第1章 彼方へ(11)
―一週間後。
「ねぇ、父さん、家へは何時帰れるの? 」
太古の時代から堆積し続けた土砂や泥が、今はその存在が失われた水脈によって抉り取られることで剥き出しになり、切り立った崖を形作る渓谷の一角。
そこでシンは目の前の露わになった地層の表面に含まれた土壌の成分を、手元の手帳に詳細に写し取っていた自分の父親の背中に訊いた。
イズル・カルヴァートが今回依頼された仕事は、現在採掘が進められている鉱山に程近い地での踏査だった。
グリュエールの国土の中でも、中央辺りに位置するこの地を、カルヴァート親子が訪れるのはこれで既に二度目だった。
「なんだ、シン、お前もう帰ることを考えているのか。まだ来たばっかりじゃないか」
イズルは振り返らないまま、手帳に文字を書き記しながら言った。
「そういうわけじゃないけど……」
そう言い掛けて口をつぐんだ息子に、背中を向けた姿のままのイズルが言った。
「此処を見てみろ、琥珀が埋まっている。珍しいぞ」
シンは僅かに屈んで、イズルが指し示した先を見た。
丁度地層の中に半分埋まるようにして、乳白色の石の一部が姿を覗かせていた。
「琥珀って樹脂の化石の? 前に見たのはもっと透明で黄色っぽい色だったけど」
「あれは加熱処理をしてあるんだ。採掘時はこんなもんさ。中に羽虫が入っているのを見たことがあるだろう、単なる琥珀よりも昆虫が入っている方が値が付くらしいな」
イズルはそう言って、シンの顔を見た。
シンは肩から鞄を掛けた姿のままそこに立っていたが、その表情は何処となく気もそぞろで、上の空であることが見て取れた。
「父さんの仕事についてくるのは退屈か? 」
「だからそうじゃないって! 」
「どうしたんだ? もしかしてマリーちゃんのことか。また淋しいって言われたんだろ」
「……」
「なんだ、当たりか。やっぱりな、どうせそうだろうと思ったよ」
「ちっ、違うよ! 」
「違わないだろ。お前くらいあの子を好きな男も他にいないさ。そしてあの子もお前が好きでたまらない、と。だが、彼女は正真正銘、あのオーウェン家のお姫様だ。父さんは頭が痛いな。俺がもっと出世出来ればいいんだが、世知辛い世の中なんでな。なかなかそれが難しい。釣り合いがなぁ……」
「……父さんがそんなことを言うから、この前マリーが怒っちゃったんだよ! 父さんのせいだ! 」
「……一体何の話だ? それより天体図は描いてやったのか? お前何時も言ってたもんな。あの子が殆ど外に出ることが許されないから、自分が行った様々な土地の夜空の星を見せてやりたいって。だから製図の為の器具なんかを、ずっと欲しがってたんだろ。あんなもんを欲しがる子供もお前くらいだからな。またその鞄に入れてきたのか? 」
「……」
「おい、急に無口になるなよ。頼むから父さんを不安にさせないでくれ」
イズルは息子の顔を改めて見ながらそう言った。
「……ねぇ、父さん」
「何だ? 」
「マリーは僕のお嫁さんになりたいんだって。どうすればいいと思う? 」
シンの言葉を聞いた瞬間、イズルが盛大にむせ返った。
「あのな……それは恐ろしく難しいぞ……で、お前はそうなりたいのか? 」
「わかんない」
「そうだろうなぁ」
「でも、どういう形であれ、気を許しているお前が出来るだけあの子の側にいてやることが、あの子の為かもなぁ」
「……? 」
「俺達があの土地に住めるのも、俺が国の仕事をやってるっていう、叩き上げなだけで、本来はそんなにいい階層の生まれじゃない。だから、俺には色々分かることがあるんだよ。この国のいいところも悪いところも全部な。下は悪く言う人間も多いが、上の人達だってそれはそれで色々と大変なんだ。だからお前やあの子が大人になった時、少しでもその悪いことの方が良くなっているように、父さんは何時も願ってるんだ」
「難しくてよく分からないよ」
「この国の中には人と人とを隔てる消せない壁があるんだ。お前とマリーちゃんの間にもあるって言ったそれな。それを全部取っ払って、お前があの子を好きだと思えたのならその時選べばいいだろうさ」
「……」
「そう深刻にとらえなくてもいいんだぞ。大人になれば、お前にもいずれは分かることなんだから」
「僕、マリーに綺麗な石をあげる約束をしたんだ。ちょっと周りを見てきてもいい? 」
「もしかして『花嫁の護り石』のつもりか? 生意気だな」
イズルが冷やかし混じりにそう訊くと、シンが真っ赤になって否定した。
「だから違うって! じゃあ、僕行ってくるから! 」
シンはその場から逃げだすように、独りで駆け出して行った。