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第1章 彼方へ(8)

 ―十二年前。


 その日の午後の昼下がり、蔦緑の家の一室ではふたりの子供が向かい合って座り、目の前に据えられた焼き菓子にお互いが交互に手を伸ばしながら、とりとめのないことを喋りあっていた。


 ふたりの子供達のうち、ひとりは少女で、もう一人はもう少し年長と見える少年だった。


 少女の名は、マリー・オーウェン。


 マリーは六歳で、薄紅色をした柔らかで上等な生地で作られた、ワンピースを身に着けていた。


 その腰には艶やかな真紅の布が結わえられており、髪には数種類の花々の姿がかたどられ、幾つもの宝玉が嵌め込まれた美しい髪飾りを付けていた。


 少女はこの蔦緑の家とも呼ばれる広大な屋敷を、代々に渡り受け継いできたグリュエールの中でも特に名門中の名門であるオーウェン家の令嬢だった。


 マリーは生まれながらに神から特別に授けられたかのような、艶やかな金の髪と深い青の両眼を有していた。


 片やもう一人の少年の方は、この屋敷に隣接する別のもうひとつの屋敷に住まう鉱物学者の息子で、シン・カルヴァートといった。


 シンは八歳で、羽織っていたテーラードジャケットを脱ぎ、背後の椅子にかけた姿で、白いシャツを身に着けており、その首元には先端が水平になった幅が細めの藍色のネクタイを結んでいた。


 シンの容貌は艶やかなマリーとは対照的に、髪も眼も漆黒に塗られたような落ち着いた色をしていた。


「最近お父様の帰りが何時も遅いの。朝もとても早く出かけてしまうし……。今日こそはお会いしようと思って絶対早く起きるつもりだったのに、やっぱり駄目だったの」


 屋敷中で一番日当たりが良い部屋の片隅で、マリーは不満げにそう言った。


「マリーのお父さんは国の議会の偉い人だから、忙しいのが当たり前なんじゃないかなぁ。仕方ないと思うよ」


 シンは、若干目線を上げて言った。


 そんなシンの言葉に、マリーはかぶりを振って再び口を開く。


「そればかりじゃないわ。……それにお母様が、毎日刺繍の練習をしなさいって、そればかりうるさく言うし……。たまにしかいないのに。わたしは刺繍なんて大嫌い……。ちっともきれいにできないしあんな退屈なものを、なんでひとりでずっとやらなきゃならないのよ」


 マリーは心底つまらなそうに唇を尖らせ、縫いかけのまま既に放置されて久しい、僅かばかり針を通しただけの布に、恨みがましい一瞥を向けた。


 それまでシンは机上に広げた紙の上で鉛筆を走らせていたが、一旦その手を止めてから、顔を上げた。


「マリー……。またそんなこと言って」


 シンはたしなめるようにそう言いながら、書きかけの紙の上に再び視線を落とす。


「ねえ、シン。さっきからずっと何を書いているの? それにその手に持ってる機械みたいなのは何? 前は持ってなかったよね? 」


 マリーはシンの手元を覗き込むように、踵を上げて伸びをした。


 シンが手にしていたのは、細長い二本の脚を持つ、金属製の器具だった。


 器具の両方の脚を繋ぐ中央の付け根近くには固定用の螺子(ねじ)がついており、そこを基点に自在に開閉する動作を繰り返すというものだった。


「製図の為の道具だよ。でもマリーは触らない方がいいよ、先に針が付いてるから。これで図を描いたり測ったりするんだ。前からずっと欲しかったんだけど針がついてて危ないから絶対駄目だって言われてたのを、父さんがようやくくれたんだ。それと、これは夜空の星が出る場所を書いているんだよ」


 シンは大切そうに手元の器具にそっと触れながら、嬉しそうに笑って見せた。


 マリーはひどく物珍しそうにその器具を見た。


「見せて! 」


 そしてマリーがすかさず自分が見慣れない器具とシンが書きかけていた紙に向かって、真っ直ぐに手を伸ばしてくる。


「ちょっと待っててよ、まだ書いてる途中なんだから。だから手を出しちゃ駄目だって。……針が危ないんだから! 」


 シンはマリーの手を遮りながら、慌てて言った。


「じゃあ、ここから見ていてもいい? 」


 マリーはシンの背中側に回ると、そこから訊いた。


「うん。こうやって星と星を繋ぐと色んな形に見えるんだ、面白いよね」


 紙に幾つも鉛筆でしるしをつけながら、シンが言った。


「この星とこの星の間は大体同じだから……こうやって」


 シンは手にした器具の脚を開かせ、間隔を測りながら紙の上に針で軽く跡を付けた。


 それから、鉛筆に持ち替えると、その針の跡を辿るように丁寧に書きつけていく。


「この時期は特に明るい星がたくさん出るから好きなんだ。これはちょうど今頃の寝る前くらいの時間に見える空。でも、父さんと遠くの違う場所に行くと、全然違う星が見えたりする。すごく不思議だよ。この空はここにしかないんだね」


 シンは微笑んで、マリーの方に顔を向けた。


「でも、わたしにはその紙は刺繍の練習台用の元の絵を描いているようにしか見えないわ」


「そんなに嫌いなの? 刺繍が」


「嫌いに決まってるでしょ! 退屈なだけなんだもん! 」


 シンは少し困ったような表情を見せ、それから口を開いた。


「それはマリーは刺繍をろくに練習しないうちから嫌がっているから、ちっとも上手くならないんだよ。練習すればもっと好きになるかもしれし、上手になるはずだよ。本だって僕が読んであげなくても、字の勉強をすれば自分でいくらだって読めるんだから……」


 至極当然とも言えるシンの言葉の羅列に、途端にマリーはむくれたように頬を膨らませた。


 そんなマリーを見て、シンは更に言葉を続けた。


「僕の言うことが分かるだろう? 」


 そう言ったシンの言葉に、マリーは即座に反論を返してきた。


「シンは絵も上手いし、難しい本もたくさん読めるけど、わたしには出来ないの。……それでいいの」


「何言ってるんだよ。いいわけないよ」


「いいの。……人には出来ることと出来ないことの、その両方があるの。わたしにはその出来ることの方が、とても少ないんだもの」


 シンはマリーの言葉に、やれやれとも言わんばかりに肩をすくめて見せた。


「……またそんなこと言ってる」


「だって、本だってシンが読んでくれるし、側にいてそれを聞いているのが好き、そうすれば、どんなにつまらない本でも楽しくなるんだから。それでいいの」


「でも、僕をあてにしてばかりじゃ駄目なんだよ? 」


 だが、若干神妙な響きが込められたシンの言葉も、マリーには余り効果が無かったようだ。


「いいもん、どんな時だって、シンが全部助けてくれるから」


 そう言ってマリーは、すかさず甘い焼き菓子をひとつ口に放り込んだ。

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