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夏の破片

「何、これ……」

 僕の目の前にあるのは、明らかに死体だった。少し腐敗しかけており、まだ性別は判断できた。小さな男の子だ。五歳ぐらいで、僕の弟と背丈は変わらないようだ。死体は仰向けで、両手は祈るような形で、胸元で組み合わさっていた。

 僕の弟は今、二泊三日の幼稚園内のお泊り会に昨日から参加している。親離れを早くしておいた方がいいという園長の方針で、この幼稚園独自で行われていた。最近はこういう考え方もあるのだと思い、中二の僕は素直に受け止めていた。でも、まだ五歳の幼い子供が、親のいないところで寝つけることができるのか、心配ではあった。まだ早すぎるような気もしなくもない。しかし、そんな僕の淡い心配とは裏腹に、幼稚園側から電話はかかってこないし、別段楽しく過ごせているのだろう。

 僕はどういう経緯で死体を発見してしまったかというと、少しだけ盛り上がっている土が公園内にあったので、好奇心で掘ってみた。すると、小さな死体が見つかったというわけだ。お宝でもあるんじゃないかと、でもそんなにうまい話はないだろうと思いながら、半ば好奇心で掘ってみたら、この有様だ。

 やっぱり、人生は何が起こるかわからない。予想もしないところで、くるりと僕の取り巻く風景やら、空気やら、雰囲気などを変えてしまう。突然に、予告もしないで、突拍子もなく。

 僕は見て見ないふりを努めようと心に固く誓うと、優しくその死体に土をかけた。死体の口に容赦なく、がばがばと土が入っていく。まるで、自分から土を食しているかのように。

 僕は耐えきれなくなり、どこからともなく白い小柄な花を持ってきて、男の子の組み合わさった手に挟むようにして、花を入れた。そして、急いで再び土をかぶせ始める。どうして僕は急いでいるのかわからないが、せわしなく手は動き、爪が剥がれていても気づかないくらい集中して、土をどさどさとかぶせていった。

 かぶせ終わったときに、やっと指に激痛が走った。爪は四か所も剥がれていて、血が溢れんばかりに滴り落ちている。

 僕は最後に砂場から砂を持ってきて、丁寧に撒き、足で平面になるように砂ごとならしていった。

 いつの間にか夕方になり、昼間耳障りなほど煩く鳴り響いていた蝉の音も、幾分か静かになってきていた。鳴り響いているというより、もはや叫んでいるかのような。何かを訴える必死さのような感情が、蝉を突き動かしているかのように思えた。

 家は公園から五分ほど歩いたところに建っている、築五年の真新しい一軒家だ。弟が生まれたときに、僕たち家族はこの家に越してきた。大人たちが交わす会話は聞いても意味が分からないことばかりだったが、父親は

「これからバリバリ仕事頑張るぞ~」

 と勢い込んでいた。いつもは母より頼りない父が、そのときだけはたくましく見えた。頑張った甲斐があったのか、部長まで昇格したと家族に嬉しそうに報告したときがあった。

 家に着き、玄関を開くと、重苦しい空気が僕を包み、吐き気が喉にせりあがった。……ああ、まただ。

「ただいま」

 玄関に響き渡る声は誰にも伝わらない。はぁはぁと荒い息使いだけが聞こえてくる。

 リビングに入ると、母親がソファーで編み物をしていた。育ちが良さそうな端正な顔立ち。軽くパーマがかった細い綺麗な髪。そして、誰かを心の底から思いやることのできる純粋さ。そこに惚れたんだと、父親は僕がまだ幼い頃に言っていた。あと、特徴的な涙ぼくろ。それは僕にも受け継がれているものだった。

 その母親には、今は父親が惚れ込んだと言っていたものが一つも見当たらなかった。血色の悪い顔色。何日も洗っていないだろうボサボサの髪。そして、口をだらしなく半開きにして、よだれを垂らしている。ただ、涙ぼくろは以前と変わらないままだった。

