第一話
●水瀬邸 茶の間
ある日曜の午後のことだ。
「水瀬君」
茶の間に入ったルシフェルの目の前で、水瀬がコタツで眠っていた。
丸くなって幸せそうな寝顔を浮かべる水瀬を見ると、なぜか猫を連想してしまう。
猫はコタツで丸くなるし、寝る子は育つというけど、少なくとも、後者は水瀬君限定でウソだ。
ルシフェルはそう思う。
いつも寝てばかりなのに、水瀬君は心身共に成長しないじゃない。
クー……スー……
水瀬の穏やかな寝息が午後の気だるい雰囲気をさらに気だるくさせる。
「……もうっ」
時計を見たらまだ午後2時。
お昼まで寝ていて、さらに寝るのか?
ルシフェルはあきれ顔で水瀬に近づくなり、乱暴に水瀬の肩を揺すった。
「水瀬君っ!」
「……ふえ?」
水瀬は寝ぼけ眼のまま、ぼうっとした視線をルシフェルに向ける。
あれ?
なんで?
水瀬が現実を受け入れられずにいるのは、表情でわかる。
「……ルシフェ?」
その言葉が、水瀬の口から出てくるのには、時計の秒針を一回転させる必要があった。
「もう……いつまで寝ているの?おコタしまっちゃうから」
「……うん」
どうでもいい。
水瀬の顔はそう言っていた。
いや。
ルシフェルは、水瀬の瞳の奥に隠れた別な感情を見逃さなかった。
「何?」
「えっ?」
「すごい、不満って顔だよ?起こされたの、そんなにイヤだった?」
「……」
こんっ。
水瀬が額をコタツの天板に額を乗せて沈黙。
暗にそれを認めた。
「……いっそ」
そのままの状態で、水瀬がポツリと言った。
「夢のままだったら、どれだけ幸せだったろうなぁ」
「何?そんなに楽しい夢でも見ていたの?」
「……うん」
クスン。
ルシフェルから水瀬の表情は見えないが、どうやら泣いているらしい。
「クスッ。何?カワイイ女の子でも出てきた?」
ルシフェルは、悪戯っぽく訊ねた。無論、それは彼女にとって、他愛もない冗談に過ぎない。目の前の男の子にとって、意識する異性なんて、一人しかいないのに―――。
だが、
「女の子じゃなくて」
水瀬は、ルシフェルの予想もしなかった言葉を口にした。
「女性だよ」
「―――えっ?」
「立派な女の人……はぁ」
「……瀬戸さんに告げ口しちゃうから」
「……どうでもいい」
「―――えっ?」
ルシフェルは目を見開いた。
瀬戸綾乃。
自称、水瀬の許嫁。
その嫉妬深さと暴走のすさまじさは、水瀬を震え上がらせて止まない。
その相手さえ恐れない。
水瀬はそう言ったのだ。
「な……ウソでしょ?まだ寝てるの?」
「本当だよ」
水瀬はようやく顔を上げた。
「“あの人”のことは、例え綾乃ちゃんでも悪口言ったら許さないんだから」
「……」
「それで、どうしたの?」
水瀬から聞かされた言葉に、ルシフェルは危うく自分が何を水瀬に告げようとしていたか、忘れる所だった。
「お父様とお母様が夜、いらっしゃるそうよ?」
「何しに?」
「私の着物探しに銀座に来てるんだって」
「……ああ、ルシフェ、茶道始めるんだっけ?」
天板に顎を乗せた水瀬は、ぼうっとした顔で、ついさっきまで見ていた夢を思い出していた。
夢の中で、水瀬は一人の女性を抱いていた。
互いに愛を囁き、恍惚としたまでの肉欲に溺れていた。
夢とは夢想のことか?
―――違う。
そう。
それは、水瀬の過去。
現実なのだ。
例え夢の中といえ、そのすばらしさは例えようがない。
「所で」
ルシフェルがその華奢な腰に手を当てた。
「人事局の要請、また断ったそうだね」
「当たり前」
水瀬はにべもなく答えた。
「あの戦争の時の契約だって履行されていないんだよ?どうやって契約しろっていうの?」
「契約?」
近衛騎士団の契約は、金銭が普通。ごく希に物納を希望する者もいるが……?
そういえば、水瀬君って、いつもお金がないお金がないっていうし、お父様から仕送り受けているけど、その辺、どうなんだろう?
いくらを要求して、契約が履行されないんだろう?
