第1章 彼方へ(13)
窓の外に映る草原の風景は、もう夕刻の紅い光に包まれていた。
薄暮の空を眺め、少し冷気を含んだ風を感じつつ窓を閉めてから、マリーは豪奢な天蓋つきの寝台の中で寝そべった。
既に日は随分と傾き、窓からは太陽が送る最後の光が差し込んで、部屋全体が霞んで見える。
マリーの手が届く距離の脇机の上には、手習いのやりかけの刺繍の布が置いてあったが、その出来栄えは相変わらず酷いもので、そこに通した針の乱雑さから、まるで気持ちが込められていないことがすぐに窺えた。
おそらくこれを見た母親に、自分はまた叱られるのだろうが、マリーは一向に構わなかった。
―嫌なことなんか何もやりたくないんだもの、絶対に。
マリーは糸を通した布に、心底嫌そうな視線を向けながらそう思った。
「シン、何時帰ってくるのかな……」
シンが父親に連れられ、地質調査に赴いて以来、マリーが毎日口にするのはそのことばかりに占められていた。
こうして母親の言いつけに内心嫌々ながらも従うのも、全てあの少年のため。
言うことをきかなければ、自分が両親から外出禁止令を下されかねないからだった。
マリーはまたあの真摯な目をした少年のことを思い出し、少し頬を染めて微笑んだ。
シンは自分に何時もたくさんの話をしてくれる。
行ったことの無い土地の事や、見たことも無い生き物や空の星々のことを。
窮屈なこの屋敷の中での生活とはまるで違う広々とした世界を教えてくれるのだ。
―何時か大人になったら自分もシンと同じものを見たい。
そんな願いが何時の頃からか、マリーの心の中には芽生えていた。
シンが話してくれたことを幾つも思い出しながら、マリーの意識はゆっくりとまどろみの中へと落ちていった。
マリーが次に再び気がついた時、部屋の中には夜の帳が下りていて、室内は闇に包まれていた。
何時の間にか、少し寝入ってしまっていたらしかった。
マリーは眠い目をこすりながら、欠伸をひとつした。
それから暗がりの中、手探りで柔らかな羽の縫いこまれた布団を剥いで、扉があるはずの方向へ向かって歩いていった。
「……お母様、起こしに来てくれなかったのかなぁ」
そんなことを呑気に呟きながら部屋の扉を押し開け、マリーはひとり廊下へと出て行った。
廊下の壁には燭台が等間隔に並べられ、そこに灯された蝋燭の炎が何処からか流れてくる微かな風によってゆらゆらと揺れていた。
ぼんやりとしたその灯りが、廊下に敷かれた柔らかな赤い絨毯をぼんやりと浮かび上がらせている。
暫くそこを歩く内に、マリーは耳慣れぬ複数の人間の声を耳にした。
その声はマリーが良く知るこの屋敷に住まう使用人達のものでも、両親のものでもないようだった。
それは明らかにおかしなことだった。
夜半を過ぎたであろう刻限に家人以外の者が、この屋敷の中に大勢いることなど、これまでにあっただろうか。否、無いはずだ。
しかもどうやら大勢の人間が一箇所に集まっており、神妙に何かを話し込んでいる様子なのだ。
マリーはその声のする先を捜し当て、ひとつの扉の前で立ち止まると、中の話し声にそっと耳をそばだてた。
通常マリーが足を踏み入れるのに躊躇うような場所など、この屋敷の中には何ひとつない筈だった。
だが、この日だけは何かが違っていた。
確かに何かが違っていたのだ。
「……東の地は軍の制圧下に」
「西へ脱出を望んだ人間達は皆、無差別に銃殺され見せしめにされたとか……」
「……何故こんなことに……この国はこれからどうなるというのですか」
マリーが扉に身を沿わせ、何とか聞き取れたのはそれだけだった。
そのどの言葉も、マリーにはよく意味の分からぬものばかりだったが、声に宿った切羽詰まったような響きから、どうやら何かとても良くないことが語られているらしい……という事だけが、マリーにもなんとなく理解出来た。
不意に背後の廊下の奥から、大きな靴音を立てて足早に近づいてくる人物に気がつき、マリー思わず振り返った。
姿を現したのは、マリーのよく知る少年の父親、イズル・カルヴァートだった。
表情を顔面蒼白にして現われたイズルは、扉の前に佇んだマリーに気がつき、ちらと眼をやったが一言も声をかけてくることなく、無言のまま扉を開き、中に入っていった。
何時もであれば、少年と似た柔和な笑顔で声をかけてくれるはずの男のそんな顔を、マリーはこれまで一度たりとも目にしたことが無かった。
その男の登場で、扉の奥の空間はにわかにざわめき立った。
「息子のシンと東で離れ離れになった。……行方が分からない。俺は自分が逃げてくるので精一杯だった」
絞り出すように語られた男のその声は、マリーの耳にもはっきりと届けられた。
そのとたん、部屋の内部のざわめきが、一斉に静まり返った。
シンが……と、確かに聴こえた。
同時にマリーの中に、たくさんの疑問符が渦を巻くように広がっていく。
答えがない疑問と、言い知れぬ不安が次々と湧き出してくるようだった。
そのせめぎあうような両方を抱え、マリーは無意識のまま、目の前の扉の中へ吸い込まれるように入っていった。
部屋の中には、何十人もの大人達がひしめきあうようにして立っていた。
異様に部屋の灯りが眩しく感じられ、マリーは目を細めながら周囲を見回した。
そこにいたのは皆、やはりマリーにとって見覚えのない者ばかり。
唯一、自分が好きでたまらない少年の父親を除いては……。
―この人たちは誰…? どうしてシンのことを話してるの?
そうして突然姿を見せた幼い少女の姿は、そこに集まっていた者達全員を十二分に驚かせるに値するものだったらしい。
居合わせた者等が皆、言葉を失っていることからも、それが明らかだった。
「マリー……お父さん達は今、とても大事なお話をしているところなんだ。お前は自分の部屋に戻っていなさい」
父親のアドルフは、マリーに近付くとその肩に優しく手をかけ、部屋へ戻るよう促そうとした。
しかしマリーは、瞬時にアドルフの手を振り払った。
「お父様、シンは何処へ行ったの? 軍隊って何? シンは何処なの……? 」
マリーが矢継ぎ早に、質問をひとつずつ重ねる度に、アドルフの顔がみるみる内に強張っていく。
今、自分が父親にとっては指摘されたくないことを言ってしまっているということが、マリーにははっきりと分かった。
だが、問い掛けをやめることは出来なかった。
真っ直ぐに自分を見据えてくる、娘の深い青の瞳をアドルフは見つめ返すことが出来ず、ただただ立ち尽くしていた。