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第2章 護り石の再会(5)

 オーウェン夫妻とその娘のマリーが、夜公会の会場に到着した時、既に場内は正装した人々によって溢れ返っていた。


 車から慎重に下りてから、マリーは周囲にひしめきあう人々の群れに目をやった。


 そこに居合わせた人々が、西か東のどちらに属している者なのかは一見するだけで、マリーにも直ぐに判断することが出来た。


 東の軍の関係者は、殆どが男性でその全員が独特の濃紺の軍装に身を包んでいたからだった。


 当然のことながら此処では両者共に殺傷能力のある武器を携帯することは、一切許されてはいなかった。


 だが、唯一例外として、仲介役の周辺国から遣わされた兵士達だけが、入り口及び会場内部やその周辺を固める為に、物々しい様子で武装し警備の任に就いていた。


 マリーが降り立った車寄せは、統一感のある剪定をされた庭園風の常緑樹に周囲を囲まれており、その脇には左右対称の状態でグリュエールの国花、鈴蘭(すずらん)が飾られた磁器製の花瓶がふたつ楚々とした姿で置かれていた。


 清廉(せいれん)芳醇(ほうじゅん)な白い花の香りの中、マリーは艶やかで上等な布を贅沢にたっぷりと使った、自身の瞳の色とよく調和した色彩のドレスの端を指でつまみ、両親の後について中に足を踏み入れた。


 正直言って普段着とはまるで勝手が違う、着慣れない正装した姿では相当動きづらいことこの上なかったが、それでも何とか躓かぬよう、足元に細心の注意を払いつつ進んでいった。


 幾つもの燭台が照らし出す御影石(みかげいし)の床の通路を通り過ぎ、弦楽器が優美な旋律を奏でる大広間に出た時、遠くに東の地を掌握した元帥ヴィルヘルム・クリューガーと思しき者の姿が見受けられた。


 西側の人間達を、長い間恐怖に駆り立ててきた、絶対的な存在が今確かに自分の目の前にいることを、マリーは信じられない面持ちで目にしていた。


 これまでその男にまつわる残虐非道な噂は、西側の人々の間で繰り返し囁かれてきた。


 だが、肝心の実像に繋がるような情報については極めて曖昧な扱いをされたままで、マリーが知り得る事が出来たのも、広く知られたその名のみ、だった。


「……お母様、わたしこの辺にいるから」


 圧倒的な存在感を漂わせた男の姿を遠目に見ながら、マリーは自分の母の耳元でそう囁くと、壁際まで歩いていって、そこで両親を見送った。


 足元がふらつき、本当は立っているのもやっと、というような情けない有様だった。


 心痛による睡眠不足と疲労とが、既に限界に達しかかっていた。


 だが、それでもマリーは常に気丈な様子で振る舞い、両親に感付かれぬようにと出来る限り努めてきたつもりだった。


 ―あと少しだ。もう少し我慢すれば全て終わるから。


 マリーはそう思いながら、何とか堪えていた。


 壁に背を預け、両親から離れようやく一人残された後で、マリーは安堵の息を漏らした。


 マリーの立っている場所の周辺には、将校と思しき若い東側の軍人達が何人も立っていた。


 彼らは皆、マリーを横目で見ながら、互いに何か話し込んでいる様子だった。


 アドルフ・オーウェンの一人娘は、軍の人間達にとっては注目の的ということらしい。


 何人かの軍装の男達が近付いてきて声を掛けてこようとする素振りを見せたが、マリーの心中はひどく空虚なままだった。


 異変感じたのは、その刹那。


 不意にマリーは自身に向けられた強烈な視線を感じ、びくりと身体を強張らせた。


「……な……に」


 向けられた視線に込められた強い意志のようなものが、瞬時にマリーを貫いた。


 説明のつかぬ感覚がマリーを支配し、その感覚は先程元帥ヴィルヘルム・クリューガーを目にした時と、何処か似通っている感があった。


 しかし、マリーを襲ったその感覚は瞬く間に消え去った。


 マリーは落ち着かぬ様子で、周囲を幾度も見回してみたものの、場内は先刻までと何ら変わった様子もなく、大勢の人間が目の前を行き来するばかりだった。


「……何かしら」


 マリーは誰にも届かぬ小さな声で、そう呟いた。


 一瞬、心が縛り上げられるかのような感覚を覚えた。


 鮮烈な印象。


 霞みがかっていた意識を、突如現実に引き戻す程の……。


 自分の心をそれほどまでに捕らえられる人間など、この地上にはたった一人しか存在しないことを、マリーはよく分かっていた。


 少なくともその筈だった。


 その時、マリーは信じられないような、あるひとつの可能性を考え始めた自分に気がつき、呆然としていた。


 十二年前、一人の少年が境界より東側で行方を眩ました。


 マリーの目の前にあったのは、その事実だけだった。


 まさか……そんなことが有り得るわけがないはずだ。


 そう必死で思おうとしながらも、何故か心が締めつけられるような感覚を覚えた。


 自分の感情が、制御不能な方向へ傾きかけていることに、マリーは自分ではっきりと気がついていた。


 収まらない慟哭。


 無意識の中で心が縛られてゆく。


 捕らえられてゆく。


 それはまるで見えない糸に絡め取られてゆくかのように……。


 そうしてマリーは、自分のいる場所より遥か遠く離れた人々の間に、一人の青年の姿を見出した。


 青年の髪は漆黒、同じ色彩の眼。


 その青年の両眼が、確かにマリーの姿を捉えていた。


 瞬間、マリーの中にあった全てのものが、時を止めたかのようだった。


「シン……」


 驚くほどあっけなく、その名はするりとマリーの口をついて、出た。


 マリーの視線の先の青年は、唇をきつく結んだまま確かにそこに立っていた。


 全ての音という音、色という色が跡形もなく消え去ってゆくようだった。


 無色で透明な、何も存在しない世界。


 その中でマリーは何も出来ぬまま、呆然と立ち尽くしていた。


 青年の両眼に宿っていたのは、全ての感情を失ったかのような冷酷さを漂わせた色、ただそれだけだった。


 青年の傍らには、軍を率い東の地を完全に手中に収めた、男の姿があった。


 身に着けた濃紺の軍装の胸には、階級章。


 そして東の軍の最高権力者である男と、何か言葉を交わしてから、その男に従うようにその場を去ってゆく青年の姿が、マリーの目に映った。


 マリーはその場で愕然としたまま、言葉を失い、ただ目を見開いていた。


 身体から、全ての力という力が抜け落ちてゆくようだった。


 そうして足元を支えていた最後の力が抜けて、がっくりと膝をついた姿勢のまま、マリーはもう一度だけその青年の名を呟いた。


 膝をついたままの、涙で崩れかかったマリーの視界の中に、ディルク・ユンカーが駆け寄ってこようとする姿が映った。


 だが、マリーは動けなくなったまま、漆黒の髪の青年の姿が消えた場所をただひたすら見つめ続けることしか出来なかった。

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