「け、けっちゃん……け、け、け、けっちゃんが帰ってきたときに、寒くないように……あ、編んでおいて、あ、あ、あげるからね」

 滴り落ちるよだれが、母親が自ら編んでいるマフラーに落ちていく。僕は目を逸らした。

 けっちゃんとは、僕の弟、健のことだ。生まれてきたときから可愛がられ、立つのも読み書きをするのも、同い年の誰よりも早く、両親はそのことを誇りに思っているようだった。僕ももちろんそんな弟を誇りに思っていた。

「母さん、ただいま」

 母親は虚ろな目を僕に向けた。細い首を重たげにもたげながら。

「あらぁ……おかえりなさい」

 よだれが糸を引く。電気をつけていないリビングには、夕日だけが満ち足りており、差し込む陽光がよだれに反射して、妙な光を放っていた。

「けっちゃんねぇ、まだ帰ってこないのよ。お、おかしいわねぇ」

「そりゃあ、幼稚園にお泊りに行ってるから」

「お泊り……? ず、ずいぶん長いのねぇ。一か月もお、お泊りなんてねぇ」

「一か月? 何言ってるの、母さん。健は昨日家を出たばかりじゃないか」

「違うわよ!」

 突然、母親が金切声を上げた。

「けっちゃんは、もうずっといないのよ! 何言ってるの!」

「何言ってるの、母さん。またわけのわからないことを。いい加減にしてよ」

 僕はそう言うと、さっさと部屋に入った。土がまだ付着しているズボンを履いたまま、ベッドに寝転ぶ。

 母親は、またおかしなことを言い始めた。つい四日前にも、同じことを叫んでいた。とうとう、頭がおかしくなっちゃったんだ。

 あれ、でも弟は昨日からの泊りなのに、なんで母親は四日前にも弟がいないって言ったんだろう。……よくわからない。頭が痛い。吐き気がする。考えたくない。

「まぁいっか」

 僕は声に出して言うと、すうっと引きずり込まれるようにして、眠りの海へと沈んでいった。


 --------------------------------


 僕は森林を駆け回っている。

 弟の声が遠くから聞こえてくる。

 でも、耳で囁いているかのように、近くで聞こえるときもある。

 弟が僕を呼んでいる。

 お兄ちゃん、お兄ちゃん。

 蚊の鳴くような声で。

 お兄ちゃん、お兄ちゃん。

 か細い声で。

 お兄ちゃん、お兄ちゃん。

 足は勝手に弟の声の方へ動いていく。

 お兄ちゃん、お兄ちゃん。

 やめろ、それ以上呼ぶな。

 お兄ちゃん。

 やめろって言ってるだろ!

 お兄……ちゃん?

 目の前に立っている弟は、涙を流していた。


 --------------------------------


 僕は目が覚めた。全身は汗で濡れ、髪は顔にへばりついていた。寝覚めが悪い。悪夢だった。

 ガチャリと玄関の戸が開く音がした。父親が帰って来たらしい。頭がおかしいのは、母親だけではなかった。父親も健がいないと何回も言っていた。

「警察に捜索願も出したんだ。きっと生きている。大丈夫、心配するな」

 それを毎日のように、狂った母親に慰めるように言っている。そうすると、母親は少しの間だけ以前の母親に戻るのだ。

「お夕飯の支度しなくちゃ」

 と、てきぱきと手を動かし始める。そして、必ず作るのは、健の大好きなハンバーグ。ピーマンが嫌いな健のために、細かく刻まれたピーマンが具材として入っている。僕はそれが嫌いで嫌いで、仕方がなかった。でも、元に戻った母親は、優しくて、よだれも垂らしてなくて、相変わらず顔はやつれているけれど、笑顔があって、好きだった。いつまでも、その笑顔を絶やさないでほしい。切実にそう思う。

 しかし、僕のそんな小さな願望でさえ叶わなかった。ハンバーグを口にした途端、母親はよだれを垂らす母親に変貌してしまうのだ。急に卑屈な笑みを浮かべながら、けらけらと大声を上げて笑い、

「けっちゃん、けっちゃん」

 と上機嫌で鼻歌交じりで歌うのだ。そうしたかと思うと、突然嗚咽を洩らしながら泣き始め、父親の胸の中で一日中、泣き喚く。うるさいったらありゃしない。父親も内心本当に困った顔をしている。そのときの父親も嫌いだ。僕と目が合うと、すっと視線を逸らすからだ。

