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白澤の書付  作者: 堂前千代
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2.匡積の過ち

 匡積に父母は居ない。

 否、居るには居たのだが、とうの昔、匡積が元服する前に死んでしまった。


 匡積の母は一人娘だった。臣籍降下した親王を祖父に持つ母は、父親である匡積の祖父よりも早く、自らの結婚相手を見つけていた。それが匡積の父だった。


 父は可もなく不可もない中級貴族の家の出だったという。祖父はその地位の低さに渋ったようだが、結局は娘である母に説き伏せられて認めたらしい。

 だからだろうか、匡積の家では祖父が一番偉く、静かな父は穏やかな顔でいつも祖父に従っていた。


 匡積の教育は、祖父が行った。三歳ごろより、漢文、歴史、和歌、礼儀作法を始め、儒学や人との関わり方など、貴族社会で生きていくに必要なことを一つずつ教わった。

 それに対し、父は何も言わなかった。祖父の教育に口を挟むことなど考えもしなかったのだろう。ただ、時折、休日の父の下へ行けば、棗だ蜜柑だと食べさせてくれた。膝の上で昼寝もさせてくれた。匡積にとっての父とは、そういう存在だった。


 一度、祖父に父のことをどう思っているか、匡積は訊いたことがある。

 匡積は父が嫌いではなかったし、どちらかと言えば好きであった。けれども、彼が他の家の父とは異なるものであるとは、幼心に重々分かっていた。


「あれは、あれで良いのだ」


 祖父は短くそう言い、小さく笑った。どうしようもない愛しいものを見るような顔で、笑ったのだ。


 祖父に言わせると、匡積の父とは稀有な存在だったらしい。

 欲がないわけではない、と祖父は言う。格上の家の娘を妻にと望むくらいであるから、それはそうなのだろう。実際、匡積も父と遊ぶときに、頼まれごとをよくしたものだ。

 けれどもその欲は全て相手の為の欲なのだ、と祖父は呆れたように言っていた。


「あれは鏡よ。あれを除くと、己の全てが見えてしまう」


 儂には真似できぬ、と嘆息交じりに呟く祖父が敗者のように見えたのは、後にも先にも、この一回きりだった。


 そんな祖父も、匡積が十三の時、宴席中にあっけなく死んでしまった。

 祖父の死から一年も経たずに、今度は母が床に伏し、そのまま儚くなった。年の離れた妹達は不安定になり、匡積はその傍を片時も離れることができなくなった。結果として、十四になり元服を考えていた頃だったが、それどころではないと延期になった。


 母恋しで日がな泣き通しの妹達を、付き切りで面倒を見たのは匡積だった。親類縁者はもとより多くない。祖父から個人的に教えを受けていた公達が見舞ったりしたこともあったが、家の内部にまで介入してくるようなお人好しは皆無だった。この時から、匡積は少し他人を頼ることが苦手だ。


 そして父であるが、父は、有り体に言って――狂った。


 母が父を好きなのは知っていた。父も母が好きなのも知っていた。父母はその力関係こそ不明ではあったが、互いに好いていたし、そこには確かに情があった。

 けれども、匡積は、父の母に対する思慕を測りかねていたらしい。


 母の死後、父の起床時刻は遅く、起きても心ここにあらずと言った風情で、一日中物思いに耽ることが多くなった。母の着物を抱いて離さない父は、妹達よりも幼く見えた。


 父が公務に出ないので、必然的に、匡積の家は困窮した。多少の蓄えはあったが、それでも家は次第に荒れ果てていく。


 匡積の元服話は、掻き消えていた。


 この時ほど、天を呪ったことはないと、匡積は断言できる。元服さえしていれば、多少の無理をしてでも、父も妹達も少なくなった下人達も匡積が救えただろうと、今でも事あるごとに思わずにはいられない。


