◇ヒーローの消えた夜
浮遊感。と言うかもはや心臓の形が変わるような感覚。
僕は、反射鏡に映る自身と睨めっこする暇もなく─────蒼黒く、冷たい水に攫われた。
それはまるで────水に殴られているような、突き刺さったような、そんな痛みが細胞内部まで侵食する。
僕の身体は深く、深くへと堕ちていく。
孰れ重く、身体の髄まで届くような深い声が僕に語りかけてきてくる。
『ステア、ステア、ステア、ステア、』
大分深くから聞こえる、僕を求める声。
これは幻聴か……それにしても、誰に落とされたんだ。いや、まずは此処から出ることを優先しろ。…でもまずい、海上、海岸まではかなり距離がある。
『もう、無理だよ…ステア、ステア、』
無理だ、なんて誰が決めたんだ。僕が動けると言えば、身体は動くんだよ。
何処の、誰の声かなんて知りもしないが、僕は頑なに否定し続け、指を鳴らして魔法を唱える。
「ファイヤ、ファイヤ、ファイヤ、ファ────。」
せめて周囲の水温だけでも上げようと必死に嘆いていたが、そんな魔法さえも此海にとっては虚無に過ぎない。
そうやり繰りしているうちに、大分息を吐いてしまった。早く水上に顔を出して呼吸をしなければ。というかしたい、息を、早く。
と、僕は本能に身体を委ね、重い水をかき分けていく。暫く動作を繰り返すうちに、漸く光が入り込んできて、僕は安心した。もうこの時点で肺は悲鳴を上げていたから。
しかし、頭上には何やら水よりも冷たい何かが。目の前に、そこに光はあるのに、出られない。
『だから、無理だって、ステア、ステア、』
「─────ぅぐ、るじぃ………」
刹那、僕は「ゴボッ」と肺に残る涅槃寂静とも言える希望を吐いてしまった。
それでも何とか魔法を放つべく、指を鳴らそうとするも、手先はとうに麻痺を起こして動かず、只身体は、奈落へと、奈落へと堕ちていく。
あぁ、僕は死ぬんだ。
僕は今、生きることへの喜び、そして生きることの辛さを根っから実感した。
レーナとパルドが犠牲になった今、それでも尚強く生きていこうとついこの間決心したばかりだと言うのに、結局運命は、神様は、僕が癪に障るらしい。
『君が使いこなせなかった命、私に捧げて。ステア、ステア、ステア、ステア、』
……誰が使いこなせなかっただけで、命を売るものか─────。
僕は死にたくなくて、『生』を祈る。それでもその昇っていく願いとは裏腹に、身体は沈んでいく。
負けじと骨の髄から力を入れ、生きようと必死に、必死に足掻く。
しかし、身体が痙攣して、時々変なところに力が入ってしまい、その都度体力を持っていかれる。
そして遂には、身体が脳の命令を一切受け入れなくなった。
ただ暗くなっていく視界の中で絶望している自分が、孰れ三人称で視えてきた。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、
いや、思い込みで苦しくなっているだけかもしれない。
幸せ、幸せ、幸せ─────苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、
寒いよ、助けて。
『解った。私が今、救済する。』
重い声は、段々とはっきり聞こえてくる。
そして刹那─────まるで心臓を直接掴まれ、捻られているような激痛と共に、身体は火照って、また冷たくなった。
「ゴボッ…………。」
そうして孰れ、僕は『幸せ』と『苦しい』の区別さえつかなくなる。
ありとあらゆる感情は、一枚一枚剥がれ落ちていくように喪われ、只残ったのは、
──────蒼海に同化した僕の輪郭だけだった。
『無断契約は、成立したよ。』
◇ ◇ ◇
「人生における価値観って、何だと思います?」
ある日の雨夜、人気が極端に少ない時間帯。
私───ユーリが仕事を切り上げて帰宅しようとした最中、ギルドへと足を運び、そう口にしたのは、”ファリス”と言う名の黒髪糸目の小柄な少年だった。
「価値観って……急ですね、そもそもこんな夜分に、しかも直接、あなたが此方に顔を出すということは、……面倒事ですか。」
こう見えても彼は、ギルドの依頼課におけるリーダーだ。故に、こうやって公に出回ることは禁止されているはず。恐らく抜けてきてまで伝えたいことがあるのかもしれない。
「面倒事って言っても、何せあなた方に聞きたいことがあって。」
「…はぁ。」
喉から腑抜けた声が出る。
「先月から、アドラス=ステア氏宛に送っている何通もの手紙の返信を初め、詳細を説明するからとギルドへの案内を出しているというのにも関わらず、一向に来る気配がなくてね。」
