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有栖川の災難  作者: 花南
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災難その2



 蓉子の一件があってからしばらく、おいちゃんは一人で行動することが多くなった。別に避けられたわけじゃあないのだけれども、なんとなく声をかけづらいみたいで、みんな遠巻きに見ることはあっても話しかけてくれなかった。

 ……やっぱり避けられてるかな。

 そんなわけで、少し浮いた存在になったおいちゃんは学食を食べるのも一人、体育の時間も一人、行き帰りも一人というマイペースな大学生活を送っていた。だけど悪いことばかりじゃあない。この間に書いた小説は二次選考まで通った。やっぱりしっかり時間をとって書けるか書けないかで小説の出来は変わってくる。惜しむらくは誰かに読んでもらえないため、ひとりでは十分な推敲に限界があることだ。

 その日も大学近くのカフェでコーヒーを片手間に飲みながら、おいちゃんはポメラとにらめっこをしていた。

 進まない。どうしても、主人公の気持ちはわかるのに、彼女の気持ちがわからない。

 おいちゃんの恋愛小説には必ず女の子が出てくる(そりゃそうだ、男しかいなかったら別ジャンルだし)けれども、その子たちが何を考えているのか、というところにくるといつも筆が止まる。

 ありきたりな恋、ありきたりな告白、親密になり、別れるまで。恋愛小説というのはどこまで書くかはともかくとして、だいたいこのコースのどこかを中心に描くのだと思うけれども、おいちゃんはついついお別れのシーンが多くなってしまう。

 結論から言うのであれば、おいちゃんの中で生身の女性というのはよくわからない生き物だ。神秘的、と言えば聞こえはいいけれども、何か一貫した主張があるわけでもなくいきなり機嫌が悪くなったり、実のない話を延々としたり、「どう思う?」と言われ、意見を請われているのかと思って口を出すと「意見が欲しいわけじゃあない」と言われたり。

 とにかく、不条理。だからおいちゃんは長い間、遠目に眺めている分にはかまわないけれども始終いっしょにいるのは憚る生物として同じ人間である女性を要注意と見ていた。

 初めて付き合ったのは蓉子だったけれども、どうして付き合ったんだっけ。

 たしか、頬を赤らめて「付き合ってください」って言う姿が可愛かったからOKしたんだったと思う。あのとき蓉子は何を考えておいちゃんに近づいたのだろう。

――助けて、欲しかったの。誰かに苦しさを共有してほしかったの。

 共有できなかったのだろうか。蓉子の苦しみを、おいちゃんは本当に共有することができなかったのか。なぜ犬童でなければならなかったのか、なぜおいちゃんでは駄目だったのか。考えたくないけれども、考えてしまう。

「はあ……」

 ため息が漏れてしまった。なんだか情けない気分になる。

「辛気臭いため息」

 誰かの声が聞こえて、ポメラから顔を上げた。おいちゃんの視線に飛び込んできたのは、ふわふわした赤毛のショート。シンプルなカッターシャツは彼女の女性的な曲線をより眩しく映していた。

「どなた?」

 だけどおいちゃんの第一声はそんなもんだった。

赤木洋子あかぎようこ

 彼女はそう言って、名刺を差し出してきた。思わず受け取ってしまう。何かお水な仕事をしている人かな? と思ったけれども、その名刺はシンプルな、彼女のシャツと同じ真っ白な名刺だった。

 洋子、の字が違うことに少しだけ安心する。今もまだ、蓉子という字面は見たくなかった。

「赤木洋子さん? いきなり辛気臭いはひどいんじゃありません?」

「なんか悩み事があるんだったら聞いてあげようかなと思って。必要ないならいいけれども」

 親切なのか失礼なのかわからない洋子さんは、おいちゃんのお向かいの席に座って脚を組んだ。ベージュのミニスカートから伸びるトレンカ。綺麗な脚だなあと思わず思ってしまった。

