プロローグ
塹壕の隙間から、一人の青年が空を見つめていた。
今夜は雲という雲が消え去り、無数の星の灯りが空の全てを覆い尽くしていた。
大気は澄んでおり、視界を遮るものは何もない。
この青年は膠着状態と化している戦況によって、既に随分と長い間、そこに釘付けにされていた。
移動が困難な状況下で、青年は無数の星の中からひときわ際立った輝きを放つものを探し出すと、懐から方位磁針を取り出した。
針の示す先から方角の位置を改めて確認しつつ、幾度か腕と指を動かしながら角度を測り、そこから現在のおおよその時間を探った。
―そしてもうひとり。
「どうだ? 分かりそうか」
青年はそう背後から声をかけられ、振り返りざまに頷いた。
「夜明けまでは四半時、おそらくそのくらいでしょう、動きますか? 」
青年が表情を変えずに淡々とそう答えると、声をかけてきた青年より少しばかり年長の男は首を横に振った。
「いや、やめておけ。西の連中もどうせ今日くらいは何もやりたくないと思っている頃だろう。今夜は何十年かぶりの流星群の晩ときく。無粋な真似は似合わん」
まぁ、単に俺が動きたくないってだけだが……とそう付け加えつつ、声をかけてきた男はふと何かを感じたかのように、青年に露骨に物言いたげな視線を投げかけた。
「それにしても、お前はなんで何時もそう無表情なんだよ」
「俺がこういう人間だと、あなたが一番よく知っているでしょう、アストリー大尉」
青年は悪びれもせず、相変わらず一切表情を変えずに言った。
「それにそんなに呑気に喋っていると、ここが真っ先に撃たれかねない。既にこちらは残り弾も尽きかけている、この状況で標的にされたらどうにもならないことに……」
青年がそこまで言いかけた時、男がそれを遮った。
「いや、弾は当たらんだろうさ。なにせ『お前が』いるからな」
目の前の青年を見ながら少しおかしそうに、アストリーと呼ばれた男は言った。
「婚約の証の『護り』を相手に渡せないまま、後生大事に十数年も持ち続けているお前が、な」
アストリーの言葉に、青年が沈黙した。
「お前のその『約束の花嫁』に、何時か会ってみたいものだな」
半ば揶揄するようなアストリーの言葉に、それまでは何の変化も見出すことが出来なかった青年の表情に、僅かに歪みが生じた。
その時、不意に一筋の流星が二人の男の頭上を流れていった。
随分とまばゆい光だった。
流星は強い光を放ちながら、西の方角へと真っ直ぐに流れ、そして燃え尽きるように跡形もなく消え去った。
それを見送り、ややあってから青年が再び口を開いた。
「……大尉、残念ながらそれは不可能です」
青年は微かに目を細め、さっきより幾分はっきりとした声でそう言った。
そして、一度だけ緩やかに息を吐き出す。
青年は自分の言葉によって、アストリーがじっとこちらを見たのが分かった。
だが、青年はあえて視線を返すことはせず、先程までしていたのと同じように、もう一度空を見上げた。
そうして、再び口を開く。
「俺はもう『こちら側』へ来てしまった」
―だから、もう二度と会うことはないでしょう、と。