水瀬君って、生活費以外のお金には淡泊なんだけど……。
「よく、わかんないけど」
ルシフェルは困惑気味に言った。
「でも、樟葉さん、困っているよ?」
「問題の契約、持ちかけたのは僕じゃなくて樟葉さんだもん」
「何を―――契約したの?」
「……」
水瀬は、しばしの躊躇の後、言った。
「―――笑わない?」
「笑わない」
「絶対?」
「笑ったら―――」
ルシフェルは少し考えてから言った。
「一週間、お昼、好きなものおごってあげる」
「……」
ルシフェルが、それほど深く考えていないのは水瀬にもわかる。
そんなルシフェルに水瀬は、ポツリと言った。
「―――お嫁さん」
●銀座某着物店
「おい、いい加減にしろ」
うんざりという声をあげたのは、由忠だ。
開店時間に入ったのに、もう日が暮れる。
それでも妻のお眼鏡にかなうものがないらしく、倉庫から出された反物はすでに山になっている。
妻の買い物時間の長さは、夫として身にしみてわかっていたが、今日は酷すぎる。
なにより、金額が最初の頃と比較して、優に3ケタ上がっているのはマズい。
「何を言うのですか?」
反物の山をバックに不満そうに答えるのは遥香だ。
「娘の初着物ですよ?親として、念には念を入れておかないと」
「だからといって、モノには限度というものがある!」
「そんなに不満でしたら、言っているじゃないですか。クレジットカードだけおいていってくれればいいって―――あ、そっちの反物も見せてくださいな」
「……それ、いくらだ?」
「こちらはおいくら?2500万?いい柄ですわねぇ」
「ちょっ!?俺を破産させる気か!?」
「妻の私がいいと言うのです。それに、不満ならもっと稼いでいらっしゃいな」
●同じ頃、東京都千代田区某所
「聞いてるの!?」
広い和室に声が響く。
「聞いてますよぉ……」
気のない返事が、相手の神経を逆撫でする。
「じゃあ、今、何て言ったか言ってみて!」
「要するに、拓也さんが冷たいって、そういいたいんでしょう?」
「そう!―――聞いてたんだ」
「何度も聞かされれば覚えます。全く……人がオークションみてる時に邪魔するんだから」
「ママ……その姿、似合わない」
不満顔で言うのは、巫女装束に身を固めた萌子だ。
萌子が見つめる先、そこには、同じように巫女装束を纏う母の姿があった。
巫女がネットオークションに打ち込む姿は、確かに似合わない。
まして、その中身の正体を知れば尚更だ。
「大体、オークションって、何探しているの?」
「お値打ちモノ」
「?」
母の背後に立った萌子は、画面を見る。
「何?―――夫を立身出世させる方法教えます。著者山内千代?支払いは一括。送料無料?」
「他にもね?名物茶器「平蜘蛛」高値で買いとりますだって。売ろうかしら」
「誰が?」
「織田信長さん。あの人、生きていたのねぇ。そう言えば、あの釜、どうしたっけ」
巫女はパソコンの前から立ち上がると、部屋から出ていった。
「確か……あら?何かに使ったはずよねぇ。何だったかしら?」
●翌日 葉月市 夢幻茶道教室前
「ありがとうございました」
深々と頭を下げているのはルシフェルと萌子だ。
「いえいえ。水瀬さん。よければ通って下さいね?あなた、かなり筋はいいから」
人の良さそうな初老の女性がそういってルシフェルに教室の案内を手渡す。
「ありがとうございます。帰って家の者と相談してみます」
●茶道教室近くの喫茶店
萌子があんみつを食べながら言った。
「お姉様が茶道に興味があったなんて知らなかった」
「うん。お茶は好きだから。むしろ、萌子ちゃんが通っていたのに驚いた」
対するルシフェルはお茶に白玉団子。
ルシフェルに言わせると、「お茶=団子」は黄金律だ。
「へぇ。私なんて稽古事程度にしか考えてないから、お姉様はやっぱりスゴイです」
「お茶、おいしくない?」
「苦いだけです」
きっぱりと言い切る萌子は薄い桃色の着物姿。対するルシフェルは制服姿。
学校の帰り道で茶道教室の張り紙を見つけたルシフェルが、どうしたものかと教室の中をうかがっていた所を、この教室に通う萌子により、中に連れ込まれた帰りだ。
「足、痺れるとか?」
「普段から正座には慣れてるから、それは平気」
「水瀬君は、それがイヤだから茶道はしたくないって」
「お兄ちゃん、そういうところズボラだから」
「言えてる」
クスクス笑い会う二人。
「あ」
萌子は、ポンッと手を打ち、巾着の中から手紙をとりだした。
「ルシフェルさんかお兄ちゃんのどっちかに渡してくれって、ママに言われていたの」
「私達に?」