「別に大した悩みじゃあないんですけれどもね」

「うん、聞いたげる」

 洋子さんはテーブルの上に頬杖をついて、にっこりとこちらを見てきた。どぎまぎしながら、おいちゃんは答える。

「元恋人が、この前死んだんですよ」

「へえ。辛かったでしょ?」

「まあ、普通と違う亡くなりかただったからショックは大きかったです」

「なるほど。それから?」

「それだけです」

「それだけえ!?」

 洋子さんは素っ頓狂な声をあげた。

「私は今のため息、もうちょっと辛気臭い内容が詰まってるんじゃあないかと思ってた」

 ご名答。辛気臭い内容がいっぱい詰まってます。

「あんた名前なんていうの?」

 洋子さんに聞かれて「有栖川聡ありすがわさとし」と答えた。

「頭よさそうな名前だね」

「親は頭のいい子になってほしかったみたいですね。弟は体力がつくように元気そうな名前で銀太ってつけられました」

「似てない兄弟を想像した」

「似てませんよ」

「うん、似てないだろうね」

 洋子さんはそりゃー似てないだろうと何度も相槌を打った。おいちゃんはそこまで血のつながった兄弟が似ていないなんて言われるものかなあと思いながら、珈琲を啜る。

「んで、聡くん。君はポメラで何を書いているの?」

「あ、大したものじゃあありません」

「すごく真剣そうに書いていたのに?」

 文芸部……なんて言って、笑われたりしないかなあと思いながら、言ってみることにした。

「小説です。僕、文芸部なんで」

「へえ。文芸部なんだ。見てもいい? 小説」

 彼女のほうにポメラを向けると、彼女はそれをゆっくり読み始めた。時折カーソルを下に送るキーボードの音。彼女の目は真剣だった。

「投稿とか、考えてるの?」

「その作品は投稿するためのものじゃあないですけれどもね。投稿はしています」

「へえ。未来は作家志望だったり?」

「おかしいですか?」

「おかしくはないよ。私、小説好きだし。この小説も面白いと思う。男の人がすごく格好いいよ。だけど……」

「だけど?」

 洋子さんは一呼吸置いて、言った。

「女の子はなんか、人間って感じがしないかも」

「といいますと?」

「いや、それが悪いとかじゃあないよ? うーん、うまく言えないけれども、理想を描いているっていうのかな。よくも悪くも、生身の女の子って感じがしないんだよね」

 洋子さんはそこまで言うと、ポメラをこちらに返してくれた。

「恋でもすればいいんじゃない? いっぱい恋すれば、女の子のことがわかると思うよ」

「暗においちゃんの経験が……あ」

 しまった。うっかりおいちゃんとか言ってしまった。

「おいちゃん?」

 洋子さんは目をぱちくりとさせて、そしてぷっと笑った。

「一人称おいちゃんなんだ! すごい、初めて聞いたわ。そんな一人称」

 洋子さんは力のかぎりぷははははと笑った。人の少ないカフェの中に笑い声が響く。おいちゃんはちょっと恥ずかしかった。

「おいちゃん、もしよかったらいっしょに外に出ない? 今日暇なんだ、遊べる相手を探していたの」

 今度はおいちゃんの目が点になる番だった。こ、これはいわゆる……逆ナンパ? おいちゃんは自分の格好を見てみる。普通にシャツ着てパンツ履いた、どこにでもある格好だ。おいちゃんの顔? それは服以上にどこにでもある平凡な顔ですよ。決してすごく格好いい顔とかいうわけではない。

「あの、本当に僕でいいので……?」

 おいちゃんは夢じゃあないかと思いながら、おずおずと聞いた。

「ん。ちょっと港ぶらぶらしたいだけなんだよね。横浜行かない?」

 来た。横浜。

 なんだってこんなデートスポットがたくさんな街を選ぶんだ。

「海が見たいんですか?」

「そう。海が見たいの」

 洋子さんはにっこりと笑った。笑うと柔和な雰囲気になる洋子さんの笑顔に見とれながら、おいちゃんは急いでここの勘定を財布から取り出した。


「おいちゃんってどこの大学行ってるの?」

「A大学です」

「あそこけっこう頭よくなかったっけ?」

「そうでしたっけ。普通よりちょっと上ぐらいだったと思います」

「十分いいじゃない。私、大学途中で中退しちゃってさ。今考えれば行っておけばよかったかなーなんて思うんだよね」

「洋子さんは今大学生じゃあないんですか?」

「もう社会人だよ。これでも二十三歳なの」

「じゃあ年上ですね」

「おいちゃんいくつ?」

「二十歳です」

「若っ!」

 おいちゃんと洋子さんは港の波止場を歩いていた。空は残念なことに曇り空だけど、秋の潮風はやさしくおいちゃんの頬を撫でた。

 洋子さんのふわふわした赤毛は、風に揺られてもっとふんわりしている。

「あ、煙草吸っていいですか?」

 おいちゃんは立ち止まって聞いた。洋子さんは「いいよ」と言った。

 おいちゃんはコウモリの模様の描かれた煙草をポケットから取り出す。

「それ、けっこうマイナーな煙草じゃない?」

「ゴールデンバットですね」

「フィルタついてないんだ。へえ」

 洋子さんはそう呟いて、おいちゃんの指から煙草を攫った。そうして自分のライターで火をつけて、一服する。目を細めてから煙を吐き出し、そうしておいちゃんに吸いかけの煙草を返した。

