6.鬼火
「鬼火、でございますか」
匡積が半ば呆れ混じりにそう返すと、目の前の貴人は「そうなのだよ」と楽しげに頷いた。
「典薬寮の薬生達が、薬園で見たと言うのだ」
「薬園とは、七条の方にある?」
匡積が訊ねると、黒の袍を着た男は頷く。
「薬草管理のため夜に訪れたところ、鬼火が一つ、また一つと、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返したそうだよ」
男が言うには、藤の花が散り終わって暫くした頃から、そのような噂が立ったらしい。曰く、鬱蒼とした薬園の中、足元に無数の青白い炎が漂っていた、と。夜にしては生温い風が吹いていたそうだ。
典薬寮管理の薬園で鬼火が出た、という話は数日で内裏に広まり、やれ奇病が流行るだの薬が呪われただのと騒ぎになっているという。今上帝の治世にまで影響しそうだ、と嘯く男の顔に変化はなく、依然楽しそうである。
「それで、何故その話を、蔵人頭である貴方が図書寮の助である私にするのですか、博嘉様」
典薬寮のての字に擦りもしない立場である。部外者が話題に出す意義について、匡積は問い質したくなった。
「何ですか、お探しの資料は勅書ではなく物語でしたか」
そうであればお力添えができず申し訳ありません、と匡積が澱みなく言い放つと、博嘉と呼ばれた高貴な男はつまらなさそうに口を尖らせた。
「単なる世間話ではないか。責任を感じず面白おかしく話せる話題の一つや二つ、常に備えておくのが優秀な貴族というものだよ」
いつの間にやら取り出していた尺を口元に当て、博嘉はこれ見よがしな溜め息を漏らして見せる。その流れが、あまりにも上流階級の手本そのものに思えて、匡積は素直に感心した。
このような雅さは、匡積には持ち得ないものだ。
「物の心も知らぬ男ですから」
仕事の手を止めることもなく淡々と匡積は返す。それを聞いた博嘉は、物珍しがるような顔をしたかと思うと、可笑しそうに低く笑った。
「そこまでは言っておらぬのに……。誰ぞ、そう言う者があったか」
言い終えてなお、その笑いは止まらない。
匡積は何をか言い返そうとして、しかし口を閉じた。藤華寺の藤花の一件が思い出されたが、あの白銀の庵主――明雪の話を持ち出すのは憚られた。
顔に笑みを浮かべたまま、博嘉が続ける。
「もう少し幅広いことに興味を持たれよ」
女に文を送るにも苦労しそうだぞ、と同情じみた声音を向けてくるのが憎たらしい。この貴人が浮名を流しているものであるから、なおさらである。
そこで不意に、博嘉が押し黙る。怪訝に思い、匡積は視線を向けた。
「視野が狭いと、見落としが増えるぞ」
そこには、匡積を真正面から見返す真摯な顔があった。その迫力に小さく息を呑む。
――匡積、物事は多角的に観るものだ。
不意に、祖父の教えが思い起こされる。分かった気になり答えを急いた匡積に対する忠告だった。足元をすくわれぬように、と言われた記憶がある。
常に言われていた言葉だというのに、いつの間に忘れていたのだろう。あまりにも、身動きの取れない時期が続いていたからだろうか。
匡積が自らの意識の中に深く入り込みかけたところで、ぱし、と乾いた音が響いた。俯きかけていた顔を上げると、博嘉が右手で持った尺を左手の上に置いているのが見える。
博嘉は、先程の真面目さが嘘のように、薄っぺらい笑みを顔面に張り付けていた。
「思いつめるのは、お前の悪い癖だな」
昔と変わらぬ、とため息をつかれてしまえば言い返す言葉も見当たらない。至らぬもので、と返すより他なかった。
「まあ良い。そういうわけで、先日陰陽師たちに祈祷をさせ、典薬頭には籠居の沙汰を出してある。典薬助は物忌みだな。これで一応始末はつけた形ではあるが……」
