第3章 流浪の果て(3)
それからの二日間は、特にこれといった出来事も起きず、平穏に過ぎて行った。
少なくとも表面上は……。
最後の一瞬までを、確実に刻み続けるかのように時は過ぎていき、三日後の太陽が頭上高く上りかけた刻限、マリーの前にはこれで何度目かの対面となる、あの初老の男が立っていた。
「これで時間切れです……本当にあなたには死んで頂く他ないらしい」
軍の最高権力者である男からの言葉に、マリーの鼓動が一際大きく高鳴った。
「私はあなたの父上が主張するような卑怯者ではない。だが……」
元帥ヴィルヘルム・クリューガーの言葉を、マリーが遮った。
「今更あえて何が言いたいというの。わたしに話すことなど何も無いでしょうに」
「……それもそうですね」
ヴィルヘルムは思い直したように静かにそう答え、マリーの背後で控えていた数人の若い軍人達に目配せをした。
控えていた軍人達が前に進み出て、マリーの手首に細い紐のようなものを巻きつけようと取り囲んだ。
だが、マリーは即座に、それを力いっぱい払いのけた。
「わたしは逃げるつもりなどない。その手を下げなさい」
紐を手にしたままの数人の軍人達は、困惑したように互いに顔を見合わせた。
「……いいだろう、そのまま連れて行け」
ヴィルヘルムが頷き、マリーは軍人達に囲まれたまま、その部屋から外に連れ出された。
目の前の若い兵士達のどの顔にも、マリーは見覚えがあった。
これまで空白となり抜け落ちていたままの時間と、東の実情をもたらしてくれた末端の兵士達だ。
彼等の表情は揃って青白く、今のこの状況を受け入れ難いものとして捉えていることは明らかだった。
「誰もが自分の思いのままには、生きられないのね……」
軍の中枢である建造物の廊下を、四方を固められたまま歩きながら、俯きざまにマリーは小さくそう呟いた。
マリー・オーウェンがその場から連れ出され、室内は静寂に包まれた。
そこに唯一人残ったヴィルヘルムは、窓から外へと目をやった。
「……次の手を考えねばなるまい」
呟きにも似た言葉を漏らし、ヴィルヘルムは軍が政府との間に停戦協定を調印後、象徴としてこの部屋の中に掲げられたままになっている、青く染められた軍旗に触れた。
―これまで歪な歴史を辿った国と、どれほどに揶揄されようとも構わなかった。
過去にもグリュエールの内情が揺れる有事の際には、必ず、と言ってよいほど毎回周辺の国々にまで、その動揺が何らかの形で波及した。
最初の時点でそういった意図が一切無くとも巻き添えともとれる状況で混乱が広がっていく。
結果的に、そのことがこの大陸……ガルデナ全体の安定性を欠くことへと直結していく為、それを有史以来よく分かっていた周辺国の人々にとっては、この大国グリュエールの内情が安定し続けることこそ、この地域においてはもっとも望ましいこと、とそう考えていただろう。
だが、十二年前、自分はその全てに抗うことを自ら選んだ。
賄賂や横流しが公然とまかり通る、常態化した利権争いに群がる人間達により蝕まれた国家にはとうに失望させられていた。
そして東西分断直後の早い段階から、ヴィルヘルムへの協力を惜しむことが無かった、物陰から窺うような状態であった、周辺国の者達はひどくしたたかで、対外的には内戦終結を理想に掲げながら、裏では武器供給を極秘に、だが滞りなくこの東の地へと続けてきた。
不安要素の拡大により、この地域における兵器の需要は飛躍的に増大し、結果、そこから莫大な利益を得た者達が、更なる利益追求に余念が無く、兵器の供給を惜しむことが無かったのだ……少なくともこれまでは。
だが、その者等は今、それだけでは飽き足らず、東の地そのものへの干渉も少しずつ行なうようになっていた。
