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第12話 合図の辞書――“鳴る前”と“鳴った後”の設計

 風鈴は、音の辞書になりたがっていた。

 Aは散開、Bは静かに、Cは乾かす。三語だけでは、場の文章はまだ短い。鳴る前の予告語と、鳴った後の手順語を増やす――それが今日の仕事だ。


「辞書化を始めます」

 私は中庭の黒板に、大きな見出しを書いた。

 〈合図の辞書(初版)〉

 前置詞(鳴る前):〈まもなく〉〈保留〉〈優先〉

 動詞(鳴った後):〈分割〉〈中止〉〈再演〉


 セレスティアは椅子を逆向きにまたぎ、退屈そうな目で楽しそうに眺める。「言葉は楽器。調律は政治」


 灰外套のノエルは、風鈴の縁を指で弾かず、紙だけを弾いた。「網と辞書を連結する。ログに語を記録し、背徳災の前兆に紐づける」


 リズが白墨を持って、前置詞の欄に三行を書き足す。

 〈まもなく=閾値の70%到達/保留=配点が拮抗/優先=担保が積まれた側〉

 ――鳴る前の透明な気配に名前を与える。


「動詞側も詰めます」

 私は**“鳴った後”の手順を三語で定義した。

 〈分割=場の機能を縦か横に割る〉

 〈中止=行為を凍結し、仮文言二行で目的と定義を再掲〉

 〈再演=別素材・別時間・別場所の三別**でやりなおす〉


 風は弱く、Cは鳴らない。辞書は静かな場で作るのがいい。音がないとき、言葉は濃くなる。



 午前の終わり、礼法会がテラスで「練度試験」をやると布告した。A(散開)の閾値ぎりぎり、ひとところに集まる意図が見え見えだ。

 私は先回りで前置詞を掲示する。

 〈まもなくA〉――滞在密度70%。

 〈優先:反意行講座〉――担保(R-index低下の予測値)が積まれている。

 鳴る前に言葉で傾きを見せておく。衝突の勢いが鈍る。


 礼法会の若者が眉を上げる。「鳴ってないのに従うのか?」


「合意の予告は拘束じゃない」

 私は肩をすくめる。「選択の摩擦を下げるだけだ。鳴ったら動詞が起動する」


 言っているそばから、Aが短く鳴った。

 分割が自動起動。テラスは三本の白線で区切られ、連続・断続・静寂の三領域へ滑るように変わる。

 礼法会は連続へ、反意行講座は断続へ。

 中止の札は上がらない。再演の予約だけが、断続側の掲示に小さく貼られた。鳴った後の景色は、整っているほど退屈で、退屈なほど強い。


 セレスティアが笑った。「退屈は勝利の余韻」



 午後、丘。

 C(乾かす)が鳴った直後、B(静かに)が連打された。二重合図は辞書にまだない――誤配線の匂い。

 風鈴の根元を見ると、細い糸が二本だけ長い。誰かが遅延を狙って短くし、別の誰かが過敏を狙って長くした。

 隠し武器は、合図の意味を増やす。

 増えた意味は、白紙の影になる。


「中止」

 私は動詞で場を凍らせ、黒板の簡易版を芝に置く。

 沈黙の反論――四角「二重合図=複合事象」、丸「遅延」、丸「過敏」。

 矢印で過敏を閾値微調整へ、遅延を閾値公開へ流す。

 言葉より先に配線を可視化する。


 ノエルが淡々と告げる。「鈴の鳴動条件を公開。前置詞:保留を掲示」

 セレスティアが風鈴の下に立ち、「再演を予約。三別――別素材(鈴C’)/別時間(夕刻)/別場所(中庭一角)」


 鳴った後の辞書が滑る。過剰合意は起きない。白紙は育たない。

 場は一次関数のように落ち着き、風は二度、ただの風として吹いた。



 夕方、監査院の回廊で小議論。

 辞書を目録にどう載せるか。契約の索引にどう接続するか。

 私は羊皮紙に、短い語釈を連ねる。

 - 〈まもなく〉:閾値70%到達の公開。行為を強制しない予告。

 - 〈保留〉:配点拮抗の表示。拮抗が三連続した場合、分割を自動提案。

 - 〈優先〉:担保累積の指示。優先は一度限り、翌日にはクリア。

 - 〈分割〉:可視の線を置く。線も公開。偏りが出たら移線。

- 〈中止〉:目的/定義の二行を再掲。反意行は一行で良い(速さ優先)。

- 〈再演〉:三別(素材/時間/場所)を揃える。再演前に前置詞:優先を一度だけ載せる。


 ノエルが「可」の印を押す。司祭は黙ったまま袖の蝶を撫で、小さく首を傾げた。

 「詩が鳴る前に止血されることも、あるだろう?」

 問いではなく、予報だ。


「詩は参考。参考は踏み台。踏み台の高さは可変にしておきます」

