心の平静
冬休みを目前に控えたある日、放課後に早苗が僕の元にやってきた。
「亮太、帰ろう」
その言葉は、小学生時代に言われ続けていたセリフであり、不覚にも僕は頷いてしまった。ここ最近は、早苗を避けるようにしていたのにも関わらず。
帰り道、早苗は僕が彼女を避けていたことを気にしているのか、気遣ったように何も言わなかった。あるいは何も言えなかったのかもしれない。いつも纏わりつくように絡んでくる早苗にしては珍しいことだった。
冬のからっ風が僕らの頬を滑り、マフラーが靡いた。僕も早苗も、人気の無い帰り道で思わず立ち止まった。
「亮太」
早苗の呼びかけに、僕は答えなかった。だが、意を決したように彼女は返事を待たず続けた。
「あんたは、ずっとあたしの目標だった。小さい頃から、かけっこでも勉強でもあんたに勝てたことなんて一度もなかった。あんたの背中を追いかけて、あたしはここまで来た」
僕は何と答えれば良いのだろうか。冬の通学路、住宅街の隙間を縫うように、また木枯らしが強く吹き荒んだ。僕は思わず目を細めたけど、早苗は瞬き一つせずこちらを見つめていた。早苗の短い髪が風に揺れ、マフラーの先がたなびく。僕は、早苗から視線を外した。
「この前のテストで、あたしはようやく総合点であんたに勝てた……と思う。あんたは教えてくれなかったけど。なのに、全然嬉しくなかった」
ちゃかしてみようと、ふざけた口調で言ってみる。
「そりゃよかった。勝った相手を少しでも気持ち良くさせないのは、敗者に残された唯一の嫌がらせだからね」
「ふざけないで!」
突然、突きさすような声色で早苗が怒鳴った。僕は上着のポケットに手を突っ込んだまま、道路の隅に視線を捨てていた。そこには、風に煽られたゴミがかすかに溜まっていた。
「ねえ、どうしてあたしを避けるの。なんで、そんな風になってるの。昔のあんたはもっと……」
「ふざけるな!」
今度は、僕が怒鳴る番だった。地面に言葉をぶつける。
「早苗に、僕の気持ちが分かるわけないだろう! 能天気で周りを見ないで前に突き進むポリヤンナなんかに!」
「ポリヤンナ?」
「楽天家って意味だよ」
ポリヤンナはバカにしたようなニュアンスを含む。
「早苗、僕と君は違うんだ。僕を目標にするのは勝手だけど、そこに僕を巻き込まないで欲しい。僕を越えたら、もっと先に突き進めばいい、僕を置いて」
そう言って、視線を上げ早苗の方を見た。すると、彼女は目尻に涙を溜めていた。僕は、かなりの衝撃を受けた。
「あんた、笹神高校受けないで、1ランク下の高校受けるんだってね。なんで?」
「それは……」
言葉に詰まる。僕は僕の想いを以てその高校に決めたのに。咄嗟に言葉が出なかった。緩やかな風が吹いて、道路隅の落ち葉をさらっていった。
「あたしは、ただあんたを目標にしてたんじゃない。あたしは……あんたが……」
真っ直ぐに涙を湛えた目で僕を見つめ、早苗は何かを言おうとしているみたいだった。けれど、喉元まで込み上げてくる別の何かが、それを押しとどめているみたいだった。
「早苗、僕はもう、疲れたんだ。偽られる自分に。君の中に映る僕と、僕自身は別ものなんだよ」
「ちがう! あんたなんかに、あんたの何が分かるの!」
「ひどく逆説的だ」
僕が笑うと、早苗も泣き笑いのような顔をした。
「一緒に同じ高校に行って、頑張ろうよ」
それに、僕は答えることができなかった。言葉を失った僕らの間で微風が吹きわたり、空き缶がからからと音をたてて転がっていった。
やがて、僕はゆっくりと首を振った。
「早苗、僕にはそれができない。ねえ、君ならどこだって頑張れる。きっと笹神高校にも受かって、そこでもまた頑張れる。でも、僕は違うんだ」
「亮太……」
「じゃあね、早苗。君ならできる。なんたって、僕が唯一憧れた女の子なんだ」
そう、憧れて、嫉妬した。
「亮太!」
早苗の声を無視して、僕は一人帰路を進みだした。背中に早苗の視線を感じながら、僕は人生で取り返しのつかない分岐点に立っていることを感じていた。そして、自分が早苗とこれ以上、決して深くは交わらない道を選んだであろうことを感じていた。僕は、早苗が好きだった。けれど、眩しすぎて近くにいることができなかったのだ。きっと、一緒にいればいるだけ自分が惨めになるだろう。努力が億劫になったその時から、僕は早苗と一緒にいる資格などなかったのだ。
その日を境に、僕は早苗とまた会話するようになった。けれど、二人ともどこかよそよそしく、会話は上辺だけを意味なく滑るものになっていった。そしてまた、僕は心の平静を取り戻したのであった。その平静は、冬の街路みたいに冷たく静かで、そして何もない。
この小説「グラデュエイト・ブルー0」は、短編小説「グラデュエイト・ブルー」を長編にしたものです。基本的な内容は同じですが、短編の方は高校生になった「僕」と早苗のやり取りを描いています。