 そうなったら食欲もなくなるし、僕は後片付けもしないまま部屋に戻る。吐き気がする。悪寒がする。僕の体重は実際五キロは減った。

 僕はベッドに潜り込むと、布団を頭からかぶり、きつく目を閉じる。脳には弟の顔がちらつく。笑った顔、怒った顔、泣いた顔。走馬灯のように駆け巡る弟との思い出が鬱陶しく感じられたとき、僕は眠りにつく。そして、あの悪夢をまた見るのだ。



 次の日、僕は目が覚めると、公園に行った。父親も、よだれを垂らし続けて健を呼ぶ母親も、すべて無視してきた。

 公園までの道のりは五分程だけれど、アスファルトで埋め尽くされている舗装された道は、太陽からの照り返しが強い。肌が焦げ付いていくのがわかる。持参してきた水筒のお茶を、僕は一気に三分の一ぐらい飲み干した。暑い、暑すぎる。

 公園に着くと、いつもの場所に座った。砂場の近くにあるベンチだ。木製でできているベンチ自体は、日陰になっており、いつも冷たくて気持ちいい。僕は水筒のお茶を半分飲み干した。

 今日も蝉がひしめくように鳴いている。ジジッジージー、ミーンミーン、ジジジジジ。様々な蝉が同じタイミングで鳴くものだから、騒音とあまり変わりはなかった。煩い、黙れよ。

 そう思いながら、傍に落ちている青々しい葉を足で踏みつけていると、僕の目の前に人が来た。

 めったに僕に話しかける人なんていないから、驚きつつも顔をゆっくりと上げると、そこには見覚えのない少年が立っていた。両目は少し離れており、真ん丸な目は、まるでビー玉のようだった。全身は夏には不似合いの、茶色で統一されていた。靴は履いておらず、裸足だった。

 少年は僕に向かって、こう言い放った。

「僕は全部見てたんだからな」

「何を」

「全部、すべてさ。君の昨日の公園での出来事、知ってるよ」

「何言ってるの、昨日公園なんか行ってないよ」

「いや、行ってたね。間違いなく君だったよ。この目で見たんだ」

 そう言うと、少年はまばたきを数回する。

 昨日……公園行ったっけ。覚えがないや。一日中部屋にいたと思ったけど。

「で、僕は何をしてたっていうのさ。行った記憶が曖昧なんだ、教えてよ」

「君は困った奴だな」

 少年は真ん丸い目が落ちるんじゃないかと思うほど、大きく見開き、こう言った。

「君は死体を見つけたんだ」

 ……何言ってるんだ、こいつ。こういう類は無視した方がいいに決まってる。変に絡むと、しつこいからな。

 僕は彼に返事をしないでいると、

「あのさ~無視はよくないよ。無視っていう言葉、嫌いなんだ。あ、でも虫は好きだけどね」

 頭をフル回転させて、『無視』と『虫』の漢字変換をする。

 しばらくお互いの間に静かな沈黙が流れた。蝉は煩く鳴いているはずなのに、なぜか耳に入らない。

「じゃあいいよ。君が無視するんだったら、僕にも打つ手がある。三分ほどで終わるから、少し付き合ってね」

 少年はそう言うとすっと背筋を伸ばし、指で滑り台の下を示しながら

「そこ。そこに行って」

 と、首で促した。

 僕は重い腰を上げ、ふらふらと指し示した場所へ足を向けた。

「うん。じゃあそこ掘って。すぐには出てこなくても、根気よく掘れば出てくるから」

「……何が? いいもの、悪いもの?」

「見ればすぐわかる。君が背負ってる罪も」

 少年は意味のわからないことを、ぼそりと言った。僕の周りには、おかしい人間が集まっちゃうのかな。

 少年が早く土を掘るようにと、足を踏み鳴らして促したので、僕は仕方なく手で掘っていった。元々なぜか剥がれていた四か所の爪は、不思議と痛くなかった。汗が額から零れ落ちる。僕はスコップがないか辺りを見渡したが、砂場に他の人が忘れていったスコップなど、ありもしなかった。スコップを探していることを少年は察すると、

