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第1章 彼方へ(6)

「アドルフ様が国の頂点に立たれて以来、いらっしゃるお客様が増えて随分とお忙しそうですね。やはり今までとは全く違うんでしょうね」


 部屋に戻ったマリーを前にして、シェリルが磨き上げられた銀製の器に、手際よく温かな湯気を立ち昇らせた紅茶を注ぎながら言った。


 マリーはシェリルの言葉に、やれやれとも言わんばかりのため息を漏らしつつ口を開く。


「……そうね。でもだからって、わたし自身とは関係ないのにね」


 色とりどりに華やかに装飾された箱の山を前に、てきぱきと手を動かし移動させながら、マリーが言った。


「お嬢様への贈り物……前より増えましたよね、確かに」


 目の前に所狭しと置かれた箱の山を眺めながら、シェリルは半ば同情気味にそう言った。


 絶対的な権力を手中に収めた男の一人娘は、現在、その男を英雄として崇める多数の人々にとって、格好の標的となっていた。


 要は是非自分の子息との縁組を考えてほしいという、強い希望である。


 しかもその娘は現在十八歳、世間での結婚適齢期を考えると、むしろ既に遅い部類に属するくらいになっていた。


 その為、今や本人以外の周囲の中でだけ熾烈とも言える奪い合いが起こりつつあった。


 マリー自身の意志を顧みる者など皆無に等しいままに。


 それはもちろんここ数ヶ月で始まったことなどでは決してなく、以前からそういったことを希望する者達自体は大勢いた。


 ただ通常はそうはならないのだ。


 この蔦緑の家に住まう、オーウェン家のような格式のある家では大抵は子供が生まれると、その子が幼いうちに将来の配偶者となる許嫁を決めてしまう。


 だが、何故かマリーについては、一人娘でありながら両親が『あえて』それをしてこなかったという。


 そこにどういう意図があったからなのか、シェリルには分からなかったが、前に他の使用人達が声をひそめながら話しているのを聞いたので間違いなかろう。


 上流階級の人々の結婚とはそんなものなのだろうかと、シェリルは思った。


 かくして、結果的にはこの令嬢の将来の結婚相手の席は空席のままとなり、転機は訪れぬまま、今やその事実だけが一部の人々の間で独り歩きし、現在のマリー自身が心底不毛と頑なに主張する状況が生み出されることとなった。


 マリーはこれまでそういった人々に閉口し、一貫して知らぬ存ぜぬを貫き通してきたそうだが、最近の父親の国家元首就任を契機に、更に加熱した人々からの高価な贈り物が、連日に渡り送り届けられるまでになっていた。


 間違ってそれをひとつでも受け取ってしまえば、どんな勘違いを相手に与えることになってしまうかが知れないという強迫観念にも似た危機感を、マリーは常日頃から募らせていた。


 既成事実を作らせてしまったら後の祭り、ということか。


 そんなものは使用人に任せておけばいいと、シェリルは何時も進言するのだが、マリーは自分宛てに届いたものは、責任もって自分で送り返すと言って、絶対に譲らない。


 何故かそういうところだけは、この令嬢は妙に律義で強情で、懇切丁寧な直筆の手紙まで付けて送り返していた。


 しかし自分で決めたこととはいえ、実際にはそれに付随する面倒な手間が嫌で堪らず、マリーは日常的にシェリルに愚痴を零すことを繰り返していたのだが、シェリルにはそんなマリーの一連の言動が何処かほほえましく滑稽で、且つ面白く映ってしまう。


