糸
今回は健吾君がなんか色々します。
意識という名の、目を開いた。
そこは暗闇だった。
しかし、俺は、ここがあの夢の世界だと知っている。
前に一度見たことがある。
そうだ、確かここには、白が延びていた。道のような光のような、純粋な白が延びていたはずだ。そして人もいた。その人は、この世で俺が最もよく知っている人物……。
そう意識した途端、脳裏に思い描いた風景が、ただ一面に広がる湖に映し出されるように、目の前に展開された。まるで幻のように。
そして、意識の視線を真っ直ぐ目の前に据えると、立っていた。「あの人」が。
「あの人」はただこちらをしっかりと見据えていた。
俺はこいつが苦手だ。
ああ、また今回も対話しなければならないのだろうか。
対話するならするとして、とりあえず今は現状把握が最優先事項だ。
……ずばり、俺がこの「夢」を見始める直前の記憶は何だ?
自分の脳内を探ってみる。
学校の中。弁当。公園の中。ベンチ。森の中。ハウンド。そして、そこには抱き合っている男女がいた。正体は……俺と真乃だ。
(ああ、思い出した)
昨日、生と死の境界を初めて実感し、真乃への感情の混乱を目の当たりにした。
それは罪悪感に似た感情であったが、それだけでなくこの世界に存在する、ありとあらゆる種類の感情をまぜこぜにしたモノであった。
あの複雑に絡み合った感情を、俺はいまだ完全に紐解けてはいない。いや、むしろ分析はまだまだこれからだ、というところだった。
考える。
なぜ俺は真乃に対して罪悪感を感じるのであろうか?
俺は何か罪を犯したのだろうか。罪というと大げさだが、例えば、何か彼女に、気に障るようなことをしただろうか。
心当たりはなかった。
では、この感情は罪悪感ではないのだろうか?
だとしたら何なのだろう。
それを知るためには、もっと粘土のような泥のようなこの塊を紐解く必要がありそうだ。幸いここは肉体支配の概念から逃れた夢想世界であるから、感情の整理にはもってこいだった。
俺は俺の中の感情を取り出し、視覚化した。それは絡み合って強い白光を発する糸の塊だった。
俺は、絡まった糸を端から一つずつ丁寧に手繰り、ほどいていった。
その過程で、様々な色の糸を見つけた。
真乃と同じ時間を共有したいという気持ち。真乃の言動、社会的地位、思考、情緒などの諸事項すべてに対する、信仰心めいた気持ち。そこから生じる、自分自身への妬みや焦りや自虐。これから自分はどんなアクションをとれば良いか分からない、という不安。維持から改革への旅に出ることに対する恐怖心。
そして、真乃以外の知覚情報を完全にシャットアウトしてしまうほどの、視野の狭まり……。
これらの感情ないし信号は皆違う色を発していて、重なり合い淡く白い光の塊であった。だから紐解くまでは正体がつかめなかった。
だが、今ここまで思考して、目の前の糸と触れ合って、ようやく分かった。
濃霧に覆われたように漠然としたこの感情は、とどのつまり恋情の類だろう。
……恋情。
それはあまりに予想外で、いまだ納得できない。
俺が今までの人生経験から定義した恋情と、まるでかけ離れていたからだ。
恋情とはもっと開放的て、軽量なモノだと思っていた。実物は、なんて泥臭く、苦心めいた感情で、鉄筋のように重い代物なのだろう。
しかしその一方、正体不明のこの感情を分析することで、親しみを感じることができた。少なくとも俺は自責の念に駆られる必要はないということが分かっただけでも、救われた気分だった。
実際は尊い感情であったのに、それをあの時は表面だけしか感知することが出来ず、それを罪悪感という負の感情と勘違いしただけであった。
敵を知って、己を知った。
あと俺がすべきことは、この感情と共生することだけだ。
目の前にいる人は、この間一言も発しなかった。
俺が糸と戯れているのを、親のような目をして見ていたのかもしれない。
(今日は何の用だ)
俺も、ようやく問いかけることにした。
それは、現実で真正面に立っている親しい人間に話しかけるのとは、少し違った。今いるここが夢の世界である時点で、そいつは自己が作り上げた幻に過ぎず、そいつと話をするということは、ある種の自己答弁であったからだ。
(何も用が無かったら、ここから立ち去ってくれないか)
話しかけたのは、会話をしたいからではなかった。
ただ、そうしなければならないのではないか、という思考が一瞬頭を巡っただけ。ただの気まぐれだった。
本当は、俺はこんなことをしている場合ではない。ようやくつかんだ真相を片手に、俺はアクションをとらなければならなかった。
(俺はやらなきゃいけないことがある。だから、用が無かったら出て行ってくれ)
目の前の顔は、微動だにしなかった。
(俺はあんたとは違って積極的に生きるんだ。外向的に生きる。俺には気の置けない仲間がいるし、尊敬すべき異性もいる。分かったら、俺の視界から消えてくれ)
ガンガンと言葉で攻めていく。しかし、全く相手は動かなかった。感情の動きを察することもままならなかった。
「言いたいことはそれだけかい?」
彼がようやく口を開いた。
(ああ)
「なら、僕も僕の意見を言わせてもらう」
意識の姿勢を正して、静聴の意思を示した。
「単刀直入に言う。君はあの女の子とこれ以上関係を深めるべきじゃない」
(え?)
