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白澤の書付  作者: 堂前千代
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3.醴

 牛車は二条にある大輔(たいふ)の屋敷を出てから、大路を四条にある匡積の屋敷へと下っていく。何度も往復した道である。車の揺れだけで、大体の進み具合が分かるようになっていた。


 三条に差し掛かろうかという頃、牛車が動きを止めた。


「どうした」


 中から静かに問うと、この先の道が通行不可になっているという。どうも、昨日までの長雨の影響で道が道としての機能を失っているようだった。


 迂回路を教えてもらったのでそちらを歩きます、と答える従者に、気をつけて歩くように伝える。今日付いているのは、いつも付いている匡積の、あの大柄のわりに小心な男ではなく、式部大輔から借り受けた式部大輔の家のものだ。我が家の従者より落ち着いているだろうが、慣れぬ道である。気をつけるに越したことはない。


 牛車が方向を変えて動き出す。右に、左に、と四条に下るというよりは、どちらかと言うと三条内を動き回るような進み方だ。

 戻りが少し遅れそうだ、と匡積が思ったその瞬間である。


 がたり、と車が大きな音と共に傾いだ。


 咄嗟に衣の入った包を手繰り寄せ、左手をつき身体を支える。多少体勢を崩したものの、無様に転ぶことも車から飛び出すこともなかった。そのことに安堵の息を吐くとほぼ同時に、従者の慌てた声が聞こえ、次いで鈍い水音が響く。


「なにか」


 あったのか、と焦りながら牛車から顔を出したところ、白い指貫の大半を黄土色で染め上げ、萌黄の狩衣の裾に同色の水玉を描いた従者が、座りこけていた。


 気をつけろ、とはいったものの、思ったよりも深いぬかるみであったのだろう。車が嵌るのと合わせて、従者も転んでしまったようであった。

 匡積は少し思案した後、車を降りる。成程、思ったよりも深い穴に落ちたようだ。幸いにも車は壊れていないが、車輪を含めた下部が酷く汚れている。従者もまた、そのまま歩かせるには忍びないほど、汚れていた。


 つい、と空を見上げる。


 今日は朝から晴れている。ここしばらくは雨が降ることが多く、雨が止んでも薄曇りの日が続いていた。久々の陽の光は、桜の咲いていた頃よりも少しだけ強く、熱を帯びている。この分なら、すぐに乾くだろう。後日床に臥すことにはなるまい。


 とはいえ、せめてもう少し泥を落とした方が良いだろう。そう考えてどこかで真水を借りられないかと、匡積はあたりを見回す。


 見回して、匡積は閉口した。


 いったいどこをどうやって通ってきたのか、随分と閑散とした場所である。ところどころに家があるものの、家人がいるかどうかは怪しい。

 ふと、鼻を水の匂いがくすぐった。川が近いのだろうか。さすれば、三条の東の際といった辺りか。


 川で泥を落とそうか、と考えた時だった。

 視界の端に、見覚えのある巨木の影を、匡積は捉えた。


 瞬間、匡積の脳裏に白銀がよぎる。


「牛の者、少しこちらで待たれよ。……そなたは私と共に来なさい」


 張りのある落ち着いた声が響く。匡積が従者を見遣ると、従者は驚いたように目を丸くして匡積を見ていた。


 匡積としても驚いている。従者が驚いたことに、ではない。自分がいま発した言葉に、である。しかしそれを表に出すことは、匡積の貴族たる矜持が防いだ。

 従者が起き上がるのに気づくと、匡積は頷きを返し先を歩く。先を歩きながら、いましがたの自分の言葉について反芻する。


 らしくなかった、と思う。全くらしくなかった。

 先ほど見えた巨木が、先日の雨を凌いだ巨木とは限らないのに、気づけばそこに向かうことを決めた自分がいた。さらには、たとえ合っていたとして、あの白銀の庵主が草庵にいるとは限らないのだ。