差出人は、確かに水瀬とルシフェルの連名になっている。
だが、
『江戸府内何処か』
としか住所が書かれていない。
「これで届くと思ってるの?っていうか、江戸って……」
「ママの感覚って、こうだから……恥ずかしくて」とうつむく萌子。
中身は和紙に達筆な筆で何かが書かれているが……。
「ゴメン。こういうの、まだ読めないの」
ルシフェルは何度も見直した後、申し訳なさそうに手紙を封筒にしまった。
あまりに達筆すぎて、ルシフェルには、これが文字なのか、単に筆で複雑な線を書いているのか、それすら理解できなかったのだ。
「帰ってから、水瀬君にでも読んでもらう」
「読みましょうか?」
そういって左手を出してくる萌子だが、なぜか右手には、ルシフェルの団子があった。「読めるの?」
ルシフェルは、こういう図々しい所は、さすがあの水瀬君の妹だと思ったが、あえて無視して、手紙を萌子に渡す。
「娘ですから」
萌子は手紙を取り出しながら言った。
「困るんですよ。ママの時代がかった書き方って。本人は、これが最先端の書き方だって信じて疑っていないんです。で、小学校の時、母が手紙で私の欠席を伝えたことがあるんです。そしたら、学校の先生達、何て書いてあるかわかんなくて、私が説明するまで、私、無断欠席扱いだったんですよ?」
いいつつ、ざっと母親の手紙を見た萌子の表情が固まる。
「どうしたの?」
「えっと……これ、仕事です」
「仕事?」
「"平蜘蛛の釜"をなくしたから探してくれって」
「何?それ」
●翌日 明光学園大食堂
戦国時代、松永久秀という武将がいた。
主家を滅ぼし、将軍を暗殺し、東大寺大仏殿を焼き払うという史上希に見る悪事を成し遂げ、織田信長に謀反をしかけるが居城信貴山城を織田軍に包囲され、1577年10月10日壮絶な爆死を遂げている。
「その久秀が持っていたのが、平蜘蛛の茶釜だよ」
そう説明してくれたのは博雅だった。
「正確には、古天明平蜘蛛。信長が所望し、差し出せば久秀を助命するとまで言わしめた天下の名物」
「引き渡したの?」
「いや?一説には、“久秀の白髪首と平蜘蛛の茶釜だけは信長に渡さない”とかなんとか言って、茶釜と自分を鎖で結びつけ、茶釜の中一杯に火薬を入れて火を付けたとも―――だから、久秀は、日本で初めての爆死による自殺者とも言われるんだ」
「……まぁ、歴史上じゃ、そうなってるよねぇ」
と、何でもないといわんばかりの口調で言うのは水瀬。
その目の前には、ハンバーグの載ったA定食とエビフライの載ったB定食、さらにアイスやジュースが並んでいる。
「それがどうしたんだ?」
おいしいおいしい。と、ホクホク顔の水瀬と、素うどんを食べながら苦り切った顔をするルシフェルを前に、博雅が首を傾げた。
「歴史小説にでも興味が?」
「あのね?」
ルシフェルが言った。
「それ、探してくれって頼まれて」
「……ルシフェル。俺の話聞いていたか?あれは数百年前、既に―――あっ!」
博雅が驚いた声をあげ、額を軽く叩いた。
「すまん。平蜘蛛なんていうから、てっきり久秀の方かと思ったけど、それなら違うな」
「違う?」
「ああ。「平蜘蛛釜」の方だろう?」
「どう違うの?」思わず水瀬とルシフェルが顔を見合わせた。
「「平蜘蛛釜」は、蜘蛛がはいつくばっているような形をした茶釜のことさ。これならあちこちにあるはずだ。南部鉄器とか」
「ないはずの物と、ありすぎる物……かぁ」
水瀬がフォークを口にくわえながらぼやいた。
「極端だねぇ」
「おい。水瀬?誰か、平蜘蛛釜を欲しがっているのか?」
「……詳しく、話を聞かないとダメみたいだね」
「?」
「水瀬君……私、よく知らないんだけど、あの人って、何者なの?」
「僕も詳しくは知らないよ。ただ、もの凄い凄い過去があるとは聞くけどね。博雅君の言う爆死って、あの人が証拠隠滅しただけかも……そうだ、ルシフェ。茶道、教えてもらったら?千利休本人に習ったらしいから」
「……」
「……」
「多分、本人が言ってるのは、久秀と共に失われたはずの方の平蜘蛛の茶釜だよ。そんな貴重な物、なんでなくすかなぁ」
「誰かに貸したまま、忘れていたとか」
「なんだか、あの人のことだからあり得るのが恐い」
「なぁ、誰のことだ?」
「ゴメン。それは内緒。ただ、やんごとない身分の方としか言いようがない」
「そ、そうか……」
「気を悪くしないでね」とルシフェル。
「これ、博雅君のためだから」
「あ、ああ……わかっているが」
「?」
「どうやって探すんだ?そんなもの」
「聞いてみる。きっと随分と厄介な理由があるはずだから」