 セレスティアが代わりに応じ、〈詩枠へ前置詞:優先〉の小条項をさらりと挿入した――詩の呼吸が途切れそうなら、一度だけ優先を与え、中止の前に短い息を許す。



 夜、図書塔。

 支払いの番だ。

 私は〈合図の辞書・初版〉と、その運用ログを束ねた冊子を、翻頁吏へ差し出す。

 最後に、恥ずかしい失敗を一枚。

 〈昔、私は“鳴らすために鳴らした”――合図を権威にして場をねじ伏せ、反発で総崩れした〉

 反証と予防(前置詞の導入)を添える。


 薄紗の向こうで、翻頁吏は骨のしおりを一度だけ鳴らした。「受領」

 紙片が二つ、頁が一枚、落ちる。


 紙片:〈鳴る前の胸騒ぎ〉/〈鳴った後の静けさ〉

 頁:幼い筆で描かれた、水面の波紋の図。中央に小石、同心円が広がり、その外に小さく**×印――〈ここに投げると、魚が逃げる〉

 ――合図の場所と時間**。鳴らすことと鳴ってしまうことの違いを、子どもの私は図で知っていた。


「返還頁、共同保管」

 ノエルが印を押す。私は頁に**“合図辞書”**の索引穴を開け、好き/場/契約の三つと糸で結ぶ。縫い目は、また一つ増えた。



 塔を出たところで、黒い封筒が差し入れられた。無記名。

 中の紙は薄く、墨は濃い。

 〈辞書は檻〉

 〈蝶は辞書を食べない〉

 短い二行。白紙封止の形式を真似ている。

 詩のふりをした煽り。煽りのふりをした詩。


 私は足を止め、二行止血を返す。

 〈目的:辞書で檻を作らない〉

 〈定義:辞書は入口の札。中身は再演で増やす〉

 封筒の口を閉じ、掲示板の隅に貼る。公開は光。光は悪意の筋を細くする。



 翌日。

 辞書を使った初めての緊急が来た。

 講義棟で、B(静かに)が連打。実験室のドアから青い煙。魔材の加熱に失敗したらしい。鐘の代わりに、辞書が先に走る。


 私は走りながら前置詞:優先を掲示した。

 〈優先:換気/退避/記録〉

 動詞は二つ。

 〈中止――加熱を停止。再掲:〈目的=安全/定義=換気優先〉〉

 〈分割――廊下の半面を退避、半面を救護〉

 鳴った後の手順語が、紙ではなく身体を動かす。辞書が筋肉になる。


 煙は三分で引き、白紙の芽は出ない。

 記録を終えたノエルが短く言う。「辞書に〈救護〉を追加。前置詞:保留のとき医療班に連絡」


 セレスティアは咳を一つだけして、口角で笑った。「政治は語彙の筋トレ」



 黄昏。丘にCが一度。

私は紙を出さず、頁を思い出す。波紋と**×印。

 鳴らすことと鳴ってしまうこと**。

 鳴る前の胸騒ぎを、今日は言葉でなく匂いで受け取る。

 小瓶の蓋をわずかに開ける。土。

 左足の泥。

 浅瀬の石。

 風上の静けさ。

 胸の奥で、前置詞が無言で灯る――〈まもなく〉。


 が、鳴らない。

 鳴らないことを、辞書にどう刻む?

 私はカードを取り出し、一語を追加した。

 〈鳴らず〉――閾値未満、準備完了、行為を開始して良い

 鳴る前と鳴らずの中間に、呼吸がある。詩の間に似ている。


 リズが隣で頷いた。「鳴らずの札、好きに効きます。燃料を暴発させない」


「暴発は置換を呼ぶ」

 私は笑う。「最後の手を最後のままにする辞書だ」


 風鈴が一度だけ、遠慮がちにBを鳴らす。

 静かに。

 誰も喋らず、丘の風だけがページの繊維を撫でていく。



 夜半、図書塔。

 翻頁吏は窓辺で薄紗を押さえ、外の風を覗く癖を見せた。

 私は小冊子を差し出す。

 〈合図の辞書・追補〉――鳴らずと救護、前置詞の適用例、二重合図の処理、詩枠優先の運用。

 そして、自分の失敗をまた一枚。

 〈昔、私は“鳴らず”を嘲笑った――備えの退屈に耐えられず、過敏に切り替えて傷を増やした〉


 翻頁吏は骨のしおりで机を一度叩き、「受領」。

 落ちてきた紙片は、今度は白でも黒でもない、薄灰。

 〈風が休む場所〉

 頁はない。場所だけ。

 辞書の最後に必要な語が、静かに置かれた気がした。


「返還は次の口で頁になる」

 翻頁吏が言った。「風は休む。蝶は休む風に寄る」


 私は封を閉じ、深く礼をした。

 辞書は広がる。合意は厚くなる。置換は最後のまま薄く遠のく。

 鳴る前と鳴った後の間に、鳴らずが座った。

 その間で、詩は息をし、政治は眠らず、蝶はまだ来ない――でも、来方が少しわかった。


(第13話「休む風のポケット――“鳴らず”の地図と蝶の停車場」に続く)

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