第1話 劣等寮の召喚と、勝敗を“論証”に置き換えるまで
召喚陣は、論理の穴に似ていた。
円の白線は均一に見えて、よく見ると一箇所だけ滲んでいる。定理の証明でいえば、黒板の片隅に残った指摘待ちの余白。そこから空気が「世界」を漏らしていた。
「起きてください、悪魔さま」
声は震えなかった。若く、固く、そして折れにくい。
私はゆっくりと瞼を上げ、円の外側に立つ少女を見た。煤けた制服、磨かれた靴。小さな手には、使い古された羽ペンと、安価な羊皮紙。劣等寮の出と見ていい。
「君が召喚者か」
「リズ・フォーン。劣等寮一年です」
名乗り方がよかった。肩書より名を先に置くのは、交渉の入口を開く合図だ。
私は床から起き上がる。衣の襟に、紙の手触りが残っている。虚界書庫で万年を過ごした癖は、肉体にまで移ったらしい。
「条件を。契約は三層——意図、文言、運用で締結する。まず意図から聞こう」
少女は喉を鳴らし、しかし目は逸らさず言った。
「私を序列に乗せてください。最下位からで十分、まずは三十位以内に」
「君の序列とは、学園の総合順列のことだな。戦闘、教養、礼儀、血脈、寄進の加点合算」
「はい。……それと、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「あなたが“自分を忘れない方法”を、いっしょに探します」
私は笑った。久しく忘れていた種類の笑いだ。
君は知っているのか、と問いたくなる。私が術を使うたび、記憶のページが千切れていくことを。
「よろしい。意図は一致した。文言を起草しよう。対価は勝利と進級、期限は——」
「三刻後の“割当決闘”に間に合うなら」
ずいぶん差し迫っている。
私は指先で空気をなぞる。虚界の薄膜が、紙をめくるようにきしんだ。
羊皮紙の上に、ペンが走る。私は読み上げる。
「〈契約第一条 召喚者リズ・フォーンと召喚対象アザゼルは、相互の目的に資する行為を優先して行う〉
〈第二条 勝利・序列上昇・記憶保存を対価とする〉
〈第三条 違反の際は“背徳災”の発生リスクを等分する〉」
少女の瞳が、わずかに揺れた。「背徳災……?」
「意図と文言が大きく乖離したとき、世界が“怒る”。契約は神秘である前に、合意の機械だ。機械は、故障すれば音を立てる」
ペン先が止まり、契約は閉じた。
彼女の指が、羊皮紙の端を丁寧に撫でる。紙に触れる手の質から、彼女が読める人間だとわかる。読める人間は、世界に勝つ筋道を見つけやすい。
「三刻後の決闘。相手は貴族の三男。勝敗は“流血”で判定されます。……すみません、嫌な条項ですよね」
「嫌悪は、戦略を速くする。まずはここをひっくり返す」
「どうやって?」
「《一条置換》だ。事象の前提を“ひとつだけ”別の条に入れ替える」
彼女は息を呑んだ。「前提を——置き換える?」
「そう。勝敗条件“流血”を、勝敗条件“論証”に置き換える」
「そんなこと、可能なんですか」
「可能だとも。代償は、私の記憶ページ一枚」
短い沈黙。
良い沈黙だった。恐怖でも拒絶でもなく、情報を配置するための静けさ。
「……それでも使いますか」
「君は血を見るのが好きか」
「いいえ」
「私もだ」
私は右手を掲げる。指先で、世界の余白をめくる。
虚界から一枚、紙が垂れて落ちる。見えないページが、胸の内側を擦っていく。
ぺり。
無音の破れが、視界の端を白く欠かせた。記憶は、静かに私から離れていく。
「発動。《一条置換》——この決闘の勝敗は“論証”で決まる」
「“論証”って、つまり“説得”で?」
