第3章 流浪の果て(13)
文字通り全ての終りを意味するその内部は、剥き出しの岩肌に囲まれた、じめじめとした湿気を漂わせた空間に占められていた。
その終焉牢の内部の奥まった一室に通されたマリーは、目の前に広がった光景に、震えを感じずにはいられなかった。
そこに存在していたのは一人の青年。
その青年の髪は漆黒。
軍装を纏った青年の全身には、痛ましい裂傷の数々が刻まれ、瞼は伏せられたまま微動だにしなかった。
軍特有の装束を纏ったその身体は、腕に嵌め込まれた金属製の腕輪によって繋がれ、その先に繋がる鎖によってのみ、膝をついた姿勢をかろうじて保ち続けているかのように見えた。
リオンの合図によって、岩の壁に打ち込まれていた太い杭に繋がれた鎖が緩み、それに支配されていた青年シン・カルヴァートの身体が、力なく前のめりに倒れていった。
「シン……」
マリーは無我夢中でシンに駆け寄り、その身体をしっかりと抱きしめた。
止めどなく流れる涙がマリーの頬に伝い、マリーは青年の名を何度も何度も繰り返し呼んだ。
うっすらと目を開き、ぼんやりと視線を彷徨わせていた青年は、金の髪の娘の姿を認め、僅かに口を開いた。
「マリー……」
二人の背後で、その様子に満足げに眺めていたリオンが口を開いた。
「……カルヴァート中尉、お目覚めのようですね」
皮肉げな言葉を口にしたリオンに、マリーはきつい眼差しを向けた。
「随分威勢のいいことだ。自分がどんな状況にいるのかすら分かっていないらしい」
薄笑いを浮かべた男の影が、シンとマリーの背後に近づいていた。
シンは微かに目を開き、膝をついた姿勢のままマリーの肩を抱き耳元に囁いた。
「マリー……逃げ……ろ」
次の瞬間、シンは背後から近付いて来た男の容赦ない力で蹴り飛ばされ、衝撃を直に喰らった身体はもんどり打って転がった。
「シン……! 」
マリーは叫び、必死にシンに向かって手を伸ばそうとしたが、それをリオンに阻まれた。
「……そこで何も出来ぬ無力なまま見ているがいい。何もかもを省みず護ろうとした娘が汚され引き裂かれるさまをな……」
リオンは避ける間もなく手首を掴んだマリーの身体を、冷えた石の床の上に捻じ伏せた。
シンはその光景を目にした瞬間、大きく目を見開き叫んだ。
「殺すならば、俺を殺せ! 何故お前はそうしない。クリューガー亡き後、お前の憎悪の対象は俺一人きりのはずだ! 」
シンの絞り出すようなその叫びに、痩せた目付きの悪い男は鼻を鳴らして冷笑を浮かべた。
「お前自身を幾ら痛めつけようとも呻き声ひとつ上げない……大した処刑者様だ。あのクリューガーの奴と似ているお前にはそこに釘付けにされたままで、己の無力さを痛感させることの方が遥かに痛快だからな」
マリーはリオンの言葉の意図する所を悟り、恐怖から表情を強張らせた。
「そうして、力の限り抵抗していろ。そうすることであの男に現実を見せつけ、更に絶望させることが出来るだろうからな」
リオンはマリーに覆い被さると、金の髪を乱暴に掴みのしかかった。
マリーは顔を背けながら、強く瞼を伏せ、唇を強く噛みしめていた。
「あなたも本当に可哀想な上に愚かしい方だ。あの男に関わることさえなければ、何も知らぬ無垢なままいられたというのに……」
リオンはそう言って、何かを思いついたように嘲るように嗤った。
「……そうだ。あなたはあの男を殺した後には私の妻になればいい。忌まわしい反逆行為を起こした殺戮者に入れ込んだ哀れな娘など、もはや何処にも貰い手がないだろう? 私もオーウェンの家の娘なら願ってもない限りだ。東西はこれからどうせひとつに戻る宿命、私はあなたの父上と既に盟約を交わしている。これから東の軍を再び率いる私とあなたならもう誰も咎める者などいまい」
シンは両の掌を強く握り締めたまま、肩を震わせていた。
「マリー……」
シンは一度だけ静かにその名を呼んだ。
響いた声に宿った何かを感じ取ったマリーは、リオンに押し倒されたまま、その声の主である漆黒の髪の青年の方を見やった。
シンは無言のまま、鎖に繋がれたままの腕を伸ばし、あるものを指し示した。
その行為が意味する真意を計りかね、マリーは押さえ込まれたままの姿勢で、自らの手に目をやった。
そうしてマリーの唇からは、無意識の呟きが漏れた。
「……何故なの」
マリーのその言葉に、シンは大きく頷いて見せた。
「何をぶつぶつ言っている。うるさい……」
リオンが怪訝な様子を見せ、その身体から力が抜けた一瞬の隙に、マリーは手にしていた銀の短銃を、シンに向かって床伝いに投げつけた。
漆黒の髪の青年が暗黙の内に示した、鈍い光を放つ短銃を……。
無我夢中で地を蹴ったシンは、鎖で繋がれたままの腕を伸ばせるだけ伸ばし、その手に銀の銃身を掴んだ。
すべてが決したのはその瞬間。
シンは自らの手に戻った銀の短銃を、驚愕の表情を見せたリオンへと向け、その引き金を引いた。
寸分の狂いもなく放たれた、そこに存在するはずのない一発の銃弾は、衝撃音と共にリオンの眉間を貫通、余りある程の衝撃を受けた身体が、背後へとのけ反るように倒れていった。
崩れ落ちたリオンの身体の下から這い出したマリーが、よろけながら立ち上がりざまに漆黒の髪の青年の名を呼んだ。
「シン……」
マリーはもつれた足で、シンに駆け寄った。
シンは駆け寄ってきたマリーの身体に、自らの腕を回し、強く抱きしめた。
「……どうしてこんなところまで来た」
責めるような響きがこもった、シンの低い声を耳元で確かに聴きながら、マリーは黙ったまま何度もかぶりを振った。
何かを言いかけ、動いたマリーの唇にシンは自らのそれを重ねた。
その力に抗うおうとしかけたマリーの手首を捉え、シンは更に深く口付けた。
―それは永遠のような一瞬だった。