恋か友情か、あとから思う
ムズィーク王国──
王宮の記録室で働く私は、毎日古楽譜と向き合っている。静かな職場だ。物音一つすら、楽譜の余白のように思える。
その日常の中に、アロイスがいた。同じ部署に配属された彼とは、ふとしたことで音楽の趣味が合うと知り、以来、昼休みに音楽堂の裏手に座っては、よく旋律について語り合った。
「“春の暁”、君ならどう演奏する?」
「そうね……抑えめに、でも朝焼けのあたたかさを感じるように」
「そう!俺もそう思うんだよ」
そんなふうに、自然に会話が生まれて、静かに時間が流れていった。
ただの同僚。ただの趣味仲間。
私は、そう思っていた。
ある日、妹のヘレーネが言った。
「お姉さま、アロイス様って素敵な方ね。音楽の話が通じるし、真面目で優しいし……今度、演奏会にお誘いしようと思ってるの」
私は微笑んで頷いた。「いいんじゃない?」と。それだけのはずだったのに、胸の奥がずしりと沈む音がした。
それから、アロイスとの距離が少しずつ変わっていった。会話の数は減り、昼休みも別々に過ごすようになった。
演奏会の夜。私は客席の片隅で、彼と妹が並んでいる姿を見つけてしまった。
あの人の横顔が、誰かの言葉に笑っているのを見たとき、思わず目を逸らした。
ずっと私は彼の隣にいたはずだったのに。
その夜、眠れずにいた私に、もう一つの声がかかる。レオン=ウィルスナー。アロイスの親友で、王宮の楽団付きの調律師だ。
「君、今日は来ると思ってたよ。……元気ないね」
「……別に、なんでもないわ」
「そう?」
レオンは、どこか飄々としていて、何を考えているのか掴みにくい人だった。だけど時折、鋭く何かを見抜くような目をする。
「なあ、俺と付き合ってみる?」
「……今の、冗談?」
「君が笑わなかったってことは、ちょっとは気になった?」
私は何も答えられなかった。この人の言葉は、嘘とも本気ともつかない。でも、どこかに確かな温度を感じたのも事実だった。
だから私は、曖昧なまま立ち尽くしてしまった。否定も、肯定もできずに。
数日後、アロイスが辞めたと聞いた。
なんでも他の国へ行き音楽の勉強をするのだと妹から聞いた。
別れのあいさつもなかった。いや、きっと——もう、要らないと思われたのだろう。
私は思う。失って、ようやく分かる感情がある。遅すぎる気づきは誰のせいでもない。ただ、私に確かめる勇気がなかっただけ。
あれが恋だったのか、失いそうになって欲しくなった気持ちなのか、分からない。
そしてあの夜のレオンの言葉が、今も心の奥に残っている。あの言葉が本気だったのか、それともただの気まぐれだったのか。──分からない。
分からないことだらけね、と、ひとりごちる。
でも、もしまた彼に会う機会があるのなら。そのとき私は、笑って返せるだろうか。
それともまた、言葉を飲み込んでしまうのだろうか。
分からないまま、今日も楽譜に向き合っている。
モヤる心……