「証明だ。議場は決闘場、審級は観客。多数決ではなく、理由の重さで決まる。審級化は私がやる。君は三行の主張を用意しておけ」
「三行?」
「一、目的に適うか。二、手段の副作用。三、代替案。——この枠は世界に強い」
少女はこくりとうなずく。覚えが速い。
劣等寮の塔を出るころには、日はだいぶ傾いていた。砂と石の、雑に均された広場。その中央に、木剣を肩に担いだ貴族の三男が立っている。審判役の上級生、観客の生徒、そして風。
風は公平だ。紙に冷たく、血にも冷たい。
「平民に血は似合うか、試してみようか?」
男は笑いながら木剣の先で地面を擦った。砂の音。
私は観客席に向き直る。
「審級化を宣言する。今からあなた方は、判定権をもつ観客となる」
ざわめきが走る。
私は続ける。
「本決闘は《一条置換》により、“論証”で勝敗が定まる。異議のある者は挙手を。——理由のない挙手は無効とする」
半分ほどの手が上がり、半分は上がらない。良い分布だ。
最前列の男子生徒を指名する。
「て、手続き上……そんな宣言でルールを変えられるのかよ」
「質問を歓迎する。手続きは大切だ。まず条文を確認しよう」
私は劣等寮の契約集から、一枚の写しを掲げた。
「〈決闘の目的は、学生間の紛争解決と秩序の維持に資すること〉。——目的が“流血”でない以上、流血は手段に過ぎない。ならば手段の適否は“論証”で決めるほうが、目的に適う」
別の観客が口を挟む。「でも、論争って長引くし、決闘の危機管理に向かないだろ」
「良い異議だ。だから緊急時の定義を先に決める。抜剣後“三心拍”以内の攻撃未遂を緊急とし、その場合は監督官が即時停止を執行する」
審判役の上級生が、わずかに目を細めた。細め方は、拒否ではない。「監督官権限の事前合意……一理あるな」
私は頷き、場を振り返る。「審級、現時点での傾きは?」
観客のざわめきが、空気の線を動かす。私はその流れを読む。理由が重いほうへ、意識は滑っていくものだ。
「判定。論証採用。決闘の“勝敗”は理由の強さで決まる」
貴族の三男が舌打ちをした。「言葉遊びで勝てると思うなよ、劣等寮」
「言葉は遊びではない。世界を固定する釘だ。さあ、主張を」
私はリズに目配せする。少女は一歩、砂地に出た。声を張る。
「一、流血は報復を誘発し、紛争を持続させます。
二、恐怖で観客が沈黙すれば、秩序の維持は不可能です。
三、よって判定を“論証”に置き換え、緊急時には監督停止を用いるのが目的に適います」
短い。正確。必要な骨だけを置いた三行だった。
観客席の中段で、数名がうなずく。視線の流れが、反対派の中の一人に突き刺さる。彼は慌てて挙手した。
「その……血は怖いが、決闘は体を鍛える目的もあるだろ」
「鍛錬は目的ではなく副産物だ。副産物のために目的を曲げてはならない。——論証に勝てない決闘は、鍛錬でもない」
木剣が砂を叩いた。貴族の三男が前に出る。「うるさい。要は、俺が勝てばいい。話で勝ったふりをするな」
「では、君の主張を三行でどうぞ」
「一、貴族は戦うために学ぶ。二、戦いは血で決まる。三、だから俺が突っ込めば勝つ」
「一行目と二行目の間に論理の穴がある。“戦うために学ぶ”は、戦いの勝敗を血で測ることを含意しない。——証明できるか?」
「うるさい!」
男は吠え、砂を蹴って突っ込んできた。
観客が息を呑む。審判役が腰を浮かせる。
私は右手をわずかに掲げ、「停止」とだけ言った。
監督官が反射で動く。三心拍以内の攻撃未遂、緊急判定の適用。肩に手刀が入り、木剣は男の手から抜け落ちた。
砂の上で剣が一回、軽く跳ねる。拍子抜けするほど軽い音だ。