 けれども、事実元服していなかった匡積は、ただ妹たちの母代わりであることしか出来なかった。


 そして決定的な事が起きる。


 その日は、熱い夏の盛りだった。匡積は残っていた母の着物を整理していた。

 碌に手入れできていなかったが、やはり母の形見だ。できればそのままの形で手元に置いておきたい。いずれは妹たちの衣装になるのも良いだろう。

 そう思いながら、一枚一枚に風を通し、埃を拭っていた時だった。


 それは、一瞬だった。

 魔が差した、としか言いようのない瞬間だった。


 手にした着物の一枚に、匡積は袖を通した。そうすれば、母を近くに感じられるのではないかという、どうしようもなく稚拙な、子供じみた考えだった。

 結論から言えば、それはすべきではなかった。あれは、己の未熟な魂が招いた結果だと、匡積は思っている。


 袖を通した着物からは、ほんのわずかだが、母の匂いがする気がした。

 そしてそれはおそらく気のせいだとも、わかっていた。すでに死後一年以上たった衣から、その人の香りがするなどということはあり得ない。それに、母に抱かれたのももう何年も前だ。祖父に師事してから、そして妹が生まれてから、母に抱きついた記憶も抱かれた記憶もない。


 それでも、いつかの、遠いいつかの日には、匡積も母に抱かれていたはずなのだ。父の膝の上で昼寝をしたように、母の腕の中で昼寝をしたはずなのだ。

 だから、匡積が思い出せなくとも、今、母の着物に包まれているこの今において、いつかあったであろう日を懐かしむのは当たり前のことなのだ。


 そう、匡積が自分に言い聞かせていた時だった。


「匡積?」


 背後にある廊下から、父の声が聞こえた。

 瞬間、酷い後悔が押し寄せる。

 鼓動が早まり、息が上がる。顔が熱い。何と答えるべきか。それとも今すぐ脱いでしまうのが良いだろうか。


 そう考えながらも、身体はピクリとも動かない。


「……匡積」


 父が確信したように自分を呼ぶ。少し笑っていらっしゃるのか――

 それならば、と振り向いた後のことは、正直よく覚えていない。自分が何と言って父の方を見たのだったか、父はどのような顔で匡積を見ていたのだったか、記憶からすっぽりと抜け落ちている。

