第3章 流浪の果て(4)
その丘は処刑場として、数多くの人間達の命を奪い続けてきた地。
十二年という歳月の中、軍の制圧下である彼の地では、日常的に至極当然のごとくに行なわれてきた所業だった。
マリーは一歩ずつ、ゆっくりと踏みしめるようにそこへ向かい進んでいた。
自分が目指すその先の場所に、数人の兵士達を従え立つ、漆黒の髪を有する青年の姿を目にした瞬間、マリーは言い様のない気持ちに襲われた。
青年シンは自身の手に馴染んだ銀の銃身を携え、濃紺の軍装を纏いそこに立っていた。
シンの背後には、何人もの軍の中枢を取り仕切る男達の姿があった。
「シン・カルヴァート、お前にかけられた嫌疑を払拭したくば、お前自身が手を下すことで、それを証明してみせるがいい」
マリーがシンの真正面に立つことを確認して、背後の男達の一人がそう言った。
シンは無言のまま一度だけ頷き、手にしていた短銃の先を目の前のマリーへと構えた。
マリーの深い青を映し出す両眼が対峙したシンの眼を、真っ直ぐにとらえていた。
引き金に指を掛けたシンは、次の瞬間のマリーの行動に大きく目を見開いた。
マリーは静かに一歩ずつ、シンの方へと足を踏み出していた。
「……近づくな」
シンが強い口調で言った。
マリーは黙ったままゆっくりと首を横に振り、もう一歩前へと足を踏み出した。
「俺の言葉に従え」
シンは銃口をマリーへと向けた姿勢を崩さず、再び鋭い口調でそう言った。
短銃の先端が自身の額にもう僅かで触れるような距離まで近付いた時、ようやくマリーはそこで足を止めた。
「最後の言葉は、あなただけに聞いていて欲しいから……。淋しかった。あなたにもう一度逢えたことで、わたしの心は息を吹き返したようなものだった」
マリーは目の前の青年にのみ届く囁きを漏らし、更に言葉を続けた。
「シン、あなたが生きていて本当によかった……」
瞼を伏せたマリーの眼から溢れた一筋の涙が頬を伝った。
銃を握り締めていた、シンの腕が震えた。
「俺は……」
何か口にしかけたシンに、マリーは黙って首を横に振った。
その瞬間、弾かれたように、周囲に銃声が響き渡った。
幾度も繰り返される、鼓膜を揺さぶる、つんざくようなその音の中で、周囲の樹木で羽を休めていた鳥が驚き、空中に舞い上がった。
周囲が静寂に包まれ、その中でマリーは両眼を伏せたまま、何故未だに自分がこうして立っていられるのか理解出来ずにいた。
一瞬の内に消えた自分の命を自覚出来ぬ程の早さであったかと思いかけた時、マリーの頬に一陣の柔らかな風が触れた。
それは到底現実のものであるとしか感じられぬ感覚だった。
「……」
マリーはゆっくりと自身の瞼を押し上げた。
最初に視界に入ってきたのは紅い色だった。
確かにマリーはその場にまだ立っていた。
その理由を理解出来ぬまま、マリーはたった今夢から覚めたばかりのように、目の前の光景を見た。
マリーの直ぐ目の前には一人の青年が立っていた。
青年の髪と両眼は漆黒。
闇を思わせる強い意志を宿した眼差しが、マリーを見つめていた。
最初にマリーの視界を覆い尽くした鮮やかな赤の色彩は、やがて周囲をぐるりと取り囲むようにその場に存在していた者達の一部であることをはっきりと自覚し、マリーの眼からは再び数滴の涙が滑り落ちた。
一人残らず頭蓋を正確に撃ち抜かれ、無残な姿を晒した者達から溢れ出した、夥しい鮮血の中に二人は立っていた。
「違背者と呼ばれた俺に、ひどく似合いじゃないか。これ以上ない程に……」
漆黒の髪の青年は自嘲混じりに口元を歪め、銀の銃身に手を掛けたままであった腕を、力なくだらりと下げた。
「……シン」
マリーの深い青の色彩を映し出す両眼から、止めどなく流れ出した涙が頬を伝った。
「俺はお前を撃つことなど出来ない」
シンは力無く首を横に振り、目を上げてそう言った。
マリーはふらつく足元で、シンに近づいていった。
「……来るな。俺には戻れる場所が、もう地上の何処にも無いのだから」
シンはもう一度首を横に振り、両腕でマリーの肩を掴み、押し戻そうとした。
しかしもうその腕には何の力も込められてはいなかった。
マリーはそっと濃紺の色彩の軍装を纏う青年の胸に自らの身体を預けた。
「……それでもいい。……もういいの」
マリーは瞼を閉じ、囁くようにそう言った。
「お前の眼は、俺の中の内なるものを引きずり出す。それが何故なのか自分でも説明出来ないが……。これを何と呼ぶべきか俺は上手く言えそうにない。……俺はひどく不器用だな」
シンは静かに淡々とそう言い、自身の指先でマリーの涙の跡が残る頬に触れた。
一瞬戸惑うように躊躇し、再びその指がマリーの頬を拭った。
その仕草はどこまでも優しく、マリーは目を閉じたまま、目の前の青年の名を一度だけ口にした。
シンは眼を細め、マリーのその声を聞いていた。
―もうお互いに言葉という言葉は必要無かった。
長い歳月の中で隠されたままになったシンの思いは、指先がマリーに触れる度に、そこから深く染み込んでくるかのようだった。
不意に何かに気が付いたかのように、シンの指がマリーの首に掛けられていた古びた革紐に触れた。
そして、それに指を絡ませ、ゆっくりと引き上げる。
シンの掌の中に現れた青水晶の欠片が、眩しい光を乱反射しながら、マリーの胸の上で輝きながら揺れた。
マリーはその時、シンの眼差しが和らいでいくのを、確かに見た。
その表情がマリーの中の遥か遠くなった、忘れたはずの幼い日の面影を思い起こさせた。
遠回りをし続け、消え去ったはずの想いが重なっていくような気がした。
その刹那、シンの肩がびくりと震えた。
「……油断したな」
そう言いざまに、シンがゆっくりと振り返った。
そこには一瞬にして、静寂を破った者達の影があった。
シンとマリーの周囲を完全に取り囲む形で、鈍く光る銃身が向けられ、包囲網が隙間無く敷かれていた。