そう言って、何か言いたそうに博嘉は匡積を見た。匡積が顔を寄せると、博嘉も顔を寄せ、その口元を尺で隠す。
「裏が少しきな臭い。気をつけて見ておけ」
低い声で囁かれた内容に、静かに目を見開く。
それはどういうことか、と博嘉に問い返そうとしたところで、誰かが近づいてくる気配がした。
博嘉が素早く匡積から距離をとる。
「助殿」
匡積が呼ばれて振り返ると、紙の束を抱えた図書寮の官人が一人立っていた。
「お探しのものを、お持ちしました」
言って抱えていたものを匡積へ差し出す。匡積は頷いて受け取ると、下がってよい、と官人に言い渡した。
ぱらぱらと重なる紙を数枚捲って、納得したように頷く。
「さて、蔵人頭。お探しの勅書はこちらでございます」
紙の端を丁寧にそろえて、博嘉へと差し出す。そこには、先程までの気安さなど何処にもない、ただの官人としての匡積がいた。
「ありがとう、助かるよ」
博嘉もまた、表面的な社交辞令としての礼にとどめ、紙束を受け取る。
しかし、二人の交わす視線には、忠告と了承の色が濃く出ていた。
博嘉を見送り、一人になった匡積は深い溜め息を吐く。
――鬼火がね、出たのだよ。
そう言って悪戯に笑う博嘉の顔が思い出される。別段、鬼火の噂は珍しいものではない。誰某の怨念だの、祟りだのと、よく聞く類いの噂である。年若い頃は、匡積も漠然とした不安に駆られたものだ。けれども、煩雑な日々に追い立てられる生活であったからだろうか。自分が見たわけでもない怪異には、段々と興味が失せていった。
そしてそれは、博嘉も同じはずである。
博嘉は、現在、従四位下の位にある蔵人頭であるが、匡積が出会った時は式部省の職にあった。匡積の元服後に得た職掌は式部省のものであったが故に、その縁で博嘉には随分と世話になった。
右も左もわからぬ匡積を、上手く導いてくれた事には感謝している。併せて、従順に着いていく弟分に、面倒な雑務を押し付ける要領のよさには感動もしたものだ。
博嘉の氏は橘で、彼は橘の傍流の中でも力のある家の子息だった。橘の本流は、現在内大臣を務める橘宗隆であり、宗隆は博嘉の大伯父である。
それ故に、彼の周りには、妬みや嫉み、僻みといった負の感情に加えて、羨望、憧憬、賞賛といった正の感情も、常に蔦葛のように絡みついていた。
それについて博嘉は、無粋であるとして一笑に付していたものである。
人の感情から起こる物怪や怪異というものに対して、博嘉は相手にしていなかった。不確かなものの裏に隠れる生きた人間の悪意の方が怖い、と良く笑っていたのを覚えている。
そんな男が、わざわざ好んで鬼火の話を持ち出してくるだろうか。しかも、匡積がその手の話には関心が薄いと知っているにも拘らず、である。
――博嘉は、鬼火の噂話をしたかったのではない。
そう考えると、俄然腑に落ちた。あれは怪異の裏の現実を注視せよとの忠告である。
「典薬寮で鬼火……」
薬司での怪異の話は、確かにあまり良くない噂である。それでも、匡積にはそれが凶事には感じられなかった。どちらかと言えば、何かが変わる――それも良い方へ――そんな気がしている。
直観、というものをあまり信用していない匡積にしては、珍しいことであった。自分でもそれを自覚して小さく笑う。笑いながら、脳裏に白い影がちらついているのを感じる。
あの醴をくれた白銀の庵主――明雪は、確か医学の心得があると言っていた。身のこなしを見るに、ある程度の礼節を習った、位階を持つものと推定される。さすれば、典薬寮にもかかわりがあるのではなかろうか。
そう思うと同時に、匡積は立ち上がっていた。
「助殿、どちらに」
部屋を出ようとする匡積に、図書寮の下級官人が声をかける。
「暫し留守にする」
久しくなかった衝動的な思いに駆られ、匡積は行き先も用件も告げずに図書寮を後にした。