 そうは思うものの、しかし、匡積はそれはあり得ないだろうと予感もしていた。あの庵主はいる。確実にいる。

 そう思う匡積には、それが予感であるか願いであるか、判別がつかなかった。


 結論から言えば、その人はいた。


「おや、これはこれは。また面妖なものを連れておりますな」


 庵の前で何やら作業をしていた人物が、匡積を見てそういう。面妖なもの、というのは汚れた従者のことであろう。が――


「……面妖と言うならば、そちらの方が面妖に思いますが」


 匡積は眉根を寄せて、困惑気味にそう言った。というのも、目の前の人物は、声を聴くだけならばあの白銀の庵主のものであったが、見た目が以前のそれではなかった。

 今、匡積の前にいたのは、黒い垂衣をつけた市女笠をかぶり、黒い狩衣姿で、洗濯したのであろう生成りの布を干す、全く何者かわからないものであった。


「確かに。それもそうでございますな」


 竹で作られた柵に布を掛けていきながら、庵主と思しきものが笑う。


「して、水と衣をご所望かな」


 やはり、と匡積は思った。前回の紺の布で包んだ書の存在を看破したときもそうであったが、よく観ている。

 匡積が「そうだ」と頷くと、黒い庵主はその笠に下がる黒い垂布を、つい、と除けた。


 黒布の奥に、浮かび上がる白が見えた。白銀の髪、白皙の肌、冬の月のような静かな目がこちらに向いている。

 まるで、笠の中だけ夜のようだった。


 こくり、と匡積は生唾を飲み込む。黒の中の白い庵主は、薄く笑むと、


「どうぞこちらへ」


 そう言って、庵の中に入っていった。




 庵の中は、先日とそれほど変わらず薄暗かった。


 唯一の違いと言えば、申し訳程度の連子窓から格子を通して細い光が差し込んでいることくらいであった。陽の光が苦手だといっていたから、必要最低限の明かりということだろうか。

 けれども、その白い明かりが幾筋か差し込むことで、余計に周囲の暗さが際立っている気がした。


 従者は、外の井戸で水を借りている。新たな狩衣と指貫をも借りることになった。確かに、あの姿であの網代車の隣を歩かせるにはいかないだろう。尤も、こちらで借りた狩衣で式部大輔の下へ戻すわけにもいかないであろうから、四条の屋敷に着いたらもう一度着替えてもらう必要がある。


 全く面倒なことだ。大輔への言い訳を考えつつ、匡積は深くため息を吐く。


「おや、お疲れですかな」


 従者に衣を渡し終えた庵主が戻ってきた。陽の光を背にした黒い存在に、心持ちぞっとするものがある。


 後ろ手に戸を閉めた庵主が、盛大な溜息と共に笠を脱ぐ。黒い狩衣姿ではあるが、白銀の髪が見えたことでそれが先日の白い庵主であるとわかる。そこで漸く、匡積は安堵したようにゆるゆると息を吐き出した。


