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最終話 休む風のポケット――蝶の停車場と最後の支払い

 風は、鳴らずで休んでいた。

 丘の風鈴は沈黙し、合図の辞書は鞄の内側で薄く温い。AもBもCも呼ばれないとき、場は勝手に呼吸を始める。そこに休む風のポケットができる。翻頁吏が言った“蝶は休む風に寄る”は、予告ではなく手順だったのだ。


「今夜で終わらせよう」

 私はリズとノエル、セレスティアに短く告げた。

 置換は最後のまま。支払いは、公開と反証と担保で足りるだけ足す。蝶は追わない。来るなら来る。来ないなら、来ないまま終える。余白は詩のために残す。



 準備は簡素だった。

 中庭の黒板に二行――〈目的:最後の支払いの公開〉〈定義:鳴らずの地図を置き、置換を切らずに頁を回収〉

 丘には風鈴(鳴動ログ接続済み)、場票(“静寂の占用”)、小瓶(土と泥)、そして共同の封。

 礼拝堂の司祭アウレリウスは、「詩の枕」を一枚だけ携えて見物に回ると言い、翻頁吏は図書塔で待機。監査院は可視鍵を開き、緊急条を点灯だけして指は触れない。白紙にも過剰合意にもならない、ただの終幕の段取り。


 日が沈み、鳴らずの気配が丘を満たす。

 私は支払いを置く。

 〈公開:合図辞書の運用ログ/場委任の失敗と修正/“恋文の無効”で救えなかった一件〉

 〈反証:辞書が檻になり得る条件/場の鍵が利権化する経路〉

〈担保:R-indexの今週の推移(小競り合い0.7倍→0.4倍)、審級十名の署名〉

 最後に自分の敗北を一枚――

 〈昔、私は“好き”で場を焼いた。公開せずに善意で押し通し、詩を灰にした〉

 詩枠優先で一息だけ与えた後、中止の動詞で凍らせた記録も添える。


 鳴らずが続く。

 風鈴は鳴らない。

 鳴らないことが、今日の主役だ。



 司祭が白い袖を撫で、そっと言った。

「余白で終わる勇気が、詩を残す」


「余白は残す」

 私はうなずく。「でも責任は残しっぱなしにしない。公開して共同に置く」


 セレスティアが手短に笑う。「退屈は勝利。今日は退屈に勝とう」


 ノエルが記録札を立てる。「置換不使用宣言、再掲。合図ログ、起動」


 リズは小瓶の蓋を開ける。土、泥、石。浅瀬の気配が胸の内に立ち上がる。幼い頁の走り書き――〈川の石は冷たくて気持ちいい〉〈映る白も蝶だと思っていた〉〈水切り十一回〉。

 私は、その全部を横に縫う。目的の燃料にも、対価にも、飾りにもせず、ただ索引として。


 そのとき、風が一段沈み、鳴らずの底が一瞬だけ深くなる。

 白い影が、丘の端で停まった。

 追わない。

 網を張らない。

 私はただ、可視の三条件を順に通す。視る――翅の縁は不均等。わかる――休むための角度、風に合わせた羽ばたきの最小化。再演――紙片で作った薄い羽根を、同じ角度で風に立て、静止を再現。

 詩は外側で呼吸する。

 好きは胸の横で灯る。

 契約は足元で釘になって、場を崩さない。


 来たかどうか。

 ――来たことにしたい衝動は、鳴るより危険だ。

 私は合図の辞書から一語だけ借りる。鳴らず。

 鳴らずの札を黒板の隅に立て、来た/来ないの二択をやめる。準備完了、持続可。それが今の答えだ。



 図書塔の窓が、遠くでかすかに開く音を立てた。

 翻頁吏が、薄紗の向こうで骨のしおりを一度だけ鳴らす。受領の合図はない。要求もない。

 代わりに、紙が風に合わせて一枚、二枚。頁が一枚。

 紙片:〈休む風のポケット〉〈鳴らずの地図〉

 頁:幼い筆跡で、白い何かの停車図。翅の角度、影の長さ、川の反射の強度、そして隅に小さく――〈**“来ないまま居る”を“来た”と呼ばない〉


 私はそれを共同の封に納め、三つの印で閉じる。帰属は共同保管、利用権は私。詩枠は枠だけ公開、中身は呼吸のまま残す。


「これで、支払いは満了」

 ノエルが乾いた声で言う。「**U(割増)**は消え、**L(公開)/E(反証)/T(担保)**の口は完了。置換の残債なし」


 セレスティアが肩を竦める。「蝶の正体は明かされない。けれど、追い方は残った」


 司祭は袖の蝶を撫でてから、静かに微笑んだ。

「余白は詩。――その言葉を、今日は制度も肯定した」


 リズが小声で囁く。「覚えます。休む風、鳴らずの間、“来ないまま居る”の扱い」


「証人」

 私は答える。「最後の釘は、証人の印だ」



 後処理は短い。

 承認目録には〈可視の三条件+詩枠優先一息〉が正式に追記され、合図の辞書は付録から本文へ昇格。場委任は丘と中庭から学内全域の標準に、場票は教室と食堂へ配布。

 好き条は、対価無効の原則と選好表+反意行の運用で定着した。恋文は参考棚に栞欄ができ、梯子が増えたぶん転落が減った。

 白紙の芽は、二行止血→反証→再演の手順で育たず、過剰合意は合図の前置詞で力を逃がす。

 そして、置換は――最後のままで、最後に切られずに済んだ。


 私は置換の棚に指をかけ、埃を払うだけにした。

 “切れる”は“払ってある”と同義であってほしい。

 未来の誰かが切る必要が来たとき、支払いの手順と公開の道が、もう敷かれているように。



 解散の鐘が一度。

 丘の風鈴は、鳴らずを保ったまま、夜に溶ける。


 最後に黒板へ三行だけ残しておく。


 一、公開は光――失敗の公開は、虚界にも人にも効く。

 二、可視は梯子――見える/わかる/再演できる、の三段。

 三、最後は最後――置換は使わないで届く道を、先に増やす。


 板書の下に、小さな蝶の影だけが止まり、やがて風でほどけた。

 来ないまま居るものを、無理に名付けない。

 居ることが、今日の勝ちだ。


 これで物語は閉じる。余白は残す。

 詩はそこで息をし、辞書はそこで待ち、網はそこで眠らない。

 灯りを落とす。

 鳴らずのまま、終わりにする。

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