第1章 彼方へ(12)
父親のイズルの居た場所を離れ、一人になってからシンは立ち止まった。
「そういえば、あんまり遠くには行くなって、父さんに言われてたんだっけ……」
周囲はまだ昼日中だというのに、静寂に包まれていた。
地殻の隆起により山岳地帯が形作られ、そこに多様な外的要因が加わり長い時間をかけて削り取られ、今の姿を留めることとなったこの谷間には人の手が手つかずのままの自然の風景の中に独特の趣きがある。
だが、この付近には、建造年代が現在より遥か数世紀は遡ると言われる、名を知られた監獄『終焉牢』があり、しかもそこに収監されているのが最も罪状が重い類いの重罪人で、そんな特殊な土地柄を持つ場所の間近にあえて好き好んで住む人間もいないせいか、周囲に人影は無かった。
シンが草陰に隠れていたような、比較的大きなその亀裂に気が付いたのは、そんな時だった。
「……? 」
幾筋も帯状にうねりを見せる岩盤層の一部が、シンの足元ぎりぎり近くのところで、ぽっかりと穴を開けていた。
伸びていた周りの草葉を払い、興味をそそられたシンが腹這いになり、目についた岩の割れ目に顔を近付けると穴の奥からは僅かに冷えた風が流れてくるのが感じられた。
「風穴……? 深いのかな? 」
穴の奥の様子を窺おうと、シンはその中に顔を突っ込んだ。
丁度、父親の手伝いにも退屈しかけていた頃で、ほんの遊びの延長のつもりだった。
元々今回のような地質調査に同行すると、全般的にシンは父親に待たされることの方が多く、そうした時間をやり過ごす為の遊びを自分で見つけ出す事には慣れていた。
穴自体は子供が一人やっと通れる程の幅しか無い狭いものだったが、シンはうつ伏せのまま壁の端に手を掛けると、その中に身体全体を潜り込ませた。
穴の奥には日の光は差し込んではおらず暗かったが、湿気を帯びた暗がりの中のあちらこちらに自ら発光する種の苔が自生しており、それがシンを更に中へと導いていった。
まるで狭い通路のような横穴をずり這い状態で進むシンの息は次第に荒くなったが、身体の内側から湧き上がってくる、突き動かされるような衝動を伴った好奇心に従い、ぐいぐいと先に進んでいった。
自分の父親のように鉱物や岩石に対して特段の関心が無くとも、不意に見つけたこうした洞穴探検は都度面白く、シンは何時も心が躍った。
もっともささやかな一瞬の冒険者になってみたところでも、実際には大した収穫も無いまま、結局元の場所まで戻ってくるだけでしかないのだが……。
―だが、この日だけは違った。
「……すごい」
思わず口にした驚きの言葉と共に、シンは急に洞穴が一気にひらけた先に降り立った。
目の前の光景に目を瞠る。
「きっとここはずっと誰にも知られていないままだったんだ……こんなところがあったなんて」
細く長い横穴の先に待っていたのは、大量の結晶化した鉱石群に占められた空間だった。
頭上付近の岩盤に入り込んだ微かなひび割れから、僅かばかりの日の光が差し込んできており、光が鉱石に吸い込まれ、万華鏡のように乱反射していた。
目の前にあるのは澄んだ虹色の輝きを放つ、無数の水晶樹林。
特に透明度の高いものや半分くすんで濁った色彩を放つものが見事に混じり合い、大小様々な大きさのものが鈍い光を放っていた。
シンは足元に転がった、形と色の整った欠片のひとつを拾い上げ、その半透明な結晶を透かして見た。
天然の水晶は、かざす場所によって無数の輝く光の色彩を映し出した。
「小さな星が入ってるみたい……か」
シンは幼馴染の少女の姿を思い出し、その言葉を反芻するようにそう呟いた。
「何をやっているんだ、あいつは……何だか遅すぎやしないか」
幾ら待っても戻らない息子のことを、ひたすらに待ち続けていたイズルは、岩のひとつに腰掛けた姿勢で、服の中から煙草を一本取り出してくわえると火をつけた。
