5.山科
匡積が四条の邸宅に戻ったのは、陽が沈む少し前だった。
大急ぎで従者を着替えさせ、牛車は軽く泥を落とす。そうしてから、牛飼いと従者に、草庵の立ち寄りについては黙っておくようにと命じた。言い訳として、道のぬかるみに嵌った話をするように言い含めることも忘れなかった。尤も、これは事実であるから、正しく報告するのが筋だろう。多少、言い忘れることがあるだけだ。
労いだと言って夏茱萸を渡して牛車を見送ると、匡積は西の対屋へと足を運ぶ。母屋から渡殿を介して繋がる西の建物は、現在、年の離れた下の妹の部屋があった。
「絢子、ちょっといいか」
妹の部屋の前まで来ると、御帳越しに一声かける。すぐに返事があったので、匡積は一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい、兄様。どうなさったの?」
「……その前に、だ。絢子、もう少し、書はまとめておきなさい」
部屋の中を一瞥した匡積は、盛大な溜息を吐き、肩を落とす。それに対して、妹の絢子は不思議そうに首を傾げた。
室内には、所狭しと書が散らばっている。糸でとじられた冊子はもちろんのこと、巻物は一巻の半分ほどが巻かれずに広がりっぱなしで、それが何本も四方八方に転がっていた。
「夢中になることは良いことだが、節度を持って取り組みなさい」
言いながら、散らかった書物を匡積は片づけていく。絢子は、少しばかり不服そうにしつつも、悪いとは思っているのだろう、同じように手元の巻物を手繰り寄せる。
ふと、匡積の手が止まる。
「これは……論語?」
お前が読むのか、と匡積が驚いたように問うと、絢子はバツの悪そうな顔をした後、静かにうなずいた。
「読めたのか?」
「少しだけ……」
弱弱しい声で絢子が答えると、匡積は感心したように、そうか、とだけ答えた。
「読めたのか……」
独り言のようにつぶやく匡積に、絢子は呆れたように返す。
「兄様が教えてくれたのでしょう。忘れたの?」
言われて思わず匡積は目を丸くする。自分が? 絢子に?
そう言われてみれば、そうかもしれない、とうっすらとした記憶が脳内に呼び起こされる。一時、何かの戯れで基礎教養だと言って漢文を教えた気がする。
そう答えると、妹は、駄目なものを見るような目で兄を見上げ、深い溜息を吐いた。
「女性に漢文は不要だし、ましてや論語など今時読みかわす家など少ないというのに、十になるかならないかの子供に教えるのだから……後からそのことを山科に聞いて、呆れたものよ」
改めて言われると、自分の行動のおかしさが良くわかる。ちょうどその頃は心身ともに疲弊していた時期ではあるが、それにしても、妹に対して適切ではないだろう。後悔と反省が押し寄せる。
「申し訳ない……」
「別に謝ってほしいわけじゃないわ。兄様が大変だったのは、今ではよくわかるもの。だから、山科だって、兄様に何も言わなかったでしょう?」
言われて初めて匡積は気が付いた。そう言われてみればそうなのだ。十年近くたってそれに気付くあたり、我ながら情けないものである。
巻物を積み上げながら、匡積は深い深い溜め息を吐いた。
それを見て、妹も兄とよく似た溜め息を吐きだす。
「それで、その山科は今どこに」
匡積は、情けなさをごまかす様にそう口にする。
山科は、絢子と上の妹である典子の身の回りの世話を引き受けてくれた女房である。家が困窮した時期にも、文句ひとつ言わずに妹達の世話をしてくれた女で、そろそろ年の頃は三十も半ばを過ぎるくらいだろうか。何というか、手弱女というよりは益良雄という印象の強い女だ。その印象は、つい今し方の妹の発言で、さらに強固となった。
「さあ? 樋殿じゃない?」
「お前ね……」
妹の恥じらいのない言葉に、匡積は頭が痛くなった。しかし、当の本人はそんなことは気にせず、片づけたはずの書を開きながら兄に言う。
「今更、山科に礼や謝罪は不要だと思うわよ。必要であるなら、山科自身が求めていたでしょうし。もっとも、うちの山科はそんな軟弱ではないのは、兄様もご存じでしょう?」
すっぱりと言い切る妹が、いつになく頼もしく思える。気づかぬうちに、成長していたらしい。――成長の方向性が、女房である山科に似てきている気がするが。
それでも、彼女の言うとおりだと、匡積は思った。思うと同時に、改めて山科への感謝の念が沸き上がってくるのも、道理であると思った。
「それで」
軽い咳払いの後、妹が言う。
「兄様は何をしにいらしたの?」
問われて、匡積は一瞬呆けた。手にした書を落としそうになり、慌てて掴み直す。
何をしに? ああ、そうだ――
何度か己の中で問い返し、漸く目的を思い出すと、掴んだ書を整えながら絢子に尋ねる。
「お前、香の道具を知らないか?」
「なあに? 誰かおいでになるの?」
今し方帰ってきたと思ったのに、と訝し気に問い返す妹の視線が剣呑になった。匡積は慌てて否定する。
「違う違う。練香の道具だ。……香を、練ろうと思って」
目的を告げる言葉が、尻すぼみになる。何となく、気恥ずかしい気がした。
「あら、珍しい。兄様がそんなことを言うのはいつぶりかしら」