「手で掘らなくちゃ意味がない。そのまま手で掘って」

 と、語尾を強くして言った。

 僕は仕方なく掘り進めていった。もしかすると、お宝かもと幼い好奇心が僕を突き動かしていく。太陽は嘲笑うかのように、僕をジリジリと容赦なく焦がしていった。蒸し暑いこの季節、炎天下で作業を進めるのは、さすがに体に堪えた。

 

 太陽が頭上の真上にきたとき、僕はやっとのこと掘り進めて何かが見えてきたところだった。

 でも、おかしい。お宝なんかじゃない。第一、物じゃないのだ。というより、幼児の手に見える。

 僕の脳内で警戒音が鳴り響く。

 見るな、見ちゃいけない。

 見たら、お前はおかしくなる。

 しかし、そんな警戒音とは裏腹に、体は意識せずとも勝手に掘り進める。もはや制御不能だった。

 その後十分程して露わになったのは、小さな死体だった。腐敗しかけており、まだ性別は判断できた。五歳ぐらいで、僕の弟と背丈は変わらないようだ。両手は祈るような形で、胸元で組み合わさっていた。その中に、白い小柄な花が微かに輝いている。

 蝉の鳴き声が一切しない。その空間は、少年と僕だけのものだった。

「ほら、言った通りでしょ」

「……何が」

「君はこの死体に見覚えがあるね?」

 首筋で掻いた汗が背中に流れ込んでくる。ひんやりとした感触に、身震いした。

 確かに、見覚えがあった。いつ見たのかはわからないが。

 少年は真ん丸い目を静かに閉じて言った。

「君は、この死体を毎日見ている。ここ一か月ずっと。そうだろう?」

 僕の脳内で警戒音と共に、信号が赤く点滅する。『渡るな、危険』の文字がチラつき、その文字が『見るな、危険』に変わっていく。

「し、知らないよ」

「知らないわけないだろう。僕たちは一か月にわたって、君の言動を見てきたんだ」

「どういう意味だよ」

 僕の語尾は思わず強くなる。

 本当に、こいつおかしい奴だ。でもおかしいだけじゃなくて、僕の根っこの部分に渦巻いている感情を暴こうとして来るから怖い。僕はそんな感情知らなかったのに。いつの間にかできていた塊は、彼によって気付かされた。

 こいつ、怖い、怖いよ。……助けて。

「僕は蝉なんだ」

 彼は語りだした。饒舌に、でも淡々と。

「蝉は一週間で命が尽きる。蝉たちの間でそれは承知の上だ。僕も明日、死ぬと思う」

 生ぬるい風が頬を撫で、汗ばんだ背中に服が張り付く。蝉が突然、喚き始めた。まるで僕にぶつけるように、その音は僕に向かって集合していく。

「僕たちは、この一か月君を見てきたと言ったね。君を交代で見てきたんだ。蝉の寿命は一週間だから、一か月はもたない。君を見た最初の蝉が一週間で死ぬと、次の蝉がまた一週間君の言動を見る。そして、また次の蝉が一週間……と、君は今まで計四匹の蝉によって見られていたというわけだ」

「なんで見てたの」

「だって、君面白いんだもん」

「……は?」

「毎日毎日同じ行動を繰り返しているんだ。死体を埋めたのは……確か、一か月前だって、蝉の間で言っていたな。その死体を次の日に掘り返しては埋めて、また次の日、堀り返して埋める。全部自分がやっていることなのに、表情が毎回一緒なんだ。死体を見た瞬間、驚きと恐怖で顔が歪んでいる。その顔が毎回固定でね」

 少年はくすくすと笑う。蝉もそれに合わせて鳴り響く。

「あんたさ、頭おかしいよね。僕が死体を埋めただって? あり得ない。そんなことしてない。濡れ衣を着せないでよ」

 蝉たちが一斉にどっと笑った。風が勢いよく吹き、木々がざわざわと大きく揺れる。

「頭がおかしいのは、君でしょ」

「え」

「君ってさ、あのときの君を無理やり閉じ込めてるだけだよね? 見ないようにしてるだけだよね? 君が自分の弟の死体に花を入れているときは、何かに操られているかのようだったよ。それは、人殺しをする前の君による行動だった。そうだろう?」

