第1章 彼方へ(5)
―半年後。
「マリーお嬢様、ここにいらっしゃったんですね。さっきからお探ししていたんですよ」
そう言って、シェリルは緑の蔦で覆われた屋敷の開かれた窓のひとつからから、ひょいと顔を覗かせた。
シェリルは腰より低い位置で切り替えた、黒いメイド服姿で胡桃色の髪を下ろしていた。
背後から掛けられた声に応えるように、遠方を見つめていた十八歳の金の髪の娘マリー・オーウェンが振り返った。
マリーはシェリルが最初に出会った日と同じ、華やかな容貌とはひどく不釣り合いな、まるで飾り気のない地味な白いシャツを纏い、若草色のスカートを履いた姿で、そこに立っていた。
「少し外へ出たかっただけなの。……今日はとてもいいお天気だから」
マリーは上空に広がる雲ひとつ見つけ出すことが出来ぬ、抜けるような青を指差して言った。
「少し姿が見えないだけで皆、直ぐにわたしを探そうとするんだから……そんなに過敏にならなくても、急に何処かに行方を眩ましたりはしないわよ? ……例えば境界より東へ……とかね」
声を掛けてきた相手をわざと困らせるように、悪戯っぽくマリーがそう続けるのを前にして、窓から顔を出したままのシェリルの表情が明らかに強張っていった。
「そんなことは至極当たり前です。冗談でもそんな恐ろしいことを、また仰るなんて。……お嬢様、どうかお止め下さい。私はそんなことを考える、ただそれだけでも身震いがしてくるくらいですから」
「そうね、ごめんなさい。シェリルの言う通りなのにね」
マリーは侍女からの自分へのたしなめるような言葉に、素直に詫び、頷いた。
「……でも、見えないけど、このずっと先に境界があるのね」
そう言って、マリーはさっきまでと全く同じように、再び東の方角を見つめた。
その眼差しに浮かぶ陰りと憂いに、シェリルはやはり自分が以前から繰り返し感じていた感覚が、決して偽りなどでは無かったのだと改めて思い始めていた。
時折、不意にこの屋敷の令嬢が見せるその悲しげな表情を。
それは決まってこうして、その令嬢が東の方角を見つめる時に表れるものだった。
シェリルはそれを目の当たりにする度、掛ける言葉を失い、ただマリーを見つめることしか出来ないでいた。
―マリーはシェリルにとって、非常に不可思議な存在だった。
侍女としての雇われの身であるシェリルが、常に直ぐ傍に控えているのにも関わらず、この令嬢はその仕事をことごとく奪うかのように、自らの身の回りのことはほぼ全てを自分一人でそつなくこなしてしまう。
そしてこの屋敷の代々の当主達が長い時間をかけ収集してきたであろう、数多くの蔵書を読むのに没頭する余り、日がな一日中、自分の部屋か、もしくは書庫の奥へと籠りきったまま、一切姿を見せようとしないことも多い。
おかげでシェリルには主人であるはずの令嬢には、時々顔を見に行って、お茶を出すくらいしか、本当にやることがなかった。
有り余る時間で、本来は従事する必要のない、屋敷全体についての細々とした雑務にまで余裕で手が回り手伝いに行くことが出来たので、同僚である他の使用人達との関係性も当初想定していたより、今ではずっと良くなってきている。
そして、マリーは最初に対面した日の言葉通りに、シェリルが問題なく文字の読み書きが出来るようになれるよう、何度も繰り返し根気よく付き合ってきた。
今ではおぼつかない手つきながらも、自ら字をしたためることが出来るようになったシェリルに、マリーはことのほか喜んでくれた。
主従関係を越えたところで誰にでも分け隔てなく接し、約束を必ず守ろうとする、不器用なほど徹頭徹尾、誠実な娘、それがマリーだった。
だからこそ、その令嬢が不意の瞬間に見せる悲しげな表情が理由が分からずとも、目には見えぬ細かい針が幾つも突き刺さるように、尚更シェリルの心を重く苦しくさせた。
その時、急に強い風が吹きつけてきた。
木々がざわめくように揺れ、葉擦れの音と共に、木の葉が勢いよく散っていく。
屋敷の窓枠が軋みを上げながら鳴った。
「風が強くなってきましたね」
強い風に煽られた自分の髪を押さえながら、シェリルが言った。
マリーは言葉を返さず、東の方角を見つめ続けたまま、ゆっくりと頷いた。