第2章 護り石の再会(8)
何時もの酒場へ、漆黒の髪の青年がその姿を見せたのは、もうすでに日が翳り始め、空が赤く染まる刻限だった。
きれいに皺を伸ばされた軍装の胸には、以前と同じように鈍い光を放つ階級章が付けられていた。
店の中には、既に何人かの男達が席に着いていた。
入ってきた青年は、店の者が差し出したグラスを受け取り、そのまま席に着いた。
その時、店の古びた扉が軋みを立てて再び開かれ、更にもう一人の人物が店の中に入ってきた。
今しがた姿を現したその人物は、先刻席に着いたばかりの青年シン・カルヴァートの姿を認め、迷うことなく声を掛けてきた。
「お前とはこのところよく会うな」
「夜公会に姿を見せなかったあなたの素行の悪さが問題になっていますよ、アストリー大尉。自覚して下さい」
淡々としたシンの言葉に、ジーク・アストリーが露骨に顔をしかめた。
「俺がわざわざ出てやらんでも、ああいう集まりには行きたがる奴が他に腐るほどいるからな、そういう連中に任せておけばいいだろ」
「そう思っているのは、あなただけのようですが。余程佐官にはなりたくないらしいですね」
「当然だろうが。階級章を投げ捨てるような問題行動を起こすような奴が言う言葉かよ! 」
「階級章があっても、前線では役に立ちませんから」
「そういう問題じゃねぇだろ! 」
「あなたがそうなりたくなくとも、辞令はいずれ確実に出ますよ。上が次々死んで、人手不足も甚だしい、この寄せ集め状態では……俺も上へは上がりたくないが、時間の問題でしょうね。そうだな……そうしたら次は、また大尉の下にして下さい。だから偏った拘りは捨ててとっとと上に上がってくれませんか、俺の為に」
「お前みたいに、俺の言うことも聞かずに一人で勝手に突っ込んでいく面倒な奴はもういらねえよ! 」
「……」
「しかも、こっちが聞きたくないことを、相変わらず無表情で淡々と言いやがって……まぁ、夜公会のようなああいう下らん集まりには、俺の代わりにあの粘着野郎のリオン・グレーデン辺りが喜んで出るだろ。此処に来て旧体制の世襲の恩恵が無くなった現実を思い知らされて以来、奴は自分を目立たせるのに躍起だからな。前線にろくに立ちもしないのだから、そういう時くらいは役に立てと思うがな」
「それについては別に否定はしませんが、それとこれとは別問題です」
「今、俺は気が付きたくなかったことに、ようやく気が付いた気がするが……前から思っていたが、お前、俺のことをそもそも上官だと思ってないだろ」
「誰よりも思っていますよ。あなたとの付き合いは長いですから」
「その無表情で言われて、それを言葉の通りに受け取れと? 」
「俺の本心に変わりはありません」
「お前に言われると恐ろしく説得力に欠ける言葉に聞こえるが」
「……」
「とにかく、あの粘着野郎は徹底的に無視しておけ。そして、これ以上絶対に問題を起こすな。あれでいて、あいつの背後には旧軍部繋がりの嫌な連中が大勢いる。全員ろくな奴等じゃないがな。……元々あの連中にとっては俺も含め、外部から軍に入って来た人間は、皆どいつも疎ましいとしか思ってねえし、折り合えるわけがない。上に上がると更に目の敵にしてくるのも単なる妬みだ。だから相手にするな。いいか、分かったな! 」
「妬まれるほどの価値が俺にあるとも思えませんが」
「……お前は他のことに関しちゃ髄分と優秀だが、相変わらずのその自己分析能力の無さは何なんだ。俺も昇進は無駄に早い方だったが、それを覆すような凄まじい勢いで後から追いついてきやがった奴の言う言葉じゃねえだろ」
ジークの半ば呆れたような表情と言葉の横で、シンは暫く沈黙を守っていたが、不意に口を開いた。
「……俺は今夜、境界を越えます」
「ああ、聞いた。また貴重な戦力が大量に死ぬ想像しか出来んな」
「俺も同意見です。……だが、自分の意志とは無関係に付けられる評価と同じで、俺はこの国の行く末にも全く興味が有りません。異端者と呼ばれたとしても」
シンは胸の階級章に触れ、僅かに目を細めながらそう言った。
「俺も似たようなものだ。軍のやってきた事を全て、肯定して従うなんざ、俺はごめんだ。前線での末端の人間の扱いを見ていれば誰もがそう感じるだろう。軍人である以前に、俺は俺だからな」
それでもそれが悪だというなら、罰なら幾らでも受けてやる……とジークは言葉を続けながら、傾けたグラスの中の液体をぐいと一気に飲み干した。
「いいから、とっとと終わらせて早く帰ってこい。お前が俺のところを離れてから、星を読める奴がいないせいで不自由でたまらん。ああいう妙な技を使える奴には死なれては困る」
ジークはほろ苦い表情を浮かべながら、そう呟いた。
ふたりの間には沈黙が流れ、そこに机の上に飾られた、赤い花の放つほのかな香りが漂ってきた。
劣化し傾きかけた店の中に、なけなしの飾りとして置かれた、狂気を駆り立てるような真紅の花弁。
その姿は薄暗い照明の中にあって、不気味なまでに色鮮やかに際立っていた。