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白澤の書付  作者: 堂前千代
1/8

1.白銀の庵主

 やはり降ってくるか、と匡積(まさづみ)は見上げた。

 夕暮れとは違う暗さが空を覆っている。今の時刻、晴天なれば、まだ空が朱に染まるにも早い頃である。しかし、現在頭上を覆う空は、ひどく重い灰色をしていた。


「今にも降り出しそうでございますな」


 馬を引く従者が、ぽつりとぼやく。肌寒いのであろう、両手を擦り合わせ、次いでその手で自らの肩を抱いた。

 それを馬上より見下ろす匡積にも肌寒さが伝播してきたようで、心なしか首元に冷えを感じる。


みのを積んでるとはいえ、出来れば濡れたくはない。急ごう」


 はやる気持ちを抑えながら、それでもいつもよりはいくばくかの早口で、匡積は告げた。


 日の高いうちに大内裏の図書寮へ戻る算段だったのが、大幅に狂っている。それもあの寺の僧正が花だの香だのと話を長引かせたせいだ。匡積としては、借りた教本を返せたならばそれでよかったのだが、僧正の方はそれだけでは物足りなかったらしい。結局、話し込んだ挙句、借りる予定にない本を借りる羽目になってしまった。書庫の目録には載っていないものであるから、有難いことであるとはわかっているが、また返しに行く手間が必要かと思うと、些か腹のあたりに重いものを感じる。


 尤も、僧正の気持ちがわからないわけでもない。自身の親類縁者の多くを、先の流行病で亡くしたと聞いている。その上、居住地は中心部から離れたひっそりとした寺だ。お寂しいのであろう。匡積が行くと、漢籍だなんだと楽しげな様子で話に誘ってくださる。わざわざ匡積の祖父の話まで持ち出すこともある。

 早くに親を亡くし、親類縁者の少ない匡積としては、気持ちがわかるだけに無下にもできない相手だった。


 鐙を踏む速度を僅かに上げる。手綱を握ったまま小走りでついてくる従者を見失わないようにしつつも、歩は緩めなかった。今は何より雨を避けたい。できれば濡れたくはないし、何より濡らしたくはないのだ。


 しかし、無情にも天には恵まれなかったらしい。従者が立ち止まり、左掌を上に向けた。


「降ってきたか」


 問いかけに従者が答えるよりも早く、匡積の頬に冷たい水が当たる。


「……参ったな」


 率直な思いが口をついて出た。その音が思ったよりも愁いを帯びているような気がして、匡積は一人眉を細める。

 見れば、従者も心許無い様子でこちらを見返してきた。


「いかがいたしましょう」


 弱弱しいことこの上ない声だ。大きな(なり)をしている割に小心者であるこの男は、こうした急な状況の変化に順応できないのだ。従者として頼りにならない男ではあるが、心根が真っ直ぐで裏表がない者であるがゆえに、匡積の精神的負担が少ない。その一点だけで、匡積はこの従者を評価していた。


「そうだな……どこか、雨を凌げる所はあるか見てきてくれ。しばし休もう。この降り方であれば、おそらくそう長くは降らない」


 それほど大きくはない雨粒の落ち方が、急速に早くなってくる。それを指摘し、従者に雨宿りを促すと、従者は「しばしお待ちを」と言い置いて足早に駆けていった。


 小さな雨粒と言えど、数が多ければ塗れそぼるのも早い。前髪から水が滴り、匡積の頬を濡らした。

 懐に抱えた借りた本の存在が、妙に大きく感じられる。


「匡積様」


 ほとんど待たないうちに、頼りない従者はやや安堵の顔をして戻ってきた。

 濡れた手にそっと息を吐きかけながら、急いた口調で報告する。


「あちらに、巨木と、小さな庵があるのを見つけました。人がいるかはわかりませんでしたが、とりあえずは、雨を凌げるかと」


 従者が示した方角をみれば、確かに立派な羽振りの大木と、それから良く言えば趣のある、悪く言えば雑然とした佇まいの庵があった。

 確認し、小さく頷く。


「では、急ごう」


 匡積が言うと、馬が駆けだすより早く従者が駆ける。大きな体が飛んでいくのは、雨の煩わしさに反してなかなか爽快な様子だった。そう言えばいざという時の足は速かったな、と思い出す。


 ほどなくしてたどり着いたのは、やはり手入れされているのかいないのか、よくわからない庵だった。周囲の草はある程度刈られ、適度に整えられているように見える。けれども、庵の壁や扉などには、雨漏りの浸みや虫食いの孔、風や小石でついたのであろう細かな傷や欠けがそのままになっていた。


 庵の軒下に立った頃には、随分と衣が濡れていた。直衣の淡い青緑の袖が濃い色になっている。軽く握ると、じわり、と手の中に水が広がった。幸いにも懐の中にある本は濡れていないようだったが、それも時間の問題であったろう。

