第2章 護り石の再会(1)
―国家そのものを根底から揺るがした、内戦勃発より十二年。
グリュエールでは特に東西を分かつ境界周辺にそれまでに在った建造物の多くは、激しい戦火に晒され破壊されるという悲劇的な末路を辿った。
軍は境界から東の地域一帯に進駐したが、その戦いの渦中で辛うじて難を逃れたものの幾つかを選び出し、軍事転用を始め、以後入念な改築を重ねた。
これは新たなものを基礎から建て直すより、既存のものを流用する手段の方がより金銭的な負担を軽減できるという、合理的で現実的な手段を選択した為にとられた措置だった。
その中で最重要拠点の統合本部の要塞として選ばれたのは、一見するだけでも贅の限りを尽くしたと推察出来る、ある富裕層の一族が残した遺産とも言うべき荘厳な屋敷だった。
内部には略奪され、調度品のなくなった飾り台と共に、絵画が消えて一部だけ白く抜けた壁が目に付く。
それが建物全体の姿は豪奢でありながら、妙に不似合で異様にさえ見えた。
そうした経緯により軍の拠点となった建造物の前に今、一人の長身の青年が姿を現した。
青年の髪は闇に同化し、溶け込むかのような漆黒。
髪と同色の両眼は、その中に宿る強い意志を感じさせるものだった。
青年が身に纏うのは軍特有の濃紺の色彩の軍装で、腰には鈍い銀の光を放つ、一丁の短銃が差し込まれていた。
青年の左の胸部に配置された階級章が、陽光を跳ね返らせ、微かに鈍い光を放っていた。
銃を構えた姿で、そこで警備の任に当たっていた数人の軍人達が、青年の姿を認めると緊張感に満ちた表情で即座に敬礼し、その姿を見送った。
暫く建物内部の入り組んだ通路を歩いた後、青年は上階へと続く階段に足を向けた。
厚い金属板が嵌め込まれ、擦り切れ黒光りした軍靴の足で、階段を一段ずつ上っていく。
やがて三階まで上りつめた青年は、一番奥まった部屋の扉の前で立ち止まった。
扉を数回叩いた青年に、ややあってから部屋の内部から応える声があった。
「入れ」
耳に届いた静かな男の声に、青年は扉を押し開くと、室内に足を踏み入れた。
「……失礼します」
そこに居たのは、軍装姿の一人の初老の男。
微かに白髪が混じった髪をした年相応な皺が刻まれた風貌の男だが、彫りの深い野性的な眼差しが、接する者に対して強烈な威圧感を与えている。
部屋自体はざっと見る限り、さしたる広さは無い。
むしろその逆で、狭さによる高気密のせいか何となく閉塞的な息苦しさすら感じさせる。
男の背後の壁際には、東の軍を象徴する咆哮する獣の姿を描いた、青く染められた軍旗が半旗の姿で掲げられており、それが印象的な姿を見せていた。
青年が初老の男に敬礼した。
「……元帥閣下、お呼びですか」
感情を一切感じさせぬ、淡々とした口調で青年が言った。
元帥と呼ばれた初老の男は、部屋を訪れた青年に、自ら歩み寄りながら口を開いた。
「久方ぶりだな、ここへは随分と姿を見せなかったようだが」
「……」
言葉を返さぬ青年にも、初老の男は特に気分を害した風もなく続けた。
「また、前線にいる方が気楽だとでも言うつもりか? 」
「そう言うあなたは相変わらず変わりないようですね」
青年はようやくそれだけを口にしたが、その表情は硬く、そこから何らかの感情を窺うことは出来なかった。
「……皮肉か」
「そんなつもりはありません。ただ直近の戦況を見聞きする限り、あなたは既に駒を失い過ぎたのは確かだ。今や、実戦経験の乏しい者ばかりになってしまった」
「……」
「俺の言葉が皮肉なのだとすれば、崇高な理想を掲げていたはずが、ジリ貧になった今のこの現状に対して、でしょう」
青年の言葉に初老の男が沈黙した。
「……違いますか? 」
青年の問い掛けには答えず、初老の男は口を開いた。
「……歳月というものは本当に恐ろしいものだ、あのひ弱な子供が今のお前になるとは到底思えぬ」
初老の男の言葉に、今度は青年の身体がはっきりとそれと分かるほどに反応を見せた。
だが青年は何も言わず、代わりに見据えるような眼差しを初老の男へと向けた。
「お前は、あの頃のことを言われるのだけは、相変わらず気に入らないようだな」
「……」
「だが、たとえお前のその言葉が事実であろうとも、手詰まりで窮しているのは西側とて同じこと……問題はアドルフ・オーウェンただ一人だ。奴を失えば、西側は陥落も同然。……だが、奴は警戒心が異常に強い。我々の同志が幾度もその機会を窺えど、今も奴はのうのうと生きている」
そう言いながら、初老の男は一旦言葉を区切り、眼を上げた。
「奴には娘が一人いる。その姿は近日中の夜会で、目にすることが出来るはずだ。……私の言わんとしていることが、理解出来ているな」
漆黒の髪を揺らし、青年が応える。
「……娘の顔は分かっています。もっとも随分昔の話なので、今は面影が無いかもしれませんが」
青年が事も無げにあっさりと口にした言葉に、初老の男が驚いた声をあげた。
「何だと」
「あなたには話したことが無かったが、俺が生まれた家はオーウェン家と近いところにあった。だが、今更そんなことはどうでもいいことだ」
当初とはまるで異なる挑発的な口ぶりで話し始めた青年に、初老の男は俄かにたじろいだ様子を見せた。
「なんだ、あなたにしては随分動揺しているようだな。西で生まれたこの俺が恐ろしいのか? それとも『あの土地』だからか? そのことで俺が裏切りを起こすとでも? 訴追しろと他の一部の人間達が声高に言うように」
次々平然とそう言い放つ青年の言葉に、両者の間に、暫しの沈黙の時が流れた。
「そんなつもりはない。越境を成し遂げることが可能な上、尚且つ西側の地理に精通する者がお前以外には存在しない以上、私はお前を指名する。それ故に私はお前を呼んだのだ、シン・カルヴァート」
漆黒の髪の青年は自らの名を呼ばれ、ぴくりと肩を震わせた。
「……あなたに名を呼ばれるのは、本当に久し振りだ」
青年の言葉を遮るように、初老の男が不意に何か思い至ったように口を開いた。
「今、お前は家がオーウェンの家と間近にあったと言ったな……? あの時、子供のお前が持っていた『花嫁の護り石』は、まさか……」
にわかに気色ばんだ口調の初老の男に対して、青年はそれを一笑に付した。
「随分、可笑しな古いことを言うものだ、クリューガー。しかも、あなたは年の割に俺が思っているより遥かに過去のことをよく覚えているらしい、取るに足らぬような下らないことまで」
「確かあの時のお前は銃撃を受けた瀕死の状態で、石を庇っていたはずだ……」
シンは目の前の男の言葉を遮るように、再び口を開いた。
「あんなものはとうに捨てた。そんな遠い過去の話は必要の無いことだ。俺は命令を遂行する、その為だけに来た」
シンは目の前の男にそう告げ、身を翻すと、そのままその部屋を後にした。
青年の靴音が次第に遠ざかって行く中、初老の男だけが沈黙が訪れた部屋の中には残された。
「もはや我々に残された時間は少ない。どういう形になろうが、私はお前に全てを託す」
東の地を掌握した、軍の頂点に君臨する男、元帥ヴィルヘルム・クリューガーは独りでにそう呟いた。