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第2章 護り石の再会(6)

 そうして夜公会は終った。


 マリーの前に残酷な現実を突きつけた形で……。


 精悍な顔つきと、身長が伸びてまるで印象が違っていたが、見間違えるはずなどない。


 それだけは確かだった。


 両親は気が付かなかったのだろうか。


 あの青年の存在に……。


 だが二人ともそのことに関して、何一つ口にしなかった。


 それに何よりマリー自身が、夜公会から蔦緑の家に戻るまでの時間のことをよく思い出せないでいた。


 衝撃に感情が麻痺したようになり、暫くは口もきけない状態に陥っていたからだった。


 一瞬にして全てが囚われ、理屈では説明出来ぬ、感情という名のそれが縛り上げられるような感覚。


 あの青年の冷酷な眼差しが物語っていたものが何だったのか、マリーがそのことを知り得るすべなどあるはずもなかった。


 そんな娘を気遣い、両親はあえて言及を避けたのかもしれないと、マリーはそう考えたりもした。


 何故なら情報を逐一得ている身である以上、両親が何も知らなかったとは到底思えなかったからだ。





 蔦緑の家の全ての灯りが消える頃、マリーは眠れぬまま夜着を羽織り、独り屋敷の外へと出ていった。


 殆ど欠けの無い月明かりが、静寂の中でマリーの足元を照らしていた。


 砂金を思わせる艶やかな髪をゆったりと束ねた紐に結わえられた、小さな銀製の飾りが光沢を放ち、歩くたびに揺れた。


 幾分冷たさを感じられる風を感じ、マリーはその中で目を閉じた。


 改めてマリーの脳裏に、強い意志を感じさせる両眼を持つ、青年の姿が蘇った。


 漆黒の髪と、同色の眼と広い背中、十二年の歳月を飛び越えて現われた、その姿が……。


 マリーが長い歳月の中で抱き続けた、記憶の中の幼い少年の姿は歪み、瞬く間にその姿が何の感情も映さぬ眼を持つ、青年のそれへと変化していく。


 早鐘のように高鳴ったままの自分の鼓動を、マリーは身体の内側から確かに感じていた。


「シン……」


 そっとその名を口にした。


 蘇るのはいくつもの幼い日の記憶。


 子供だった自分は、未来が当然のように続いていくものなのだと、信じて疑いもしなかった。


 時が経過するにつれ、様々なことを知らねばならないのだという思いは、自分の中で次第に膨れ上がっていった。


 何故こんなことになったのか。


 何がそうさせたのか……。


 その理由を。


 ―知るべきことは本当は数限りないほどあったのだから。


 屋敷を出て歩き続けてきて、気が付いた時マリーは一本の老齢で大きな樫の木の下に立っていた。


 目の前には、長年見ることを避け続けてきたはずの人気の無くなったままの、あの屋敷があった。


 閉ざされたままの開くはずのない、屋敷の二階の窓にマリーは目をやった。


 抜け殻のような屋敷を前にして、マリーは自分があの頃から遥か遠いところに来てしまったような気がした。


「それが『彼』のいた家なのか? シン・カルヴァートが」


 突然、背後から掛けられた声に、マリーが驚いて振り返った。


「ディルク……! どうして」


「あなたが気になったからだ。今夜は部屋の灯りが消えるまで見守るつもりだった。本当は夜公会には行かせたくはなかった。あなたがどうなるかが分からなかったからだ。……だが、情けないが俺にはそれを覆させるような力が無かった」


 マリーは言葉を失ったように、その場に立ち尽くしていた。


「知って……いたの? 」


 ディルクは深く一度だけ頷き、マリーに近付きながら口を開いた。


「ああ、確かに気の毒な話だったと俺も感じている。『彼』はたった一人、東で放り出されたも同然で生きなければならなかったのだから、同情すら感じる程だ。だが、今も何故そこまで(こだわ)らなくてはならないんだ? あなたがそれほどまでに長い間、自分を変えてしまうほどに」


 マリーは俯き、首を横に振った。


「違う……」


「それなら何故、此処にいるんだ? 他に何か理由があるのか? 」


 ディルクの問い掛けに、マリーはもう一度首を横に振った。


 そうして、マリーの両眼に涙が滲んだ。


「……きっと誰にもわたしの気持ちは分からないはず。シンがいなくなってから、わたしはずっとひとりきりだった」


「……」


「子供だったから気が付いてしまったの。屋敷の者達は付き従っているように見せているだけで、本当は誰も心からはそう思ってなかったって。そういう人たちがひどく恐ろしかった。屋敷に大量にある本は国中の都合の悪いことについては、殆どは上手く隠していたけれど……本当はこの国はどうしようもないくらいに、いびつだった。だから同じ民族同士で殺し合うような、誰も救われない無残な結末を生んでしまったのよ」


 マリーの口にする言葉を、ディルクはじっと聞いていた。


「父がこの家に長い間手を加えて、朽ちてしまわないようにしてきたのも、本当は知っていたの。表立っては認めないでしょうけど……でも、おかげで何もかもが下らないものとしか思えなくなった。本当は子供一人すら助けられなかったのに? 上辺だけで心では憎しみに似たものすら持っている使用人達を大量に雇い、煌びやかな物ばかりでそれを見えないように覆い隠している。そういう醜いものをシンがいた頃には見なくていいように、あの人が本当はしてくれていたのね」


 マリーは空を仰ぐと月を見つめ、言葉を続けた。


「ここは旧来からこの国の中に付きまとってきたはずの……グリュエールの中に病巣のように在った、きな臭さや不条理さや矛盾のようなものから、完全に切り離されてきた異様な土地、そうなんでしょう? 」 


 そう言い終えたマリーに、ディルクははっきりとした声で言った。


「そうだ。だから俺はその歪みを是正する為に、アドルフ様と同じ道を志すことを選んだ。時間がかかったとしても、必ず成し遂げる覚悟だ」


 ディルクは自らの上着を脱ぐと、そっとマリーの肩に掛けた。


「だからあなたはずっと何も見たくないと引きこもってきたのか? こうしてこれからはあなたを俺の出来ること全てで包んでやりたい。アドルフ様は全てを知った上で、あなたの心は永遠に癒えないかもしれないと言った。だが、俺はそうは思いたくない」


「ディルク……」


「東へ行きたいとシェリルに話していたというのは本当か? それが本心なのか? 」


 マリーが俯き、言葉を返せないでいる間に、ディルクの言葉は更に続いた。


「東西を分断した境界の周辺では夥しい程の血が流され、数多くの人間が死んだのは既に十分に知っているだろう。その中で、子供だった行き場の無くなった『彼』シン・カルヴァートを拾ったのは、東の元帥ヴィルヘルム・クリューガーだったんだ」


 ディルクの言葉に、マリーの表情がみるみるうちに強張っていく。


「……! 」


「信じたくないのは分かる。だが、俺は報告書を大量に読んだ。……『彼』は東側の軍属となってから、既にこちら側の兵を大量に殺してきている。まだ若いため周囲に配慮してか、階級は中尉のままだが、非常に有能で別格扱いがなされているそうだ。だから『彼』はもう許されない場所にいる、戻れないんだ。あなたがいくらそう願ったとしても」


 ディルクは重苦しい表情で吐き出すようにそう言った。


 マリーは言葉を失ったように俯き、その両眼からは次々と涙が零れ落ちた。


 ディルクはマリーの身体に手を伸ばしかけたが、ぎりぎりでそれを押し留めた。


「俺は明朝、またここを発たなければならない。俺は俺にしか出来ない方法であなたを護り続ける。それが俺の進むべき道と信じているからだ」

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