 軒下で袖の水を絞りながら、少しばかり離れた巨木の下の従者と馬を見遣る。そろそろ夏に差し掛かる頃であることが幸いしたか、良く茂った若葉がしとどなく落ちる雨から一人と一匹を守っていた。


 知らずのうちに、匡積は安堵のため息を吐く。


 すると――


「浅葱の方、うちに何か御用ですか」


 低い、闇夜のような圧のある声が、匡積の背で響いた。


「!」


 驚き、反射的に身を翻す。

 瞬間、見えたのは白銀だった。


如何(いかが)なされましたかな」


 急な動きをした匡積に対し特に何の感慨もない声音で同じ声が問う。

 匡積は、その声の主を見て、思わず声を失った。


 開かれた庵の扉の向こうのものは、この世の者とは思えない出で立ちをしていた。形こそ人型をとってはいるが、その姿は鬼か妖か――それとも神であるか、そう思わせるものであった。


「おや、声をどこぞに置き忘れてきたとみえる」


 くつり、と喉奥で笑うそれは、何とも妖艶な様であった。

 匡積はそこでようやく、息の仕方を思い出したかのように喉を鳴らして息を吸った。


「あ、ああ……申し訳ない。その、急な雨に会った故、軒先をお借りしておりました」


 一度声を出せば、いつも通りの対応ができたことに匡積は安堵する。そうしてようやく、目の前のその人――人であるとするならばであるが――を落ち着いて見ることができた。


 その人は、この世の誰とも異なる色をしていた。

 白皙の肌に、白銀の髪、髪の隙間から覗く目は、冷えた真冬の夜空に見える月のような色をしていた。

 衣もまた、白い。が、これはどちらかと言えば染める前の布を使っているだけのようで、その簡易な衣服が、その人が持つ白銀の色と不釣り合いに思えた。


「ああ、雨が降っていましたか。これは難儀されましたな。大したお構いもできませんが、少し休んで行かれるがよろしかろう。恐らく、四半刻ほどで落ち着きましょう」


 匡積の言葉に、白の庵主は成程、と頷いたあと、目を細めて匡積を――否、匡積の後ろに広がる外を見ながらそう言った。


 目が悪いのかもしれない、と匡積は思った。図書頭(ずしょのかみ)なども、同じような顔をして書を読んでいることがある。見えますか、と聞いて、なんとか、という心持ち不安になる回答を貰ったのはつい先日のことだ。


 庵主に勧められたままに座すと、つい、ときれいに畳まれた生成り色の布を差し出された。


「濡れたままでは病を招く。お使いなさい」


 声の音色はそっけないものであったが、その内容は随分と優しいものだ。悪い人ではないのかもしれない。匡積は有り難く布を受け取り、先ずは手を、それから顔を拭った。


 自分の直衣についた水を借りた布に粗方吸わせると、懐から藍色の包みを出す。布は、うっすらと湿り気を帯びていた。

 包みを傍らに置き、再び衣についた細部の水滴を拭き取っていく。満足のいくまで拭き取ると、生成りの布地はくったりとしていた。


「そちらは、書ですか」


 匡積が返した布を掴みながら、庵主が問う。視線はたった今傍らに置いた、藍色の平包に向いていた。


「え、ええ。よく、お分かりに……」


「墨と、紙の匂いがいたしましたから。多少鼻は効くのです」


 匂い、との言葉に、匡積は目を見開いた。もちろん、書から墨や紙やそれに付随するかびや埃の匂いがすることは、実体験を持って理解している。けれどそれは、書庫のように複数の――それも相当数の――本を前にして初めてわかるものであって、たった一冊の、それも布でくるまれたものでわかるというのは、驚くべき話だ。


 なんといっていいかわからずに、書と庵主を交互に見る匡積に、濡れた布を干しながら、その白銀の男は言った。


「藤華寺の和尚(わじょう)ですか」

「え」

「貴方にその本を渡した方は藤華寺の和尚ですか、とお聞きしました」


 問われた匡積は、息をのみ固まるより他はなかった。その男が言うように、藤華寺の僧正恵宥(えゆう)から受け取ったものであったからだ。


「なぜ……」


 もはや問いさえ口にするのも難しいほどに、匡積は動揺していた。ただ一言、どうにか振り絞って声に出すも、自分でも驚くほどに、その声はみっともなく震えている。

 すると、白の庵主は初めて面白そうに薄く笑い、目を半月のようにゆがめて匡積の方に顔を向けた。


「何、簡単なことですよ。そも、この辺りには書を持つ家などないに等しいのです。故に書を求めて家々を行き交う人などほぼいません。ですが、周辺の山庵や寺なれば、多少の書はありましょう」


 まるで出来の悪い子弟に言い聞かせるように、庵主は淡々と説明する。その声は相変わらず低いものであったが、まるで石に染み入る水のように、すぅ、と匡積に馴染んだ。

 男は続ける。


「ところで、ここから少し行った先の藤華寺の和尚は、随分と風流な方と有名でしたね。和歌や書で語らうこともお好きで、好書家であらせられるとか。また花にもこだわりがあると聞いております」


