第1章 彼方へ(3)
「やれやれ、ようやく終わったな。さっきの客で最後か? 」
四十代最後の歳を目前に控えた、アドルフ・オーウェンは肩に手を当てながら伸びをひとつしてそう訊いた。
奥の部屋から出てきたばかりのアドルフの姿を目にした、二十五歳の鳶色の髪をした長身の青年ディルク・ユンカーは書きかけていた書類を翻し、手早くまとめると、即座に椅子から立ち上がった。
「お疲れ様です。本日の予定はひとまずこれで全て終了です。今日も来客がひっきりなしでしたから、さぞお疲れでしょう……どうかこの後はゆっくりとお過ごしになって下さい」
黒地の三つ揃えのスーツ姿のディルクは頷きつつ、そう答えた。
「この私がとうとう国家元首とはな……生きていると半ば信じられないことが起こるものだな」
「これまでの慣例を覆す若さで選出された、そのご本人が仰ることとはとても思えませんよ。その身に西全体の期待を背負ってらっしゃるのは周知の事実でしょうに」
「いや、買い被らないでくれ。まだ実感なんてものは無いに等しいくらいだ、何せまだ三日しか経っていないんだからな」
アドルフは独りでに呟くように言った。
「今は実感以前に、決まりきった祝辞を述べる為に来られる方々には、既に辟易されているご様子ですね」
「まぁな。わざわざ来てもらった以上は丁寧に相手はしてやるが、いい加減解放されたくもなるというものだ。正直言って、これでは実務の方にも差し障りかねない。こんなことで足元をすくわれるようになっては困る」
渋い表情を見せたアドルフに、ディルクは笑顔を見せた。
「では、ささやかなゆとりの時間の為に、お茶を用意させましょう」
ディルクがそう言って、部屋から出ていこうと背中を見せた時、アドルフが思い出したように言った。
「そういえばマリーはどうしている? 相変わらずか」
ディルクの動きが一瞬止まり、ゆっくりとアドルフの方を振り返った。
「……ええ。他の者達から聞いた話ですと、お変わりないご様子です。本ばかり読んで書庫から殆どお出にならないと」
アドルフは微かに俯き、「そうか」と一言だけ発し、暫く考え込むような表情で沈黙を続けた後、ようやく口を開いた。
「あの娘の心の中にある傷は永遠に癒えぬままかもしれない」
「……いったい何があったのですか? 」
「気になるのか、ユンカー? 」
ディルクは頷き、アドルフからの次の言葉を待った。
「……十二年前の『あの日』からだ」
アドルフは低く唸るように言った。
―アドルフが口にする『あの日』を意味するのは、この国グリュエールにとっては、ただひとつしか存在し得ない。
軍部の一部の者達により引き起こされた内戦勃発の日。
その突然の蜂起に衝撃を受けた政府側も直後に挙兵し、両者は国のほぼ中央に近い地で激突した。
国内の殆どの武器が、予め用意周到な軍部側に渡っていたこともあって、夥しい犠牲を払う激戦の果てに、当時の政府軍は完全に敗北。
当初は周辺諸国の仲介のもと、一国家に二つの地域が共存する連邦制を提案されるものの、交渉は決裂、結果的には政府と軍部との間には休戦協定が結ばれることとなった。
その際、軍が政府に提示した要求は、国家領土の東側半分の譲渡を基本条項とした、数十箇条にも上るものだった。
政府は示された要求の殆ど全てを、そのままの形で受け入れざるを得ない苦境に立たされ、この国は東西に分断された。
以後、割譲された東側は軍部の統制下に置かれ、東西両者を明確に分ける目的の為に、その境目には隣国との国境付近まで延々と鉄線が張り巡らされた。
相容れぬ者同士を分かつその場所を、何時の頃からか人々は『境界』と呼んだ。
一時的に結ばれた休戦協定は数ヵ月後には破棄され、以来境界周辺では東西両者の間での凄惨な戦闘が、度々繰り返されてきた。
当時の国家元首は自殺、それ以外の政府の要人達も内戦の敗北の責任を訴追され、次々と失脚していった。
一方、東を掌握した軍には、元帥ヴィルヘルム・クリューガーが台頭。
独裁政権を確立していた。
強硬なヴィルヘルムの存在は、周辺諸国にとっても大きな脅威となっていった。
「皮肉な話だ。東西に分断されたことで国全体が疲弊し、結局この私が必要とされるようになってしまった」
アドルフは苦い表情でそう呟いた。
「あなたの巧みな弁論と、東側に進駐する軍への臆せぬ厳しい批判は、この西側に住まう多くの者達にとっては他の何も換えがたい、長い間の誇りであり心の拠り所でした。だから私もあなたに憧れたのです」
ディルクはアドルフの横顔を見ながら言った。
アドルフはその言葉に何かを思ったように、不意にこの部屋より更に奥に位置する自室に、ディルクをいざなった。
「……ユンカー、お前にだけは見せてやろう」
そう言ってアドルフは重厚な木製の扉を開き、自らの居室に足を踏み入れると、年季と風格を共に強く感じさせる楡材の机へと向かった。
机の引き出しには厳重に数種類の鍵がかけられており、アドルフは懐から古びた一本の鍵を取り出すと、鍵穴のひとつにそれを捻じ込んだ。
この机の引き出しの中身を、これまでにアドルフが自分に開示した事は一度たりとも無かった。
それが分かるだけに、反射的にディルクの顔には緊張が走り、無意識の内に背筋が伸びていく。
直立したディルクの前で、アドルフは引き出しから紐でくくられた分厚い紙の束を取り出してきたが、その表紙には空押しが施され東側の軍を示す重々しい印が付けられていた。
興奮の余り目を見開いたディルクが驚きの表情で言った。
「それは東側と境界周辺についての、極秘裏な報告書なのではないですか? 」
アドルフは黙って頷き、未だ目の前の紙の束に驚きつつ戸惑いを隠しきれないディルクに、押し付けるようにそれを手渡した。
「私からの最大限の信頼の証だ、そう思ってもらっていい。私はこれを見るたびに運命とは何かを考えさえられる」
ディルクはアドルフの言葉に、神妙な面持ちでゆっくりと頷いた。
「次回の隣国との直接交渉役には私の代理人として、お前のことを推しておいた。休みもろくにやれず奔走させるばかりで申し訳なく思うが、行って経験を積んで来てくれるか? これからの我々のために」