 便箋の束を机の引き出しから引っ張り出しつつ、マリーは椅子に腰掛けると、ひとまずペンを持つ手を止めた。


「ん……なんて書こうかしら。もう書ける文章も尽きてきたのになぁ」


 不満を漏らしながらも、マリーはいざ書き始めると、非常に丁寧に時間をかけて一文字ごとに綴っていった。


 だが現実問題として、目の前の令嬢はいずれそういった男性と結婚するのだろう……シェリルはごく当たり前のようにそう信じていた。


 そう、あえて言うなればお互いに充分に釣り合いのとれた家柄の相手と、だ。


 この女性はそういう宿命を生まれながらに持っているようなものなのだ。


 仮に何時かこの屋敷を出ることになったとしても、おそらくその生涯は半永久的に保障され、優雅で煌びやかな一生を過ごすことが可能だろう。


 本人が幾ら受け取るつもりがなくとも、それが揺るぎない事実だった。


 無論シェリルにとっては、そんな世界は雲の上のようなことではあるのだが、それが容易に想像出来るだけに、マリーが贈り物を全て無碍(むげ)に扱おうとするのが、シェリルにはむしろ不思議にさえ感じられた。


 だが、肝心のマリーはそういうことに一切興味がないどころか、心底嫌悪している様子だ。


 ―自分が誰かと結婚など、とんでもないと言わんばかりな態度で常に撥ね付け続けている。


 しかし実際にはその意に反して頻繁に届き続ける、山積みになった『うんざりさせられる贈り物の山』。


 おかげで、シェリルにはマリーが日常的に繰り返す愚痴にも返す言葉が無かった。


 そんなシェリルの心中を知る由もない、マリーの不満だらけの言葉は更に続いた。


「……とにかく、わたしはこういうことは本当にもうご免なのよ。物だけ送りつけてくるような相手になびくとでも思っているところが、既に納得がいかないのよね。お父様はその方々のことを、とても良くご存知なんでしょうけど、わたしはその人達の顔さえも知らないのよ」


 ―それはお嬢様がそういう方々が集まるような茶会にすら顔も出さずにいるんですから、接点が無いのは当たり前ですよ。


 シェリルは即座にそう思った言葉をひとまず吞み込んで、マリ―に温かな紅茶が注がれたカップを、黙ってそっと差し出した。


「……ありがとう。やっぱりシェリルの淹れてくれた紅茶が一番おいしいから嬉しいわ。これを飲んだら片付けの続きをしないとね。やりたくないけど」


 その時、カップを受け取りながら、一瞬箱の山に目をやったマリーの眼差しに僅かな陰りが浮かんだのをシェリルは見た。


 憂いに満ちたその表情は、あの東の方角を見つめる時のものと、何故か何処か似ているように思えた。


「あの人達は皆、この家の名前が欲しいだけ。その向こう側にいるわたし自身のことなど見ていないも同然なんだから……。本当に嫌になるわよ。好きになれるわけがないわ」


 マリーは唇を尖らせて、そう言った。


 だがシェリルはその言葉が、マリーが自身への正当な客観的評価を下した上で、到達した結論ではないことにとうに気が付いていた。


 その令嬢は華やかな装束も美しい装身具も何一つ身に着けることが無いが、それを補って余りある程に、同じ年頃の娘達より遥かに美しかった。


 それはシェリルが、自らの敬愛する主人だという欲目を差し引いても充分な程に……。


 マリーは喧騒や人付き合いを嫌い、名の知れた要人達が集う夜会にも、顔を出すことが殆ど無く、従ってオーウェン家の令嬢の姿を、直に目にすることが出来た人間は、極端に数が限られていた。


 だがあえて隠されれば、それを是が非でも目にしてみたいというのが人の普遍的な心理と言えるのではないか。


 熱心に何かしらの品を送り続ける者達が一向に減らないのは、無論、この家の家名もあることなのだろうが、それ以上に令嬢本人の姿を一目でよいので拝んでみたいという願望が顕われているように、シェリルには思われてならなかった。


 だが、当人である令嬢の自覚たるは、殆ど皆無に等しい……。


「本当に嫌……」


 側に控えた侍女の心の内を知らぬまま、半ば盲信的に自身の評価を歪めた思い込みをやめることが出来ないでいるマリーはうんざりしたように、もう一度そう呟いた。

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