耳を疑った。あの女の子とは確実に真乃のことだ。
(なぜここで、真乃の話になるんだ)
「今の君にはあの子と仲良くなる資格はない」
(何言ってる。なぜあんたが俺の交友関係に口をはさむんだ)
「君はあの子のことを知らなすぎる……。そして何より、君は君自身のことを完全に誤解している」
(何のことだ!)
この話の持っていき方はまずい。俺が「触れてはならない部分」にしておいていることにまで土足で踏み込まれそうだ。
「君は今の君自身の考えが正しいと思い込んでいる。君は自分が理想としている人物像を勝手に想像の中で練り上げて、それに自分自身を重ね合わせようとしている。普通の人間ならば、別にいいだろう。自身をリアルから理想へ昇華させること、それに異議はないし、立派な人間的な営みだろう。だが君はそれをすべきじゃない」
(何だ。何言ってる。あんたの考えてることがよく分からない。なんで俺が、俺の思うさまに生きることをそんなに否定する?)
「それを分かっていない時点で、あなたにその資格はない。あなたに『健吾』という存在を自分自身だけが定義する権利なんて存在しない」
「あの人」は、切れると俺への呼び方が「君」から「あなた」になるようだ。
(……あんたの言いたいことはよく分からんが、俺はあんたの意見には従わない。俺はこの感情をないがしろにするつもりはない)
俺たちを空間的に繋げている空気が、緊迫で震えたような気がした。
「あなたの考えは短絡的にもほどがある。あなたは今、目の前のオモチャに惑わされてリアルを見据えられていない。前にも言ったけど、あなたは僕と同じ道を歩むべきだ。いいかい、警告しておくよ。今のあなたは自分自身の生活やら時間やら、そしてあなたが手にしたその感情とやらが大事なのかもしれないが、あなたの楽しい生活はいずれ終わる。いや、僕たちが終わらせる。だから、今はただあなたは……」
(黙れ! ツラツラと同じようなことばかり言いやがって! それになんだ、俺の楽しい生活はいつか終わる? 俺の楽しい時間はまだ始まったばかりだ。それをあんたが終わらせる? 冗談はいい加減にしろ!)
なぜ俺はさっきからこんな会話……いや、こんな「自己答弁」をしている?
(分かったら、さっさと俺の夢から出て行ってくれよ……)
「それは出来ないよ。さっきから勘違いしているようだが、ここはあなたの脳が見せてる、いわゆる夢とは違う。僕がこの空間にあなたを連れてきたに過ぎない。帰るとしたら、それはあなただ」
(え?)
これは夢ではない? ならば俺は現実世界で、観念的なモノに過ぎないはずの「糸」を視覚化して戯れていたのか? そもそも俺は今、「寝ている」だろ?
「だから言っただろう。あなたはあまりに知らなさすぎると。自分自身のことも、その女の子のことも。あなたが『あの世界』と呼称している空間のことも。……そして『僕』のことも……いや、『僕』についてはおそらくあなたは良く知っている。もっとも、今のあなたは僕を『あの人』と呼んで、遠ざけているようだけれど……」
(やめろ! その話はするな!)
そこは、俺が最も踏み込まれたくない場所だったのに。案の定土足で上がり込んできて、俺はますます怒り心頭に発する。
「……まあいいさ。僕もこんな議論には疲れた。好きにすればいい。ただ、僕の方も好きにさせてもらう。今度は僕たちが直接君に会って、あなたを僕の生きる道に無理やり引きずり込んでみせる」
そう言って「あの人」は、フッと消えた。
最後に文句の一言でも言ってやろうと思ったが、そんな間もなく消えた。
(何だったんだよ……)
彼の信条に納得は出来ない。だが、認めざるを得ないことも、現に言っていた。
俺は実際に、「あの世界」について、あまりにも無知だったのだ。
目が覚めた。今しがた見た夢(いや、夢ではないのか)の内容は、バッチリ覚えていた。
とりあえず、着替えたりご飯の用意をしたりする。
以前と同じく気分はブルーだ。今日は輪をかけて。
(なんか朝からどっと疲れたな……)
しかし、今日という日はこれからだ。嫌でも元気を出さねばならない。
それに俺には目的がある。
この世界の素晴らしさを心身一体となって享受すること。そして真乃と一歩踏み込んだ関係になることだ。
(そうだ、アグレッシブに生きるんだ)
学校へ行く準備ができた。
俺は沈んだ気持ちをエネルギーに変えて、家を飛び出した。
今までより文字数多いのにあんまし話が進んでないですね。
次回は結構話進めるかもしれません。
というかお友達のメンバーが誰も出てこない……。次回はたくさん出します。多分。