「あまり好みじゃあなかった」

「そうでしたか。残念だな」

「おいちゃんさ、煙草って害になるの知ってる?」

「当然知ってますよ」

「発ガン率すごく高いんだって。どれくらいの人が煙草吸ってると死ぬか知ってる?」

「怖い話しないでくださいよ」

 おいちゃんはへらっと笑って煙草を吸った。洋子さんは目を細めて、にんまりと笑った。

「健康な内臓もらってきたのに、タールとニコチンで汚すなんて馬鹿のすることだよ」

「馬鹿ですから」

「そうだね。馬鹿は嫌いじゃあない」

 洋子さんはそう言って、海と反対側の方向を向いた。おいちゃんもそっちの方向を向く。大きな観覧車が見えた。

「ありがちだよね、海に来て観覧車なんて」

 洋子さんがそう呟いた。

 おいちゃんと乗りたいというよりは、観覧車に乗りたいという雰囲気だった。

「乗りたいなら、乗りましょう。洋子さん」

 おいちゃんは観覧車を指さして言った。

「乗りたいなんて言ってないけれども?」

「乗りたそうでした」

「乗ってもいいけれども、観覧車って高いよ?」

「それくらいはお金持ってますから」

 洋子さんの手を引いて、おいちゃんは観覧車乗り場へと向かった。洋子さんの手は小さく、そして引っ張ると洋子さんの体は折れそうなくらい細かった。


 観覧車乗り場まで来て、洋子さんとお向かい同士に座り、少しずつ登っていく小さな箱の中で、灰色の空と、鈍い色をした海を見た。観覧車日和とは言いがたかった。

 洋子さんはじっと観覧車の外の遊覧船を目で追っていた。おいちゃんはカモメを目で追った。カモメは滑空して、遊覧船のマストへと留まった。おいちゃんは洋子さんを見た。洋子さんは少し泣きそうな表情をしていた。きっと、何か昔の思い出がここに詰まっていたんだろうなと思った。


 観覧車から降りる頃、街に灯りがつきはじめた。おいちゃんは洋子さんといっしょに観覧車を降りて、そして自然と洋子さんが向かう方向へ――港のほうへと足が向かっていた。

「何か、あそこに思い出があるんですか?」

 聞いちゃいけないかな? と思いながら、おいちゃんはおずおずと聞いてみる。

「大したことじゃあないよ。昔、この街に来たときに、この観覧車に乗ったなって思っただけ」

「本当にそれだけですか?」

 洋子さんはこっちを向いて、にやっと笑うと「それだけだよ」と言った。

「あの頃は、しがらみ全部捨てれば、自由になれると思っていたや」

 洋子さんが伸びをしてそう言った。明るく呟かれた言葉は仄かに暗さを帯びていた。

「洋子さん」

 おいちゃんに呼ばれて、洋子さんがこちらを振り返る。

「僕じゃあ……共有できませんか?」

「ん? 何を?」

「あなたの背負ってきたもの、僕じゃあ共有するのに役不足でしょうか」

 何故そんなことを言ったのかはわからない。蓉子と洋子さんを重ねていたのかもしれない。何も共有できなかったということから抜け出す鍵を探していたんだ。

 洋子さんは笑った。

「いい子だね、有栖川くん」

 その台詞は、何かバツの悪さのようなものを感じている声色をしていた。

 洋子さんは、ひゅう、と口笛を吹いた。何のために吹いたのかおいちゃんにはわからなかった。

 後ろから頭陀袋のようなものを被せられて、視界が暗くなる。暴れるおいちゃんを掴み上げる腕、それはどう考えても男のものだった。

「んな!?」

「見つかる前に連れていくよ」

 洋子さんのきびきびした命令する声が聞こえる。なんのことだと思っているうちに体は持ち上げられ、そしておいちゃんは運ばれた。

 どさっと下ろされたところがどこかもわからず、冷たいコンクリートに頭をしたたかにぶつけたところで、洋子さんが「大事な商品なんだ、気をつけてよ」と言った。

「商品?」

 思わず聞き返す。

「煙草で駄目にする前にもらっても文句ないでしょ? どうせ使い物にならなくなるんだから」

 な……なんのことでしょうか。それは、その……な、内臓を売り飛ばすということでOKでしょうか?