立ち上る煙をくゆらせながら、手持無沙汰にぼんやりと周囲を見回す。
「……」
イズルが奇妙な感覚を感じたのは、その刹那。
直感にも似た異様な違和感に、イズルは手にしていた煙草を、直ぐさま押し消し片付けてから立ち上がった。
そこに確実に有るはずのものが無かった。
「……鳥の声が全く聞こえない」
今回の調査対象であった、この周辺の地域は本来であれば、有数の野鳥の生息地である。
確かにそのはずだった。
少なくとも前回の踏査で訪れた際には、耳障りな程に聞くことになった鳥のさえずりが、今はひとつたりともそこには無かった。
―短期間にそこまでの急激な環境の変化が生じる事などあり得るのだろうか。
様々な可能性を視野に入れつつ思いを巡らせど、どうあっても納得いく結論には到達出来そうに無いことを、イズルは感じた。
「何故今まで気がつかなかったんだ……俺は……」
何かがおかしい。
とてつもなく嫌な胸騒ぎを覚え、イズルは幾度も周囲に目をやった。
しかしそこには別段変わった所は何処にもないように見え、付近は静寂に包まれているばかりだった。
それが一変したのは、直後。
突如、鼓膜を破られそうな強烈な連続音が周囲に鳴り響き、鳥が狂ったような声を上げながら、大量に空へと飛び立った。
轟音の理由と意味を何ひとつ理解出来ぬまま、イズルは反射的に地に伏せた。
「……な……何だ? 」
恐る恐るイズルは震えながら顔を上げ、再び周囲を見回した。
通常であればほぼ起こるはずのないような恐ろしい事が、今の自分には起ころうとしている。
イズルにはそれだけが分かった。
―さっきのつんざくような音は、おそらく銃声だった……。いや、そんなばかな。
イズルは混乱により半ば思考停止し、五感が麻痺したような状態のまま、静かにそろそろと立ち上がった。
気掛かりなのは、一人息子のシンのことだった。
次の瞬間、さっきと全く同じ爆音が再びイズルを襲い、今度は複数の明らかに人間のものと分かる、もがき苦しむような絶叫が響いてきた。
恐怖に駆り立てられた、イズルの身体からは冷えた汗がどっと噴き出した。
此処にこのまま留まっているわけにはいかないと、姿を消したままの息子を探す為、イズルは恐怖で震える膝を抑えながらも何とか歩き出した。
周囲の様子に慎重に気を配りながら歩く途中で、風に乗って火薬が燃えた後のような臭気が漂ってくるのに気が付き、イズルの身体は瞬間的に硬直し、同時に強い吐き気に襲われた。
逃げなければ……だが、肝心の息子の姿が未だ何処にも見つからない。
イズルの心にはただひたすら焦りだけが募り、まるで破れ鐘を容赦なく叩きつけるかのように、荒々しくどくどくと何かが体内で脈打つをのを感じていた。
その時、もう一度耳を塞ぎたくなるような幾人かの人間の絶叫を耳にして、イズルは反射的に身を屈めながら、岩の割れ目から声のした方に目を向けた。
狭い隙間から見えたのは、目を背けたくなるような信じ難い光景だった。
息を潜めたイズルの視界の中で、泣き喚きながら命乞いする一人の男が、ばったりと前のめりに倒れていった。
流血し倒れた男の前には、この国の軍属であることを暗に示す、闇のような濃紺の色彩の軍装を纏い、機銃を手にした数人の男達が立っていた。
しかもその背後には同様に武装した、かろうじて身に着けた衣服だけ見れば民間人とは言えなくないが、実際には到底そうは思えぬほどの隆々とした体躯の複数の男達の姿もあった。
「軍隊……? どういうことなんだ、こんなところで何故……」
それは頭の一部分を派手に殴られているかのような衝撃だった。
突き付けられた現実を目の前にして、イズルは慄き、強烈に揺さぶられる行き場の無くなった感情のまま、ただ強く掌を握りしめることしか出来なかった。