目線を斜め上にやりながら、絢子は首をかしげる。しかしどうも思い当たらないらしく、次第に眉間にしわが寄りだした。首の傾きも深くなっていく。
そんな妹が可愛らしくて、匡積は思わず吹き出してしまう。
漏れ出たのは僅かな音だったはずだが、妹は気づいたらしい。兄様、と少しばかり頬を膨らませて匡積を睨んだ。
匡積は咳ばらいを一つする。
「これは失敬」
「別にいいけれど」
匡積の謝罪は問題なく受け入れられたらしい。絢子はそう返すと、先ほどとは反対に首をかしげながら
「香なんて、私、碌に覚えていないから触らないし、そもそも家で香を練るのは兄様くらいではなかったかしら……」
そう言われて、匡積はやや目を丸くする。
「お前たちに教えなかったか?」
私が教えずとも山科がいただろう、と匡積が言うと、絢子は少し難しげな顔をして呻いた。
「……教わったかもしれないけど、覚えてない」
「論語は覚えていたのに?」
「うるさい」
匡積の問いがからかいを含むものだとわかったのだろう。ぴしゃりと撥ねるような妹の返答に、思わず笑みがこぼれる。
そんな兄を見て、絢子は面白くなさそうに顔をしかめたが、口元はほんのりと弧を描いていた。
「何はともあれ、私には全く見当がつかないわ。山科なら……あら」
咳払いをした絢子が、その名を口にした丁度その時、こちらへと向かってくる女の姿が見えた。やや大柄な姿勢の良いその女こそが、噂の山科だった。
「山科、ちょうどいいところに来たわ」
声が届くか届かないかのところで、絢子が声を張る。それを聞いた山科は、眉根を寄せて、少しばかり足早に二人の元へやってきた。
「おかえりなさいませ、若君」
二人の元につくなり、山科は匡積へ挨拶する。それに頷きを返しながら、匡積は小さく苦笑した。
山科は匡積を若君と呼ぶ。それは父が死んで、匡積が元服してから随分経った今でも、だ。恐らく、匡積が妻を迎えるまでそう呼ぶのだろうな、と匡積は達観している。
「ねえ、山科。練香の道具ってどこにあったかしら」
「練香……姫様が練られるのですか?」
絢子が尋ねると、純粋に困惑した顔で山科が訊き返す。
「違うわ。兄様が練るのよ」
訂正すると、山科は納得したようにうなずいてから、じ、と匡積を見た。
その目の奥に、何かを探るような色が見えて、匡積は思わず息を呑む。
「左様でございますか。それでしたらば、すぐに用意いたします。が」
一旦言葉を区切り、ずい、と山科が匡積の目の前に来る。下から覗き込まれた匡積は、たじろいで二、三歩下がった。
「香は明日になさいませ、匡積様」
その言葉に、思わず匡積の喉が小さく鳴る。
匡積はその理由を問おうとしたが、口が開くだけで声は出なかった。
匡積の代りに絢子が問う。
「山科、何かあったの?」
少しばかり不安そうな声を出す絢子に、山科は即座に否定の言葉を返した。
「いいえ、何もございません」
「では」
何故か、と匡積は問おうとして、しかしそれよりも早く山科が言った。
「随分と顔に疲れが出ておりますよ」
珍しいですね、と付け加えて、山科は呆れたように溜息を吐く。
「取り繕う余裕もないほどお疲れなのか、ご自宅であるが故の無防備なお顔なのかわかりませんが、もう少しましなお顔になってから香を練ってくださいませ」
「……それほど酷い顔をしているか?」
山科の言い様に、心持ち不安になる。髭のないつるりとした顎を擦りながら匡積が言うと、山科は少しだけ困ったような顔をした。
「酷いか酷くないか、と言えば、それほど酷くはございません」
そう言ってから、益良雄的な女房は、珍しくもゆるりと笑った。
「けれど、とても眠そうでございますよ。そんな顔を見せられるのは珍しいこと」
昔が思い出されます、と山科は言う。
山科は元々、母の知り合いの娘だった。縁故が薄いゆえに宮中に出仕は叶わず、けれど教養のある才媛だったので、母が娘である妹達の女房にと願ったのである。女房となる前より母と交流のあった山科は、どこかで幼い匡積のことも見ていたのだろうか。時折屋敷に訪れた、母と楽しそうに話をしていた若い娘は、もしかしたら山科だったのかもしれない。
山科が過去をあまり話さないので、匡積も今まで聞かなかった。だが、本当は、もっと聞けばよかったのではないのだろうか――
「若君」
短く呼ばれて、匡積ははっとする。難しい顔でこちらを見てくる山科の目の奥に、心配の色が浮かんでいるのが見て取れた。
妙にこそばゆい心持がして、誤魔化す様に咳払いをする。
「あ、ああ。そうだな、今日はもう休むとしよう。香は明日にする」
言外に、明日までの用意を頼むと、山科は心得た様にゆっくりと頷きを返す。よくできた女房だ。
「兄様、あまり無理はなさらないでね」
そう告げる絢子の声は、心配する色が半分、興味も失せた社交辞令的な色が半分だった。山科に倣って、たくましく成長しているようで何よりである。
妹の成長は喜ばしいが、手を離れていくのが何となく物寂しい気もする。
それでも確かな家族の情が傍らにあるのを感じ、匡積は少し早い就寝の準備へと向かうのだった。