「いえ、大丈夫。気遣いは無用です」


 張りのない緩い声音が響く。匡積が目頭を押さえながらそう言うと、庵主は眉根を寄せて、じっと匡積を見た。


「眠れていますか」


 庵主が問う。その声は、これまでのからかうような掴み所のない声とは違い、堅さのある真摯な声だった。


 その言葉に、匡積はどきりとする。


 匡積は上手に眠る。必要なときは何処でも寝られるし、必要なときは何時でも起きられる。睡眠に関しては、器用な方だと自負している。

 だがその睡眠法は、自ら生みだし身につけたものだ。後天的なものである。


 匡積は、眠るのが不得手だった。

 尤も、それは生来のものではない。子供のころは比較的良く寝ていたと記憶している。上手くいかなくなったのは、母が床に臥した頃からであった。

 そして決定的だったのが、父が匡積を母と見間違えた事である。

 以降、眠れないのを無理矢理寝ている。何処でも寝られるのは、その副産物であった。


「四条殿」


 呼ばれてはっとする。思考に耽って居たらしい。


「何故……」


「外の従者が、そう呼んでおりました故に」


「成程」


 納得した匡積がそう呟くと、あからさまな溜め息が耳に届いた。

 思わず怒りを孕んだ声音で「何か」と問うと、庵主はゆるりと首を振り、柔らかな声で告げた。


「薬をお持ちします。少し待っていなさい」


 その声が、棗をくれた頃の父を彷彿とさせ、匡積は息をのむ。

 遠ざかる庵主の背を見ながら、泣きそうになるのをなんとか堪えた。


 庵主の薬は甘い香りがした。


 薄暗い中で感じる手の中の温もりが、優しさそのもののように思える。

 匡積が甘い香りを堪能していると、


「さっさとお飲みなさい」


 薬をくれた庵主はにべもなく言い放った。


「これは……」

「ただの(あまざけ)です。もう受け取ったのだから、つべこべ言わず飲みなさい」


 毒なぞ入れてませんよ、と溜め息混じりに庵主は言う。


 別に匡積は毒の心配をしているわけではなかったのだが、確かにその危険はあったのだと、今更ながらに思った。その事実に小さく笑う。


 そろそろと口元へ椀を運ぶ。気づくと、醴は飲み干していた。


「飲みましたか」


 問われて匡積は頷きを返す。それと同時に、ぶわり、と躯の中を熱が駆け回るのを感じた。

 ここで漸く、自分は疲れていたのだと匡積は実感する。酷く躯が重い。頷きは返せるが、声を発することが億劫に思えた。


 庵主はそんな匡積の手から空の椀を取り上げ、そ、と顔を覗き込む。反応が遅れた匡積が目を見開くのと、庵主の顔が離れるのはほぼ同時だった。


「顔色は少し戻りましたね。しかし、今日は早く休んだ方がいい」


「……貴方は、……」


 言いかけて首を振る匡積に、白銀の人は首を傾げる。それを見て、匡積はゆるゆると息を吐きだし、少しばかり戸惑いを見せながら訊いた。


「医学の、心得が……?」


「一通りは」


 短い返答に、納得だけが残る。

 だから、


「貴方は」


 何者なのですか、と訊こうとして――しかしそれは憚られた。この白銀の隠者はそれを望まないのではないか、己が誰であるかなど考えるのが煩わしいからここにいるのではないか、そう思えたからだ。

 そう思うけれども、それでもまだみやこの中にいるのは、この者の優しさのような気がした。


 問い直そうかと考え、そういえば名乗りもしていない事を思い出す。


「私は」

「そう簡単に名を明かすものではありませんよ」


 名乗ろうとして、しかし止められた。思わず、庵主をまじまじと見る。

 庵主は続ける。


「私が魑魅魍魎(ちみもうりょう)だったらどうするんです」


 そう言って薄く笑う白い庵主は、成程、人ではないのかもしれない。然れども、それがなんだと言うのであろうか。

 匡積にしてみれば、腹の底が読めない公達よりは目の前の魑魅魍魎の方が、よほど心安かった。


 匡積が何をか言う前に、庵主が続ける。


「とは言え、既に私は貴方を知っている。四条殿以外の呼ばれ方も」


「な、ぜ……」


 震える声で匡積は問うが、これには答えはなかった。

 庵主はさらに続ける。


「であるからして、私が名乗らぬ訳にも参りますまい」


 そう言って薄く笑う白銀の存在は、居住まいを正して匡積の前に座して、真っ直ぐに匡積を見た。

 こくり、と自分の喉が小さく鳴ったことを、半拍遅れて匡積は自覚する。名を知れる喜びと、名を受ける恐ろしさとが胸の奥で蜷局を巻くのを感じた。


「明雪、と申します」


 低いがよく通る声で、その白い男は名乗った。

 めいせつ、と匡積が呟くと、庵主は、明るい雪と書いて明雪めいせつです、と言った。


 「明雪……殿」


 再度匡積が呟くと、今度はただ頷きだけが返された。


 明雪、と口の中だけで匡積はその名を転がす。そうして、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すと、三度目にして漸く、目の前の男が明雪という名を持つ者であると腑に落ちた。


 同時に、それ以外の名があるとは思えないほどに、その名がしっくりとくるように思えた。雪の降る夜は、昼のように明るいものだと、匡積は知っている。月が出ていればなおのことだ、と冷えた月のような明雪の瞳を見ながら匡積は思った。


「四条殿」


 戸口から従者が匡積を呼ぶ。着替えが終わったらしい。それに気づいた明雪が、す、と部屋の奥へ下がった。


 匡積の視線が明雪を追う。


「今日はもう帰られたが宜しかろう。戻って早く休まれよ」


 そう言う明雪が、今は酷く暗く見える。黒い狩衣の所為であろうか、室内の暗さと同化していた。


「……」


 彼の言う通りであると、匡積もわかっている。わかっているのだが、しかし、どういうわけだか、何とは無しに立ち去りがたい気がした。


 そんな匡積に気がついたのか、明雪が低く笑う。


「前の通りを南に進み、一つ目の角を右に曲がり、その後二つ目の角を左に曲がりなさい。さすれば大路に出ましょう」


 酷く具体的な指示に、匡積は思わず面食らう。然し直ぐに、これが次回の布石であることに気がついた。

 言われた道順を逆に辿れば、明雪の元に来ることができる──


 成程、これは面白い。


 再会への予感に興味が沸き上がる。同時に感じた喜びについては、あまり深く考えない方が良い気がした。


「世話に、なりました。いずれ、また」


 匡積は背筋を伸ばし、そう告げる。明雪からの返答は、耳には届かなかったが、その場の空気がわずかに揺れた気がした。



 

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