「冗談じゃあない。通報するぞ!」

「どうやって?」

 おいちゃんはポケットの携帯を探す。が、見つからない。洋子さんが「ああ、これのことか」と言っているのが聞こえるところをみると、抜き取られていたみたいだ。

「洋子さん、なんで!?」

 おいちゃんの責める声に、洋子さんは「はじめからそのつもりだったんだよ」と言った。靴音が遠のいていく。

 おいちゃんの意識も遠のいていきそうだった。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。ここは横浜だ。人口の少ない日本海側とは違うんだ。攫われたら、絶対誰かが目撃しているはずだ。誰かが通報するまでここで時間を稼げばいい。

 でも、もし通報しなかったら……? おいちゃんは胸中だらりと冷や汗をかいた。

「どうしよう……」

 呟いて、頭陀袋の中で膝を抱える。

「おいちゃん死ね」

 そんな時に限って、弟の銀太の声がリフレインする。死ねるか、死んでたまるか。弟の思惑どおりになってたまるものか。あいつのことだから「おいちゃんのことだから、女の人に騙されて内臓バラバラにされたんじゃない?」とか言うに決まってるんだ。ああ、そのとおりだよ! そうなりかけているよ。

 おいちゃんの頭はパニックになりかけていて、怒りの矛先が銀太に向かっていた。

「死にたくない……」

 声に出して呟いてみる。やたらリアルな現実が、おいちゃんを冷静にさせてくれた。

 倉庫番の人はいないらしく、頭陀袋から出ようと思えば出られるようだった。

 おいちゃんはもぞもぞと体を動かし、頭陀袋から這い出る。そうして体の埃をはらって、ゆっくりと立ち上がった。どうやら船の中らしい。いよいよ密輸されますって雰囲気だなと思いながら、そっと入り口の取っ手を回した。

 抜き足差し足、船の外に出るとそこから急いで海の中に飛び込んだ。大きな水しぶきをあげて、おいちゃんは動きづらい服のまま岸部めがけて泳ぎ出す。船のほうから外国の言葉で何か言っているのが聞こえるが、振り返らずに全力で岸まで泳いだ。

 秋とはいえ、十分に体温を奪ってくれた海に別れを告げて、おいちゃんは警察の派出所に飛び込んだ。

「保護してくだしゃい」

 歯がかじかんで、声は上ずっていた。慌てて警察の人が毛布をかけてくれて、おいちゃんは無事保護されることになった。



「まったく、何度警察にお世話になれば気がすむのでしょうね。このおいちゃんは」

 語の奴がおいちゃんの死に物狂いにあった話を聞いて、にやにやと笑う。

「死にかけたんだぞ。語」

「普通そんな密売人なんかに関わったら死ぬってば。悪運が強いとしか言いようがないよ。よかったね」

 千木が惣菜パンを食べながらそう言った。たしかに助かったのが奇跡だ。

「この調子だと、あと何回かは警察のお世話になったりして?」

「そういう冗談は言わないものだよ、語くん」

 姉の薫が窘めるが、語はいいネタが手に入ったとばかりにニヤニヤしている。

「それで、いい女だったの? その赤木洋子って」

 語に聞かれて、赤木洋子のことを思い出した。

 風に揺れるふわふわの赤毛、白いシャツ、きれいな脚、謎めいた微笑み、観覧車を憧れるような目で見ていた表情。

「放っておくと、どこかに消えていってしまいそうな人だった」

 おいちゃんはそうとだけ言った。

「放っておけなかったんだね」

 千木がそう相槌を打った。

「本当に、消えていっちゃうかもしれないと思ったんだ」

 蓉子のように、とは言わなかった。

 蓉子と洋子。やっぱり違う人なのに、おいちゃんはどこかでこの二人を重ねているみたいだった。

「僕はおいちゃんのほうがそのうちどこかでおっちんでるんじゃあないかって気がして心配だよ」

 千木がもう一度そう言った。

「ばーか、死なないよ」

 おいちゃんは笑った。そう、死んだりするものか。

「おいちゃんに二次元の嫁がついている限り、おいちゃんは不死身なんだよ」

「はいはい。そうでしたね」

 語がへらへらと笑ってそう言った。そうしておいちゃんに、また文芸部のメンバーたちと何事もなく生活できる日々が戻ってきた。


(了)

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