 覚えているのは、ただ一言――。


「ッ……燈子ッ」


 次の瞬間、何かがぶつかってきたのだけがわかった。それが父だとわかったのは、父が母の着物ごと自分を抱きしめて、母の名を繰り返し呼ぶのを匡積の頭が理解した時だった。


「燈子……、ああ、燈子」


 涙声で母の名を呼び続ける父を前に、匡積は己の失敗を悟った。

 自分がどちらかと言えば母に似ていることは理解していた。先日、兄さまの目は母さまに似ていてずるい、と父親によく似た優しい目元を持つ上の妹が、匡積に言ったのだ。

 お前の目も大層かわいらしいよ、というと、それでは意味がない、と妹は膨れた。自分の目が母に似ていたのなら、鏡の前でいつも母に会えるのに、とぼやいたのだ。

 それを聞いてから、匡積は己の顔を鏡で見てみた。

 元服前で顔の横に長いみずらが下がっていたからかもしれない。

 そこには確かに、若い母がいた――


「燈子、燈子……」


 飽きもせず、父は匡積を抱いて母の名を呼んでいた。

 父の手が、背から頭の方へと昇ってくる。首をなぜられ、反射的に大きく震えた。髪の中に手を入れられ、掻きまわされる度、頭皮が攣る。


「ち、……ち、うえ……」


 震える声で、願うように父を呼ぶ。

 けれど父は気づかない。泪と鼻をすすりながら、無精髭の伸びた顔を、滑らかな匡積の頬へ寄せてくる。


「……父上ッ!」


 咄嗟に叫んだ。ついで、勢いを持って父親を突き飛ばす。元服の儀を行っていないとはいえ、すでに十五を過ぎた匡積には男子たる所以の力強さがあった。

 それほど大きい方ではない匡積の父は、匡積の力に推し負けたようで、人ひとり分、後方へ飛んでいた。


「あ。も、申し訳……」


 事の次第を認識し、匡積は父を助け起こそうと手を伸ばす。が、その手は父の手によって弾かれてしまった。

 沈黙が横たわる。外では、延々と蝉が鳴いていた。


 匡積は硬直する。頭が理解を拒んだかのように、目に映る像は何の意味もなさない。いつもなら推察できる解決策が、一向に見えない。

 とんでもない間違いを犯したことだけはわかっていた。でも実際何が間違いだったのかは、何もわかっていなかった。


 呆然と乱れた髪と衣服でただただ父を見ていると、ようやく父が動いた。


「すまなかった」


 顔を俯けたまま、こちらを見ようともせず立ち上がった父が、低くかすれた声でつぶやく。そしてそのまま、匡積の返答を聞くことなく、その場を立ち去って行った。


 以降、匡積は父と顔を合わせることはなかった。

 父も匡積を避けていたし、匡積もまた、父を避けていた。

 父は公務に復帰し、今までの分を取り戻すかのように精力的に働いた。

 家を留守にすることが増え、邸宅には子供三人だけの日が続いた。


 やがて、祖父のかつての教え子が、父の代りに面倒を見てくれるようになった。

 その人は、父に頼まれたのだと、笑って言った。今思えば、本当かどうか怪しいところだが、当時はそれでも、父が気にかけてくれたようで安心したのを覚えている。


 家に家族以外が出入りするようになってほどなくして、父が倒れた。

 看病にあたった――主に妹が、であるが――が、それほど経たずに母の下へ旅立っていった。


 そして匡積は後ろ盾をなくした。


 それでも、匡積は祖父や母が死んだ時よりは、心持が穏やかだった。そしてそのことが、匡積を酷く責め立てもした。


 しかしなにより匡積の頭を悩ませたのは、家のことだった。まだ幼い二人の妹と、元服もしていない匡積だけでは到底生きてはいけない。かと言って、頼れるほどの力のある親類縁者は皆無だった。

 あの時ほど、父の生まれを恨んだことはない。


 結局、匡積と妹達を救ってくれたのは、不在がちな父の代りによく出入りしていた男だった。匡積たちは、その男を立浪(たつなみ)と呼んでいた。男は官位も職位も何も教えてくれなかったが、唯一、立浪という名だけは教えてくれていたのだ。

 よもやそれが偽名などとは、思ってもみなかった。


「……あの方の遊び心は度が過ぎる」


 慣れぬ牛車の内部で、壁に施された立浪の意匠を眺めながら、誰ともなしに匡積は呟く。牛車の窓から吹き込む初夏の風が、かすかな熱と湿気を帯びて、匡積の頬をなでた。

 匡積は現在、従五位上の中級貴族として仕官している。住まいも手狭になったとはいえ、祖父の代から住んでいる場所にまだ持っている。

 それもこれも、元服時に立浪が後見人として立ってくれたからであるが、まさか立浪が従四位上の式部大輔(しきぶのたいふ)とは思いもしなかった。


 立浪こと式部大輔とは、元服以来、断続的ではあるが、干支が一巡するほどの付き合いがある。今も、珍しい布を手に入れたから見に来い、と誘われたので伺った帰りである。

 正直、匡積は式部大輔が苦手だ。

 確かに、良く匡積と妹達を気にかけてくれるし、小さいけれども回数の多い援助もしてくれる。ただそれが純粋な善意ではないことは、匡積はよく知っていた。


「本当に……些か度が過ぎる……」


 低く、ほぼ息の音だけでそう吐き捨てる。

 匡積が今乗っている牛車は大輔の所有するものだ。匡積に牛車を保有できるほどの財力はない。牛車を貸してくれるのは有難い話だが、その好意に付随するあれやこれが簡単に我慢できるかと言ったら、それは別の話になる。


 深く息を吐きだしながら、傍らにある大きな緋の平包にそっと触れる。


 ――これは、そなたに似合うであろう。当ててみられよ。

 ――ああ、やはり似合う。本当にそなたは母親似だな。美しい。


 二条にある式部大輔の屋敷で、自慢の布を見せられた際の会話は、そんなものだった。大輔が匡積の過ちを聞き知っていることはあり得ないだろう。あれは匡積と父だけが知ることであり、二人とも外部には決して漏らしていないのだから。少なくとも、匡積は今の今までだれ一人として話したことはない。


 帰り慣れた道のはずが、いつもより牛車が揺れているように思う。それがまるで自分の心のようで、口の奥に苦いものを感じた。


 遠い昔の式部大輔が匡積の母を好いていたことを、匡積は知っている。

 男というのは、好きな女の追い求め方は同じものなのかもしれない――そう思うことで、匡積は己の中の不安をなだめるのだった。

誤字報告ありがとうございます!

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