そうした周辺諸国の介入は年々強まり続けていた。
ヴィルヘルムは数年来に渡り、それらの者達を切り捨てる時期を巧妙に見計らってきた。
だが、当初の想定よりも西側との戦闘状態が長期間に及んでしまったがゆえ、東は疲弊し、多数の戦力が既に失われてしまった。
―俺の言葉が皮肉なのだとすれば、崇高な理想を掲げたはずが、ジリ貧になった今のこの現状に対して、でしょう。
ヴィルヘルムの脳裏に、歯に衣着せぬ一人の人物の言葉が急激に蘇った。
そして同時に、情勢を安定させる為、などという大義名分を振りかざしながら、問題が更に複雑化していくことを目論む、醜悪な者達の顔が脳裏に次々に浮かんでは消えた。
「欲に憑りつかれたような下賎な者らめ……。下らぬ」
ヴィルヘルムが吐き捨てるようにそう呟いた時、部屋の扉を叩く音が数回に渡って響き渡った。
「入れ」
ヴィルヘルムは短くそう応えたものの、扉の外の人物からの答えは皆無だった。
暫く続いた沈黙に、業を煮やしたように、ヴィルヘルムが口を開いた。
「早く入れ、どうした」
苛立たしげにヴィルヘルムがそう言い掛けた瞬間、強烈な閃光と爆風が室内を襲った。
凄まじい衝撃波の中、ヴィルヘルムの身体は衝撃により、容赦ない力で吹き飛ばされ壁に叩きつけられた。
一瞬にして破壊され尽くした室内の中に、響き渡った声があった。
「残念だな。……この程度じゃ死んでくれないらしい」
底知れぬ残忍さを宿し、笑いを含んだようなその声に、反射的に腰の銃に手を掛けた、ヴィルヘルムの身体を一発の銃弾が貫いた。
銃撃を受けたヴィルヘルムは、叩き落された羽虫同然に崩れるように倒れていった。
「あなたのような名手に銃を抜かれたら困りますよ。私はあなたより年はずっと若いが、その腕に到底叶うわけが無い。あなたが育てたシン・カルヴァートくらいのものでしょうな。軍の中にあっても……」
その声と共に、一人の男が破壊された室内へと足を踏み入れた。
受けた衝撃により霞みがかった、ヴィルヘルムの視界の中に現われたのは、痩せた目付きの悪い男だった。
「やはりお前か……色々と嗅ぎまわっていたようだが」
息も絶え絶えにヴィルヘルムは、銃弾が突き刺さった、鮮血の噴き出す胸を押さえながら言った。
「そう、元帥閣下。今ここにあるのは、ご自身が過去に行なった愚行の結果だ。十二年前、我々旧軍部の血族全てを根絶やしにしておけば、こうしてあなたは死なずに済んだはずだ。余計な温情が命取りになったことを後悔するといい」
ヴィルヘルムの前に立った男リオン・グレーデンがそう言った。
「……」
「何故黙っているのですか」
「……言うべき言葉など、何一つ有りはしない」
ヴィルヘルムは目を見開きそう告げた。
リオンは忌々しげに、部屋の隅に吹き飛ばされ、散り散りになりかった軍旗の残骸に目をやった。
「この半旗には長い間、虫唾が走る思いでした。ようやく焼き捨てることが出来るかと思うと身が震えるほどの喜びを感じます。同胞を殺しても先に進むための決意と追悼の意思表示などとは笑わせる……。だが、所詮は貧民層生まれの反逆者風情が一国を変えようなどという誇大妄想にとりつかれただけに過ぎない。その順当な末路が、今の無様な姿なのだと理解してもらわなくては」
残忍な笑いを浮かべた男は、足元で横たわったヴィルヘルムを強烈な力で蹴り上げた。
「罪人らしく、嬲り殺しにされながら死ね」
苦しげに眉を寄せたヴィルヘルムの胸部から、再び鮮血が噴出した。
「あなたは実に立派な方だ。感心している。……ここまで痛めつけられようとも、呻き声ひとつ上げない。大したものだ」
そう言って、男の軍靴の足が再度、初老の男を蹴り上げた。