「議場に暴力は不要だ。——再開。君の二行目、証明は?」
男は歯ぎしりをして、何も言えなかった。
観客の視線が一斉にこちらへ傾く。
私は静かに手を下ろした。
「判定。勝者はリズ・フォーン。敗者は貴族三男。理由は——“目的に適う”から」
拍手は多くなかったが、明確だった。
私は安堵し、同時に胸を押さえる。内側で、紙の切れ端が擦れる。白い欠けが視界の右上に残る。
リズが寄ってくる。「ありがとう。でも、痛そう」
「痛い。忘れるのは——痛む」
「取り戻せますか」
「虚界に潜れば、おそらく。だが拾うのは別の誰かかもしれない。私の忘却を武器にする者が、きっと現れる」
少女の目が細くなる。読む目だ。自分の頁ではなく、世界の頁を読もうとする目。
私は彼女に向き直る。
「契約の運用を追加しよう。“私を忘れさせない条項”を、次に書く」
「文言案は——『私が覚えている限り、あなたは消えない』」
「詩的すぎる。法務には弱い。『召喚者の証言が継続するかぎり、召喚対象の権能は識別可能である』——これなら堅い」
彼女は口元だけで笑った。「覚えます。覚えて、言葉にします」
劣等寮の塔に戻る途中、夕陽が石壁を柑子色に染めた。影が長く伸び、私の欠けた視野が影の端を見落とす。
忘却は、視野の欠けから始まる。名前、匂い、手触り、そして、たぶん。
たぶん、誰かの呼ぶ声。
◆
その夜。
寮の共同机で、リズは条文を読み、私は学園の契約群を俯瞰した。
劣等寮の契約は、安価で、粗い。意図が良くても文言が緩く、運用の穴が多い。こういう合意は、善意のときは働くが、悪意の前では脆い。世界は親切ではない。
私は羊皮紙に小さなカードを何枚も作った。論証の枠、背徳災の兆候、合意形成の最小公倍数の拾い方。
リズはひとつひとつに印をつけ、整理した。「わかる人にだけ届く言葉は、届かない人の前では沈むんですね」
「そうだ。届かせるための“段差”がいる。段差は、言い換えと例」
「例え、は得意です。安物の靴でも磨けば光る、みたいな」
「靴の比喩は旧いが、効く。明日の講義で“引用禁止戦”がある。上位寮の伝統講義だ。引用元の権威で殴る授業。——そこで勝とう」
「引用を封じる?」
「引用を封じない。引用の定義を再配置する。“引用とは、文の一部を借りることではなく、理由の一部を共有することだ”」
「……難しい。けど、面白い」
「面白さは武器だ。君が笑う場所を、議場に作る」
窓の外で、鐘がひとつ鳴った。二十一次。
私は自分の指先を見た。インクの染み。紙のささくれ。
虚界で過ごした万年は、私を強くした。同時に、世界へ戻る道を遠ざけた。
強さは、帰路を難しくする。
それでも私は帰る。私へ。
そして彼女は、私の帰路になるだろう。
◆
翌朝。
上位寮の講堂は、木の香りがした。天井は高く、声がよく響く。演壇には銀の胸飾りをつけた教授が立ち、聴衆席には、整った制服と、金で縁取られたノート。
引用の時間だ。教授は一冊の古書を掲げる。
「知を敬え。引用は知の証、権威の橋である。——さて、では劣等寮の君。昨日、妙な騒ぎを起こしたそうだな。君の“論証”とやら、引用で支えられるかね?」
視線が、刺す。
私は演壇の横で軽く会釈した。
「引用の定義を、ひとつだけ置き換える提案があります」
講堂の空気が、少しだけ前のめりになる。
私はリズを振り返る。少女はうなずき、三行のメモを掲げた。
置換の準備はできている。
今度は、何を失うだろう。
そして、何を得られるだろう。
(第2話「引用禁止戦——“借りる”の意味はどこにある?」につづく)