「そんなことしてな──」

「すべて見てたよ」

「……」

「君はとんでもない罪を犯した」

「……」

「僕たちは全部見てたんだ」

「……」

「また無視? だからそれは嫌いだって。何か言いなよ。否定したら、それこそ君が肯定するまで言い続けるけどね」

 ああ、鬱陶しい。


 --------------------------------


 脳内で赤いシャボン玉がふわふわと泳いでいる。青空に埋め尽くされたその真っ青な空間は、赤いシャボン玉を際立たせている。僕は、そのシャボン玉に手を伸ばす。シャボン玉は軽やかに指を交わし、僕に遊びの誘いをする。僕はむきになって追いかける。

 やっとのことで指が付いたシャボン玉は、儚く弾けた。

 しかし、指が付いたシャボン玉は一つのはずなのに、次から次へと大量に浮いているシャボン玉が弾け始めた。弾けると、真っ青な空間はその弾けた空間だけ赤く染まる。

 大量のシャボン玉が弾け終わったときには、真っ青な空間が真っ赤な空間へと変貌していた。

 鮮やかな赤色に、僕は酔いしれた。


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「ねぇ君、聞いてるの?」

 蝉の顔をした少年が話しかける。触角はピンッと生え、少し黒ずんだ茶色の顔だった。目は相変わらず真ん丸だ。

「……うるさいな」

「え? 何、もう一回言って」

「だから、うるさい。鬱陶しいんだよ」

「どうしたの、急に怒り始めたりなんかし──」

「うるせえな!」

 僕はそう怒鳴りつけ、いつの間にか蝉本来の姿に戻っている少年を足で踏みつけた。

 少年の手足はもげ、触角がちぎれた。腹部から飛び出た液体は散乱し、ぴくりとも動かなくなった。僕は粉々になるまで踏み続け、満足すると、その蝉とはもはや言い難い死体を足で払った。

 蝉は煩く騒いでいた。

 

 夕方になり、僕は家から持参してきたバケツに、見つけてきた蝉の抜け殻を大量に入れた。

 僕は自分の弟の死体を掘り返し、死体の口に蝉の抜け殻をじゃんじゃん入れた。そのときにはもう、僕の爪はすべて剥がれ落ちていた。

 次に、近くの大きな池に行った。蝉の抜け殻をこれでもかと思うほど池に浮かべると、僕はざぶざぶ池に入って行った。足が付かない。でも、恐怖は微塵も感じなかった。僕は仰向けになって、ぷかぷかと浮く形になった。

 夜、吹く風はひんやりとし、心地良いと感じていた僕の体は、体勢を崩して沈み始めた。

 怖くなかった。


--------------------------------


 一か月前の夕方、僕は健と公園に来ていた。僕は弟の面倒見がいいからと、母親から信頼され、どこか行くたびに、弟を任せられていた。

 でも、いつも弟と僕の頭の出来を比べられた。両親は明らかに頭の良い弟の方を可愛がるようになり、けっちゃんは天才だ、けっちゃんは有名なお医者さんになるかもね、ともてはやされていた。

 中学受験でどこの中学にかすりもしなかった僕とは、大違いだった。そんな僕は、ご近所でも噂になっていた。

『弟さんの出来はあんなにいいのにね~。どうしてお兄さんは』

 その言葉が嫌というほど耳に入ってきた。そのご近所おばさんに向かって、僕は何度も消えろと願った。

 夕方の公園は思いのほか涼しく、僕は弟の背中を押して、ブランコをしていた。すると、頭の回転が速い弟は言った。

「お兄ちゃん、試験落っこちたんだってね」

「……誰に聞いたの」

「ご近所のおばちゃん。お兄ちゃん、僕より頭の……出来だっけ、悪いんでしょ。そんなこと言ってた」

 一瞬にして、僕の中の何かが弾けた。その反動でブランコに乗っていた弟の背中を強く押してしまった。

 ブランコから落ちた弟は、後頭部は打たなかったものの、顔から落ちてしまって、傷だらけだった。血を流しながらわーんと泣く弟を、僕は背中におぶって足早に帰った。焦っていた。