 つい、と白の庵主が藍の包を指した。


「その包、和尚のお好きな藤の匂いがいたしますよ」


 匡積の目が限界まで開かれる。小さく震える手で包を引き寄せると、そっと鼻を当てて匂いを嗅ぐ。成程、確かに藤の花のにおいがする。そういえば、寺の藤棚は、見事な花盛りであったと今更ながらに思い出す。

 一番香りの強く感じる部分を手で触れば、何やら柔らかい感触がある。包をそっと開けば、小さな藤が一連、布の間に挟まっていた。


「さすが、趣を分かってらっしゃる方ですね」


 どことなく満足そうに庵主がつぶやく。


「……全く、気づきませんでした」

「おや、物の心を知らぬとは、残念ですなぁ」

「貴方こそ、墨と紙の匂いがどうとか、言っておられたではありませぬか」


 無下であると笑われたことが癪でそう良い返すと、庵主はまるで今はじめて気づいたような顔をしてから、悪戯が成功した童子のように破顔した。


「ああ。あれは、嘘です」


 あっけらかんとした物言いに、匡積は思わず唖然とする。

「嘘」

 ただただ言葉を反芻すると、

「ええ、嘘」

 当たり前のように頷かれてしまった。


「では、なぜ書だと……いえ、ご推察通りではありますが、それでも、あれだけでは別の預かり物や頂き物である可能性もあったでしょう」


 納得できない、とばかりに食い下がると、庵主は顎に手を当てて、ふむ、と考えるそぶりを見せた後、目線を上にあげたまま思いのほか柔らかい声音で言う。


「あの方は、人に書を貸すのがお好きなのですよ。とにかく貸して感想を聞きたいのです。《《私の祖父も》》、よく借りておりました」


「御祖父様も、ですか」

 

 相手の言葉を反芻しながら、ここで初めて、匡積はこの白い庵主が何者であるのかが気になった。

 隠者であろうことは間違いはないのだが、年のころは自分とそう変わらない気がする。白髪ではあるが銀にも光るそれは、年寄りの白髪とは異なるように見えた。壮年と言うには些か若い。

 衣服については染める前の布で、しかも狩衣姿であるから社会的な地位などさっぱりわからない。けれども、祖父が僧正恵宥と知己で書の貸し借りをしていたならば、少なくとも彼の御祖父は一定以上の官位か職位のいずれか、またはその双方にあったということだ。


 けれども、匡積は彼のような孫がいる官人の話にも、子がいる官人の話にも覚えがない。そも、これほど特異な姿なれば、宮中で噂にならぬはずはないのだ。しかし、匡積はそんな噂を知らない。


 もっとも、自分が宮中の噂に疎いことは重々承知している。出仕している上の妹などには、顔を合わせるたびに呆れられているほどだ。


 それでも、このような人物がいれば、良きにつけ悪しきにつけ、日々誰かしらの話題に上るものなのだが――


 そんなことを考えながら庵主を眺めていると、窓の外を見ていた庵主が、がたり、と庵の扉を開けた。


「どうやら、雨が上がったようです。今のうちに戻られるがよろしかろう。途中、降らないとも限りませんが……蓑はお持ちか?」


 淡々と事実だけを述べる声はそっけないが、初めて聞いた時よりは、幾分親しみのあるような響きに思えた。勘違いかもしれないが――そしておそらく勘違いなのだが、この時の匡積はそうであればいいと思った。


「蓑は、馬につけております。着て帰ることといたしましょう」


 忠告をありがたく受け、頷きを持って礼を返す。

 包を持って戸口に立つと、薄曇りの空が見えた。


 まだ灰色の雲が多く残っているが、ところどころに陽が射して見える。この分であれば、強い雨の心配には及ばないであろう。


「庵主殿、大変世話になりました」


 そう言って白い男の姿を探したが、見えない。

 今確かにここにいたはずなのに、と軽く気を動転させつつもあたりを見回すと、戸口より少し奥まったところにいるのが見られた。

 ほ、と安堵の息を漏らす。


「庵主殿」


 問うように声をかけると、奥からまた冷たい響きが下を這って届いた。


「お気に召されまするな。陽の光がやや不得手なもので、距離をとらせていただきました。またいづれお会い出来ましたならば」


 特に何の感情も載せない返事に、不思議と優しさを感じて、自然とほほが緩む。

 匡積は頷いて、


「それでは」


 軽く礼をし、庵を出る。陽の光が必要以上入らないよう、扉はすぐに閉めた。


 巨木の下の従者は、思ったよりのんびりしている。陽の射す空を見ながら、手を挙げて欠伸をしていた。

 全く、暢気なことである。


 見上げた空には、薄い灰色が広がっている。陽の光できらめくそれが、少しだけ、庵主の白銀の髪に重なって見えた。

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