眠るのが好き。
なぜかこのときだけは、不思議な夢をみる。
妙にリアルで、懐かしい気持ちにさせてくれる夢。
幼い頃からずっとみている。
ときには胸が張り裂けそうで、目が覚めると、大泣きしていることもあった。でも、夢の中のわたしは、いつも胸をときめかせている。
そう、わたしの隣には、いつもあの人がいる。
月ありがみせてくれる、甘美な夢。
夢の中なのに朝陽がまぶしくて、わたしは眠りから覚める。すると、陽の光をあびて、よりいっそう強く輝く、金色の前髪をかきあげるあの人がみえた。
青く澄みきった空の色をした双眸で、わたしを覗き込んでいる。
「おはよう、エトワール」
それは安らぎを感じる、すこしかすれた低い声。
あの人は、真っ白なベッドから裸の上半身を起こして、ニッコリとほほ笑んだ。すると、切れ長の目が線のように細くなり、凛とした顔立ちから、子供っぽい愛らしい顔に。
心はもちろん、魂までも吸い込むあの人の笑顔に、胸も顔が熱くなる。
あまりにも熱いので、きっと耳まで真っ赤になっている。
そう思ったわたしは、白いブランケットを手に取り、もう一度、頭からかぶった。
すると――。
「蓮夏ッ! いつまで寝てるのォー」
バサァァッと、ふとんを引っ剥がされた。ぞくぞくするほどつめたく寒い風が、全身に突き刺さる。そして目の前には、大柄で元気な声を張りあげるおばさん……、じゃないな。
「んもぅッ、せっかくいい夢だったのに。お母さん、ひどいよぅ」
「なにバカなことを言ってるの。今日は入試よ。本番なのよッ」
「ぅぎゃあッ。なに、この時間。もっと早くに起こしてよ。信じらんない」
お母さんは呆れた顔をしているけど、わたしはもう泣きそう。
高校入試本番のだいじな日に、朝寝坊。
試験がはじまるのは午前九時。その三時間前には起きて、頭の中をスッキリさせる予定も、朝ご飯をゆっくり食べる時間もない。
七時半という現実を突きつける壁時計を睨みながら、大急ぎで朝の支度をする。
「あぁ、もう。いってきます」
サイアクだ。
脳の活性化に必要な朝ご飯は、半分しか食べてない。
凍てつく寒さが身に染みる二月なのに、かじかんだ手を温めるカイロを忘れた。
バスには間にあったけど、ドタバタしすぎて、一気に疲れてしまった。
「はぁぁ」
手すりにつかまり、深呼吸をして息を整えていると、曇りがかったバスの窓ガラスに、わたしがうつる。
慌てて家を出てきました。と、主張しているようなボサボサ頭。明るい栗色の髪を手でなおしても、まとまらない。
面倒なクセ毛は今日も健在だった。
「はぁ……」
やっぱりもうため息しか出てこない。
夢の中のわたしは長く綺麗な黒髪で、下をむくと流れるようにサラサラと落ちてくる。そして、あの人の髪も金糸みたいで美しい。
でも、今日のあの人は、なんだかとても嬉しそうな顔をしていた。
いつもは凛々しいのに、なんだか照れているような……。
「ん?」
今朝みたステキな夢を、もう一度じっくりと思い出す。
あの人はなにも着ていなかった。
やさしい笑顔なのに、屈強な筋肉で引き締まった体をしていたような? けど、それって……。
――は、裸ッ!?
ボッと、耳まで熱くなるのを感じた。
夢の中のわたしは、朝陽がまぶしくて目を覚ます。
すると真横に裸のあの人がいて?
裸にベッド!!
「き、きゃぁーッ。ちょっと、わたしったら、なにをやってんのよ」
不意に恥ずかしさが駆けめぐり、隣にたたずむセーラー服を着た子の肩を、おもいっきりたたいてしまった。
もちろん、まったく知らない人。
いきなりたたかれた女の子は、驚いた顔で口を開けたまま、目を丸くしてわたしをみている。
「あ、えっと、そのォ……。ご、ごめんなさい。次、降りますッ」
肩をたたいてしまった女の子に深く頭をさげて、昇降口へ急いだ。
あまりの恥ずかしさにうつむいたまま、逃げるようにしてバスを降りた。
バスはわたしを降ろすと、勢いよくまた走りだす。
つめたく鋭い風が、熱くなったわたしの頬を一気に冷やした。
サイアクだ……。
ひとつ前のバス停で降りてしまった。
受験票を取り出し、受験する高校までの道を確認したけど、現在地がよくわからない。
こんなときは、グーグル先生!
カバンの中に手を突っ込み、スマホをさがす。
「えっ、ウソ。……ないッ」
カバンの中をくまなくさがしても、スマホがない。
焦りながら何度もさがしたけど、やっぱりない。
受験に必要なものは前日にバッチリそろえたけど、慌てて家を飛び出したから、充電中のスマホは……。
ヤバい、迷子になっている時間はないのに。
「あの、すみません。城南高校は、この道をまっすぐであってますか?」
顔をあげてすれ違う人に声をかけたけど、朝の忙しい時間帯なので、「ごめんね」といった顔で素通りされる。
どうしよう。
ねずみ色の分厚い雲からは、真綿のような雪が落ちてきた。
寒さと心細さで、もう泣きそう。
かじかむ手に温かい息を吹きかけても、震えが止まらない。
「あの、すみません。城南高校は――」
「あっちの道を左に曲がって、信号がみえたら右だよ」
ビジネススーツを着た小太りのおじさんが、すれ違いざまに道を教えてくれた。
やっと答えてくれる人がいて、嬉しさに目を輝かせたけど、あっちって、どっちだ?
「あっちの道って、ここを真っ直ぐですか?」
聞きかえしても、おじさんは立ち止まらずにいってしまった。
みんな急いでいる。わたしも急がないと、遅刻してしまう。
つめたくなった手を握りしめ、とにかくこのまま真っ直ぐ歩くことにした。
「城南高校なら、そっちじゃねぇーぞ」
「え?」
振りむくと、男子生徒が黒いカサをさして立っている。
「これ、持って。こっちだから」
面倒くさそうな声でカサを投げつけると、寝ぐせのある赤っぽい髪に雪をかぶりながら歩き出す。
そして、突然のことでびっくりしているわたしをみて、笑みを浮かべた。
キリッとした眉をしているのに、切れ長の目はすこしタレ目で、笑うとかわいい。
その笑顔に小さな胸がトクンと音を立てると、とてもなつかしいような、嬉しいような、複雑な思いが止まらなくなった。
「カ……カルデニア?」
力が抜けていくような声が出る。
ねずみ色の空から大粒の雪がほろほろと落ちてくるのに、寄せてはかえす波の音と、潮の匂いを感じた。
もちろん、ここは街中で海なんてどこにもない。
やけにリアルな夢に出てくるのは、金色の髪と空色の瞳をもつ青年だけじゃなかった。
緑がかった海が広がる港町に、威勢の良い声を張りあげる漁師の娘、カルデニア。
わたしとは姉妹のように仲が良くて、いつも一緒。
そのカルデニアにそっくりな男子生徒が、目の前にいる。
つめたい息を飲みこむと、肺がキュッと痛くなった。
「どうした? オレも城南高校、受験するから、早くいくぞ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
ちょこんと頭をさげたけど、夢の中でしか会えなかったカルデニアがいる。
愛想のない男子生徒だけど、わたしの心が叫んでいる。
この人はカルデニアだ。
お、男になっちゃてるけど……。