第1章 彼方へ(4)
―シェリル・エインズワースが長旅の末、辿り着いたその『特別な地』は、やわらかな日差しが照らし出した緑の草原が続く、そんな場所だった。
なだらかな丘陵地帯が遠方まで続き、風光明媚な田園風景が広がっている。
その地の一角には、威風堂々たる姿のひとつの巨大な屋敷が建っていた。
土地の人々はその屋敷のことを、何時の頃からか蔦緑の家と、そう呼んでいた。
そう呼ばれるようになった所以は、おそらく屋敷の外観が遠方からその姿を見ると、元々は白だった外壁が、今は隙間なく生い茂った緑の蔦に覆い隠されたように見えることに由来するのだろう。
この辺りの家々は、総じて皆どれもが大きなものばかりが多いが、その中でも蔦緑の家はまた格段な大きさと、広大な敷地を誇っていた。
―まさか、こんな大きなお屋敷でのお仕えの話だったなんて……。
遠路はるばる目的地にようやく辿り着いたというのに、シェリルの胸中は葛藤を繰り返していた。
それどころか、緊張の余り卒倒しそうな感覚に必死で耐えつつ、通された一室で萎縮しながらひたすら怯えているような有様だった。
部屋中を埋め尽くすように置かれた、見たこともないような豪華な調度品の数々からはシェリルがこれまでに見聞きもしたことがないような、上流階級の人々の暮らしが窺えた。
以前仕えていた屋敷とは格が違う。
―そもそも提示された給金が破格だったことで、最初の時点で疑うべきだったの……?
シェリルは今更ながらに、後悔を感じつつそう思わずにはいられなかった。
少し緩やかな癖がある、自身の胡桃色の髪に幾度も落ち着かなく指で触れては離し、を繰り返しながら、シェリルは先程までと全く同じように、もう一度周囲を見回した。
その都度、目に入ってくる豪奢な装飾や調度の数々に、また更に眩暈を覚え、益々後悔が滲んだ。
この部屋に通される時に屋敷内ですれ違った、ある種冷たく映る、居丈高な雰囲気を漂わせた幾人もの使用人達の姿にも、思い出すだけで気持ちがすくみあがってくる。
質素でみすぼらしいとも取れる身なりの自分はどれだけ異質に映っただろうか。
シェリルはいたたまれない気持ちのまま俯いた。
「やっぱり……お断りしよう」
元来の気性から、独りでどこまでも突き詰めて考えてしまう癖が抜けない性格なのは既に自覚済みだった。
だからシェリルは独りでに頷き、そう呟いた。
―やはり丁寧にお断りしよう、心を込めてお話しすればきっとお許しいただけるはず。自分にはこんな立派なお屋敷のお仕えが務まるはずなどないのだから……。
そう、それが一番良い……そうシェリルが心を決めかけた時、部屋の扉を数回叩く音が、室内に響き渡った。
「……」
どうすればよいか困惑したまま、たった一人でそこで言いようの無い孤独感を味わっていたシェリルの前に、唐突に一人の娘が現れた。
まるでその全てが天からの授かりもののような、まばゆい金の髪と深い青の瞳をした、輝かんばかりに美しい娘だった。
この屋敷に似合いの絢爛たるその美しさに、シェリルは思わず言葉を失い、そして何度も何度も瞬きを繰り返してしまった。
そして沈黙すること数秒。
驚きの余りあっけにとられ、声を失ったままのシェリルを前にして、金の髪の娘は心底不思議そうな顔をした。
「……私の顔、何か変? 」
お互いを至近距離で見つめあったまま、金の髪の娘のその言葉でシェリルは急に我に返った。
「ちっ……違います! すみません、ただ、あなたがその……あまりにもきれいだったから」
狼狽したシェリルの様子に、金の髪の娘は微妙な顔をした。
「……この髪と眼が珍しいからそう見えるだけだと思うけど? 目立つのは苦手なのに」
金の髪の娘の言葉にはやや不満めいた響きが込められていた。
シェリルは改めて目の前の娘を見た。
華やかな容姿とは相反して、随分簡素な衣服を身に着けている。
飾り気のまるで無いような無地の空色のワンピースに、地味な黒い革靴を履いている姿だった。
目立つのが苦手といった当人の言葉通りに。
当初は容姿の方に目を奪われ過ぎていた為に、気が付かなかったのだが。
この女性も使用人のひとりだろうか……シェリルはぼんやりとそう思った。
だが、この部屋に通される前に見かけた者達とは、纏う雰囲気が明らかに違っていて、随分と柔らかいように見えた。
その時、不意に金の髪の娘が急に何かを思い出したように口を開いた。
「一緒に来てもらおうと思っていたのを、忘れてたわ! ついて来てくれる? 」
金の髪の娘の言葉にシェリルは素直に頷くと、促されるまま隣室へついて行った。
屋敷仕えの話を直ぐに辞退して帰ろうと思っていたシェリルの中にあった気持ちは、目の前に唐突に現れた娘の存在により、既にすっかり何処かに吹き飛んでしまっていた。
金の髪の娘に案内されたのは、壁一面にひしめくように本棚が並んでいる、書庫のような部屋だった。
その室内には上等な絨毯張りの床の至る所に、足の踏み場もないほど大量の本が積み上げられていて、山を作っていた。
更に奥まった場所にある林立したような本棚の中には、びっしりと分厚い本が詰められていた。
「片付けようとすると、つい読む方が面白くなってしまって、片付かなくて更に散らかるから……、おかげで全然進まないの。そろそろ種類別にきちんと並べ替えたいと、だいぶ前から思っているんだけど」
金の髪の娘の言葉に、シェリルは言いにくそうに口を開いた。
「あ、あの……」
金の髪の娘が不思議そうに振り返りざまに、シェリルを見た。
シェリルは口ごもりながら、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「……わたし、字が読めないんです。だから何もお役にたてないと思うんです。本当に申し訳ありません。だから、このお屋敷には誰か他の人にお仕えしていただいた方がいいと思うので……」
シェリルは勢いよく何度も頭を下げた。
「だからどうか今回のお話は無かったことに! 」
金の髪の娘がひどく驚き、固まっているのがシェリルには分かった。
知識も教養もないような自分には、この屋敷は不釣り合いだと、シェリルは痛感した。
階層の違う生活に入り込むことなど出来ないのだと、身を以て知らされた思いだった。
努力さえすれば、どんなものでも乗り越えていけると信じてきた。
けれど、それがどう足掻いても出来ないことがあるという現実はただただ悔しく悲しかった。
「それなら覚えるという選択肢は、ある? 」
不意に、金の髪の娘から掛けられた声で、シェリルは思わず顔を上げた。
そこにあったのは、自分以上に申し訳なさそうな娘の顔だった。
「ごめんなさい、全然知らなかったの。そんな顔をさせてしまって、わたしこそ申し訳ない気持ちでいっぱいよ。こんなことで誰かを不用意に傷つけてしまいかねないっていうことが分からなくて……。でも、識字能力は一度身に付ければ、これからも先にもずっと役立つものだと思うから。もし、嫌でないのならここで覚えればいいと思って。わたしが手伝うから。自己紹介が遅くなってしまったけど、わたしはマリー・オーウェン、この家の娘です。仲良く出来れば嬉しいわ」
それはシェリルにとっては、まるで青天の霹靂のような申し出だった。