 家に帰ると、キッチンから出てきた母親に弟はすぐ泣き付いた。

「お兄ちゃんがね、お兄ちゃんが……僕を落としたの!」

 母親は弟の傷だらけの顔を見た瞬間に、形相を一変させた。僕につかつかと歩み寄ったかと思うと、パンッと大きな音が響き渡った。頬を平手打ちされたのだ。

「なんてことしてくれるの! けっちゃんは、あんたとは違うのよ!」

 それを聞いた瞬間、僕は駆け足で階段を上り、部屋の鍵を閉め、布団を頭からすっぽり被った。

 嫌だ、嫌だ、みんな嫌い。嫌いだ、大嫌いだ。なんだよ、ちょっと怪我しただけなのに。わざとじゃなかったのに。健が僕とは違うってどういうことだよ。

 脳内で近所のおばさんの皮肉ごもった声が響く。

『弟さんの出来はあんなにいいのにね~。どうしてお兄さんは』

 ……。

 ……健なんか、いなければいいのに。

 ……健なんか、消えちゃえばいいのに。


 その次の日、僕は健を連れて、夕方の公園に来ていた。その日は夕方でも蒸し暑く、蝉の死体がたくさん転がっていた。

「健、お兄ちゃんが押してあげるよ」

 と健にブランコを勧める僕は、目が充血していた。

 ゆっくりとブランコは揺れていく。風が気持ち良いと、健は鼻歌を歌いだす。僕はゆっくりと手を動かす。

 ある程度の高さになって、僕は健の背中から手を離した。僕のわずかな温もりを感じられなくなった健は、足をばたつかせ始めた。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん怖いよぉ」

 泣きべそを掻き始めた健にそっと手を添えると、すぐ泣き止んだ。

「もっとお空に近くしてあげようか」

 僕が健にそう言うと、健はにこやかな笑みで

「うん」

 と言った。白い歯が夕日に反射した。

 僕はどんどんブランコを高くしていった。もう自分でも手が届かないくらいの高さになり、健は怖さのあまり硬直し始める。

「お兄ちゃんが、いいよって言ったらブランコから手を離してごらん。飛んできた健を抱きかかえてあげるからね。安心していいよ」

 健は少し硬い表情で、

「うん」

 と言ったけれど、笑顔は見せた。風が激しく吹き、健の髪が持ち上がった。

「いいよ」

 僕がそう言うと、健は手を離した。うまくこちらに飛んできて、本当に抱きかかえることのできる距離になった。

「お兄ちゃん」

 健は歯を見せながら、僕に飛びつこうとしていた。一生懸命、短い腕を伸ばす。あと少し、あとちょっと、もうすぐ……。

 健が僕の体に触れようとした瞬間、僕は体を逸らして健を避けた。伸ばした健の腕は僕の服にも届かず、空を切り裂く。

 健は、ブランコ近くにある柵に顔から落ちていった。あ、という声と同時にメキョッと音がした。蝉が鳴り止んだ。

 僕はその後、弟の死体を滑り台の下に埋めた。弟の凹んだ顔に何も感じなかった。でも、もうこれで健と比べられることがなくなると思うと、心の中は晴れ晴れとした気分だった。さっきまで健がブランコに乗りながら歌っていた鼻歌を、大声で歌いながら家に帰って行った。

 途中、いつもくだらない話ばかりしている近所のおばさんに不審な目で見られたが、僕は消えろと思うと同時に、ざまあみろと心の中で勝ち誇った気分になった。

 家に帰ると、両親に健はどこに行ったか尋ねられたけど、何も答えなかった。両親は健を探しに出てしまい、夕飯は一人でカップラーメンをすすった。別にどうってことなかった。

 その後、ベッドに入るときも、何も思わなかった。布団をかぶり、眠りにつこうとウトウトし始め、眠る瞬間、弟の顔が脳裏に浮かんだ。夏が似合う、白い歯を覗かせて、弟は笑っていた。

 その日から、毎日のように悪夢が始まった。


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その後、池で溺れた少年が、釣りをしに来た中年男性によって発見された。周りには、蝉の抜け殻が多く浮いていたとか。

 しかし、少年の弟が発見されたという報道は、世間に流れなかった。

暑すぎる夏の中、蝉の声は、今日もやかましく鳴り響いている。



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