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第2章 護り石の再会(7)

 その日の明け方近く、自室でようやく眠りに落ちたマリーは、懐かし過ぎる夢をみた。


 それは失ったはずの遠い過去の残像と呼ぶべきもの。


 緑の草原の上には、幼い少女が一人立っていた。


 幼かった日の自分、だ。


 その傍らには、聡明な眼差しの少年が一人立っている。


 ふたりの目の前には緑の大地。


 緩やかな丘陵地帯には、頬を撫でる柔らかな風が吹いていた。


 どこまでも続く穏やかで、暖かな大地の上に幼い二人は立っていた。


 永遠という言葉の意味も知らぬまま、日々が約束されずっと続いていくものと、信じて疑うことなどなかった頃の記憶。


 少し照れたように笑う少年と、嬉しそうな子供だった自分。


 確かに在った風景。


 風景が徐々にぼやけ、まだ完全に覚醒しきらぬ意識のまま、マリーは自身の頬に指先でそっと触れた。


 そこには幾筋もの乾いた涙の跡があった。


 眠りながら自然に泣いているのにも慣れてしまった。


 もっとも、成長してからは、頻度そのものは減ってはいたが……。


 そして涙の名残の感触で、更に完全に頭が覚めてくるにつれ、マリーはひとつの事実を改めてまざまざと思い出していた。


 夕べ見たあの青年の姿は決して幻などでは無かった。


 ―そう、シンは確かに生きていたのだ。それも自分とは一番遠いはずの場所で。




 その時、マリーの部屋の扉を幾度か叩く音が、室内に響き渡った。


「おはようございます、お嬢様。……もう起きてらっしゃいますか? 」


 それは眩しい朝の日差しに似合いの、鬱々とした気分を吹き飛ばしてくれるような、明るいはつらつとした声だった。


「シェリル……どうぞ入ってきて」


 ごしごしと手の甲で涙の跡を拭ってから、扉の向こう側の人物に、マリーはそう声を掛けた。


 その声に応えるように、扉が開かれシェリルが顔を覗かせた。


 普段であれば、前日にどんな予定が入っていようとも、シェリルがやってくるこの刻限にはマリーはとっくに身支度を整えている。


 だが、今朝は明らかに違う。


 そんなマリーの姿を目にしたシェリルの表情には憂いが浮かんだ。


「……大丈夫ですか、お嬢様」


 部屋の金糸で織られたカーテンを開きながら、そう問い掛けてくるシェリルの言葉に、マリーは出来る限りの微笑を浮かべて応えて見せた。


「皆、心配し過ぎなのよ。少し気疲れして膝をついてしまっただけなの。わたし夜会って本当に苦手なのよ。知らない人がたくさん居過ぎて。そういうのに慣れないから……本当にそれだけ。別になんともないわ」


 嘘だった。


 だが、マリーが気丈なふりを取り繕おうとも、シェリルには何らかの違和感が筒抜けで伝わってしまうものらしい。


「やはり昨日、お顔の色が優れなかったのがいけなかったんでしょうね。今日はこのままゆっくりと横になっていて下さい。……そのお顔、もしかして夜公会で何かあったのですか? 」


 眉をひそめながらのシェリルの問いかけに、マリーは思わずどきりとした。


 そして、同時に何かを見透かされたような気がした。


 それはある意味至極当然なことなのかもしれない。


 幾ら様々な古今東西の文献を積み上げてそれを読み漁る生活を続けていたとしても、自分はろくにこの屋敷から出たこともなければ、外で働いたこともない。


 言わば籠の鳥のような暮らしをし続けているのと同じなのだ。


 マリー本人にはその自覚があった。


 片や幼い頃より続けた奉公暮らしで、いろいろな仕事で生計を立て、数多くの人々との関わりを持ってきたであろう、この侍女が積んできた人生の経験値という意味では到底叶うわけがないということを、マリーはよく分かっていた。


 自分は余りにも無力過ぎ、だから隠し事をしようとしても、結局は何時もことごとく見通されてしまうのだろう。


 要するに自分はどうにもならないほど、ひどく世間知らずなのだ。


 書物から得られる知識など所詮は限られており、実際に体験して蓄積した深みを前にしては、比較にならないほど、拙いものでしかない。


 知れば知るほどに自身が情けなくもなるのだが、それが事実であるのだから、マリーはそう自覚せざるを得なかった。


「ディルクはもう出かけたの? 」


 マリーの問い掛けに、シェリルが微笑んで頷いた。


「はい、まだ夜が明けきらぬうちに、ここをお発ちになりました」


 シェリルの声を聞きながら、マリーの中には昨夜のディルクの言葉が蘇った。


 ―俺はその歪みを是正する為に、アドルフ様と同じ道を志すことを選んだ。時間がかかったとしても、必ず成し遂げる覚悟だ。


 それと共に、ディルクの真摯な眼差しが思い出された。


 思えば自分はこの家に生まれたくて生まれたわけでは無かった、常にそう思ってばかりいた。


 けれど、ディルクもシェリルもそんな自分とは明らかに違っていた。


 彼らは例えどんな状況下であったとしも、虚心坦懐(きょしんたんかい)で決して揺るがぬ強い意志と信念とを失うことが無い。


 それは自分がこれまで長い間見てきた、屋敷の中の他のどの使用人達とも違い、ふたりの言葉には何時いかなる時であっても、潔く曇りが無かった。


 ―自分もそんな風に見たくないものから目を背けるだけではなく、もっと他のやり方で自分の意志を曲げずに生きられるように、何時かなれるんだろうか。


 マリーはシェリルの姿を眺めながら、ぼんやりとそう思った。


「起きてきては駄目です! 」


 シェリルは身体を起こしかけたマリーを天蓋つきの寝台の中に、有無を言わせぬ様子で押し戻してきた。


 こういう時のシェリルは年下だというのに、やたら強情な面がある。


 自分が正しいと思えることに関しては、絶対に譲ってはこないのだ。


 マリーは頷きつつ、渋々ながらもシェリルの言葉に従うことにした。


 これ以上、このやりとりを続けたところで、相手の譲歩を引き出すのは既に到底不可能だと知っていたからだった。


 ―この家の中で、他の誰よりも一番私に過保護なのがシェリルなのよね……。


 マリーはやれやれとそう思った。


「今日は一日中、ゆっくりお休みになって下さい。後でお食事をお持ちしますから……あ、隠れて本を読むのも今日は絶対に駄目です。休む時はしっかり休まなければ」


 自分のことを完全に見透かされたようなシェリルの言葉に、マリーは仕方なく再び寝台の中で目を閉じた。

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