第1章 彼方へ(10)
「……そっか」
「じゃあ今度行く時には……きっとマリーに何か石を持って帰ってくるよ。僕が探してくるから」
「それって結婚の約束? 首飾りのための石? 」
マリーが不思議そうに顔を上げて、そう訊いた。
「そ……そういうんじゃないよ」
シンは戸惑いながら、それだけを言った。
すると、マリーはまた途端に頬を膨らませ、露骨に再び不機嫌になった。
「だったらいらない、絶対いらない。シンなんて嫌い! あっち行ってよ。出てってよ、もう」
「だから、なんでそうなるんだよ」
―それにここは僕の家じゃないか、という言葉をシンは発する直前でなんとか飲み込んだ。
マリーはぷいと横を向いたまま、既に今やこちらの言葉を完全に拒否しようとし始めている。
この気まぐれで他力本願で、尚且つ表情がしょっちゅうくるくる変わる幼馴染の扱いに、シンは時々手を焼いていた。
こういう時に下手な返答をしてしまうと後々大変なことになることも、当然重々承知しているのだ。
だから今は出来るだけ、慎重に、慎重に言葉を選ばなければならない。
そのため、シンはまず大きくひとつ息を吸い込み、気を落ち着けてから言葉を続けた。
「僕の父さんが前に言ってたよ。マリーはものすごい家のお嬢様だから、きっといずれすごい家の男と結婚するだろうって。お前と一緒に遊んでくれるのもせいぜい、今のうちだけだろうってさ」
「何よそれ! 」
シンの言葉にマリーが憤慨した。
「そんなの絶対いや! 」
悲鳴のような声をあげたマリーの青い瞳に、じわりと涙が滲んでいくのを目の当たりにして、シンは慌てた。
「嫌って言っても……だから、僕とは結婚の約束は出来ないよ」
「そんなこと誰が決めたのよ! 」
「いや……僕の父さんがそう言ってるし」
シンの取り成すはずの言葉は結果的に大失敗に終わったことは火を見るより明らかだった。
今や、目の前の幼馴染の機嫌は最悪と化している。
シンには何故ここまでマリーを怒らせてしまったかが、さっぱり分からなかった。
とりつくしまがないということは、まさにこのことなのだろう。
―お前がいくら好きでも、しがない名ばかりの鉱物学者の息子なんて相手にされないに決まってるって、そう言ったのは父さんなのに……僕の何がいけないんだ?
シンはいわれのない非難を浴びた気持ちになり、ひどく情けない気分になっていた。
思えばマリーはもっと小さい頃からしょっちゅうシンの後をついて回っていた。
この辺りには子供が自分達以外にはおらず、遊び相手が他にいなかったから、という理由もあったのだが……。
だが、それ以上にマリーの両親は常に留守がちで、ひとりで過ごすことが多かったこの幼馴染の少女の面倒を実質的にみてきたのは他ならぬ自分自身だった。
それにシンは知っていたのだ。
この頻繁に自分を困らせる幼馴染の少女が、わがままを言ってくる相手は、本当は自分ひとりだけなのだということを。
他の大人たちの前ではもっと物わかりのよい子供のふりをしながら、いかにもオーウェン家の娘らしい、『相応しい振る舞い』をしていたことも。
けれど、本当のマリーは外面の良い聞き分けのいい方ではなく、自分だけが知っている、聞き分けがなく癇癪持ちの、困らせられてばかりいる方のマリーなのだ。
何時もすぐに不機嫌になったり、そうかと思うと、すぐに笑顔になったり。
けれど、シンはそれを狡いこととか、嫌だとは思えなかった。
この自分に他に兄弟がいなかったせいだろうか。
マリーは何時もシンに一番近いところにいた。
だから、妹とは少し違う、この幼馴染にシンは何時の頃からか不思議な感情を抱いていた。
―だから、僕が他の誰よりもマリーのことをよく知っていると思っていたのに……。
今のシンにとっては結婚、と言われても正直いまいちよく分からないし、ぴんともこない。
漠然とした想像さえわかない。
だが、自分が長く面倒を見てきたこの幼馴染の少女が、実は生まれながらに自分とは全く別世界の人間であり、成長した頃には会うことすらままならなくなるかもしれないという事実は、シン自身に余りあるほどの衝撃を与えた。
勿論その言葉を吐いた張本人のイズルにとってはそう深い考えがあった上でのことではなかったのだろう。
むしろただの取るに足らぬ、茶化すような冗談の類いだったはずだ。
けれど、言われた側のシンには到底そうは思えなかった。
そんなシンの心中を露ほどにも知らぬ、目の前の少女はいたく傷ついたような顔をした。
「マリーはシンのお嫁さんになりたいのに。ずっと前からそう決めてるのに」
マリーが悲しげにぽつりと呟いた言葉に、シンは思わず顔を上げた。
「え……? 」
マリーにはシンのその声が余程間が抜けているように聞こえたらしい。
「え、って何? 」
「いや……あの」
「……シンは違うの? 」
こちらをじっと見つめてくるマリーに、シンは何ひとつ答えを返すことが出来ないでいた。
そんな相手の心境も知らず、黙って立ち尽くしているだけのシンの姿に、マリーは余程傷ついたらしい。
再び、その両眼の中にみるみる涙が滲んでいく。
「お父様が言ってたの。首飾りの青水晶は花嫁の護りの石になるって。だから余計にほしかったんだもの」
そう言ってべそをかいている目の前の幼馴染の姿に、シンはなんだか胸が苦しく切なくなった。
―なんで泣いたりするんだよ。僕の気持ちも全然知らないくせに。
責めたい気持ちを堪えながら、シンはマリーの頭にそっと自らの掌を乗せた。
そして意を決したように、ゆっくり言葉を続けた。
「……わかったよ。約束する。必ず石を探してくるから。青水晶じゃないかもしれないけど……それでも絶対何か石を持ってくるから。結婚の約束をしよう、僕と」
マリーの両眼がもう一度真意のほどの再確認するように、上目使いにこちらを見たのが分かり、シンは安心感を与えるために、もう一度深く頷いた。
何時もこうしてなだめてあげれば、幼馴染の少女は落ち着きを取り戻すのだから。
―先がどうなったっていいんだ。そんなことは大した問題じゃないのかもしれない。
シンはそうも思った。
自分とマリーに生まれながらにどうにもならないような、何か決定的な差があったとしても。
遠い先の約束が果たされるかどうかなんて分からなくとも、今の自分にとっては目の前のマリーが泣いている方が遥かに嫌だった。ただ泣かせたくなかった。
自分が出来ることがあるならば望むようにして叶えてあげられればそれでいい。それだけの純粋な気持ちからくる約束だったはずだった。
―だが、シンはまだ知らなかった。
この時交わした幼い約束が、その後の終わりのないような長い時の中で、結果的には自身の礎となっていくことを。そして、同時に、非情なまでに歪められた時の中、自分自身がその誓いゆえ苦渋し、足掻きながら生き続けることになるということも。