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第1章 彼方へ(2)

「これをお願いします」


 手にしていた切符を差し出して、十六歳になったばかりの緩やかな癖のある胡桃色(くるみいろ)の髪をした、シェリル・エインズワースはそう言った。


 シェリルは色が褪せかかった緑を基調とした膝丈のスカートを身に着けていたが、その裾には手製と見受けられる、草花の姿をあしらった精緻な刺繍が施されていて、それが着古し(ひな)びた装いの中にも彩りを添えていた。


 そして頭には喉元でリボンを結んだ、布製の空色の帽子を被っていた。


 シェリルのスカートの裾が、構内に吹き込んできた緩やかな風の中でふんわりと揺れた。


 此処はこの地方の中でも大きな集中駅の一角。


 何処か異国の風情を漂わせたかのような綺麗なアーチ状の駅舎は青銅色に塗られた鋼鉄製で、特に見た者の目を引く姿をしていた。


 順番に改札を通っていく乗客の相手を矢継ぎ早にしていた駅員の男が、シェリルの手にしていた切符に目を瞠り、思わず手を止めた。


 そしてしげしげと物珍しげに、シェリルの顔を見た。


「これは……あの草原の、『あの場所』に行くのかい? ひょっとして」


 シェリルは男からの突然の反応に驚いたように声を上げた。


「すごい! どうして分かるんですか? 」


「そりゃあ、この経路なら他のところはあんまり思い当たらないからねぇ」


「そんなに有名なところなのですか? 」


「何も知らないところを見ると、お嬢さん、あなたは随分遠いところから来たんじゃないの? 」


「ええ、前にお仕えしていたお屋敷のご主人が亡くなったんですが、亡くなられる前に紹介状をもらったんです」


 シェリルは手に提げていた、植物の蔓を編み込んで作られた鞄の脇に差した一枚の紙を、鞄ごと持ち上げ見せながら言った。


 そうして、シェリルが自分が元居た街の名を告げると、改札の男は納得した様子だった。


「それは随分遠いじゃないか。ここまで来るのも何日もかかったろう。あの有名な炭鉱のある街だね」


 男の言葉を聞いてシェリルは頷き、この遠くなった空の下、自分が生まれ育った街のことを懐かしく思い出していた。


 離れてからまだ僅かな筈だが、無性に恋しくさえ感じられた。


 炭鉱から上がる噴煙が常に空を覆い隠し、昼間でも薄暗く日の光が僅かしか届かないような、そんな街だった。


 ひとたび雨が降れば街全体が灰と(すす)によってけぶり、著しく人々の視界を阻んだ。

 

 その極度に汚染された大気によって他の兄弟達は皆、幼い頃から肺を患い病に倒れ、その中で成長出来たのは自分ひとりだけだった。


 労働者階級の者達は自分達が置かれた劣悪な環境を自覚しながらも、他の選択肢を持つことが許されず、殆どが生涯一度も街を出ることなく、長年吸い込んだ粉塵で、身体を蝕まれながら働き続けることを課せられていた。


 その無理がたたり成長出来た者でさえ、多くは短命でシェリルの両親も例に漏れず子供だった自分を残して次々に他界した。


 身体が丈夫だったことが唯一の救いで自分が残ったが、それでも挫けることなく必死に働いてきた時間の事が、次々にシェリルの中には思い出された。


「前のお屋敷のご主人が私のことをとても可愛がって下さったんです。あの街は空気が悪いから、お前はもっといいところに行きなさいって……だから特別に良いお屋敷に紹介状を書いて下さって……私、身寄りが無くて自由だから、行けるところなら何処へでも行こうって、そう思ったんです」


 シェリルは過去の様々な記憶を噛みしめるように思い出しながら、そう言った。


「そうか、そうか。若いのに偉いことだね。まぁ、お嬢さんはそんなに遠くから来たんじゃ、それなら仕方がないのかもなぁ。『あの土地』のことを知らなくても」


「……? 」


「『あの土地』に住めるのは本当にごく一部で、普通は他からは入れもしないと聞くよ。このグリュエールの中でも本当に一握りの上流の中の上流の方々のお住まいだ。まぁ、俺なんかが想像もできない世界なんだろうけどねぇ」


 男は若干声をひそめながら、更に続けた。


「しかも聞いた話だと、境界周辺の状況にも裏で影響を及ぼしているとかいないとか。役人連中が利権にまみれてるのは昔からだけど、連中は前線で兵士が大量に死んでいても、自分達は優雅にお茶会でもしながら駒をどうするか、くらいにしか考えていないのかもねぇ、まったく羨ましい話だよ。こっちは生活するのにも必死で、年々厳しくなるばかりだってのに」


 男はそんなぼやくような言葉を吐いていたが、急に自分の職務を思い出したようにシェリルの切符にいそいそと(はさみ)を入れた。


「今は何処もかしこも物騒なところばかりだ。まぁ、これから向かうその草原はそういうのとは無縁で夢のように美しいところだそうだよ。そんな場所なら、俺も叶うなら一回くらい見てみたいもんだけどねぇ。頑張り屋さんの可愛いお嬢さん、いい旅を」


 シェリルははにかんでお礼を言って頷くと、切符を大事そうに懐にしまい、目的地へと向かう汽車に乗る為、鞄を手にすると真っ直ぐ前を見て歩き出した。


 ―先に待っているものが何も見えなくとも、自分は生きていく。頑張っていれば、きっと何時か報われるんだから。


 そんな強い矜持を抱いて進むシェリルの眼差しは、輝く未来が映り込んでいるかのように清々しいほどに澄みきっていた。

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