「水を差すようで申し訳ありませんが、……ステアさんはつい先日、仲間を失いました。それでも尚、独りで依頼を受けると思いますか?…少なくとも、今の彼にはそんなことが出来るとは思えない。………でも、確かにここ一ヶ月、ステアさんのこと見掛けませんね。」
「しかもこれ、届かなかったんです。彼に。」
そういってファリスは、一通の濡れた滲んだ文字の手紙を取り出す。
「これは…?」
「見ての通り手紙だ。これはつい先週出したものなのたが、誰かが、途中で止めた可能性がある。さっき、ギルドの前で拾った。」
「……それとこれとでは、何の因果関係が。」
※ユーリはそう口にしながら、長く華奢な脚を一歩、二歩と後ろに引く。そして彼女が三歩目を後ろに引こうとした時、カウンターの縁に腰のベルトが当たり、カラン。と、軽い金属音がギルドには響く。
「いやぁ、別に、追い込んでいるつもりはないよ。僕は別に、そこまで捻くれた感性は持っていない。……だけど、これだけは聞かせてくれ。ステア氏の行方を知っているか。」
ファリスの眼差しは、私に向けて鋭く刺さった。
「まるで私が知っているかのような口調。」
彼女は、体の中央に組んでいた手を解いて再度組み直す。
「クラリアート中央岬。」
※刹那ファリスのその一言に、ユーリの組んでいた腕はは一瞬、痙攣した。
「大海原が見えるその断崖で、不自然な魔力痕ともう一つ、海が部分的に凍っていた。」
「………と言うと。」
私はとにかく、少しでも動いていないと落ち着けなかった。でも彼に、ファリスに所々小さな所作が目立つよ、と言われて我に返った。
「この証拠が、ステア氏に結びつくとは一概に言えない。というか、分からない。だからこそ、君の口から聞かせてくれ。あの、魔力痕は”あなた”のなんだ。」
「だから根拠は………!」
※ユーリは自身のショートローブの縁を掴み、今にも倒れそうな形相でそう言い放った。その時もまた、腰のベルトからはカラン。と、軽い金属の音がした。
「根拠。と言っても、君は証拠の隠滅を蔑ろにし過ぎなんだよ。ボク達が見破れないとでも。」
※彼女は孰れ返答に窮したのか、ベルトに掛かった徽章を強引に取ってカウンターへ雑に置き、ギルドを後にしようとする。
「何故逃げようとする。君が素直に応じれば、ボクはこれ以上君を糾弾するつもりはない。」
「あなたは、……冷静過ぎていて、怖いんです。」
※ユーリの冷静さが取り柄とも言える顔は、もはやひどく崩れていた。
「…あっそ、じゃあ逃げなよ。」
※ファリスは言う。怖いほどに従順かつ唐突な発言に、ふと彼女も逃げる脚を止める。
彼は何を企んでいるのか。はたまた彼女は、何を隠しているのか。
今は唯、互いの顔を見合って、視線で言い争っている。
────そんな時、彼等の間に存在する静寂とやらは、導かれるかのように一瞬で吹き飛ばされた。
《付近に滞在している皆様!迅速に避難を開始してください!日没と同時刻に、水の魔人の影が観測されました!現在、クラリアート中央岬を中心に、犠牲者が数多く出ています!繰り返します………》
放送を聞いた民衆は、突如として大混乱に陥った。それらの音は、建物内からでも明確に耳に入ってくる。
一難去ってまた一難、どころか、困難に困難が積み重なって二難になってしまったまである。
「……行かなくて良いのですか。あなたが重要依頼を張り出さないと、誰も動きませんよ。」
「……そうだね。ボクはもう行かないといけないね。だから最後、吐き捨てるように言わせてもらうけど────これから起きる事象は、何らで君が絡んできていると、ボクはそう思うよ。」
「……その発言における根拠を。」
「少し冷静になって、考えてみなよ。……赤さんでも分かる。」
ファリスは、出入口にポツンと佇むユーリの肩を手のひらで軽く叩き、また来るから。と一言付け加えた後、夜の大混乱の街にあっさりと同化していった。
「結局、最後まであの人は何を考えてるのか…解ったものではない。」
「あの人って、…誰とや?」
「ひゃあ!」
私が負の余韻に浸っている時、ふと背後から覗き込む華奢な音が聞こえた。
「まぁ、私の問いかけは一旦置いておくとして、今ヤバいじゃん!語彙力が皆無になるくらいにヤバいじゃん!」
案の定、リリーナだった。あの日、あの時、ステアさんの耳を甘噛みした女の子だ。
「えっと…、何でリリーナが此処に。」
「だって、魔人だよ?街に姿を現すなんて、前代未聞の出来事だよ?…だから、ちょっとギルドで情報収集をと。ところで、何故ユーリちゃんの徽章がカウンターに?」
彼女は、リリーナは本当に、無知で純粋だ。それは、いい意味でも悪い意味でも捉えることができる。でもだからこそ、そんな彼女に話すわけにはいかない。
私が────、ステアさんを────。
「あっ、ステアさんって、もしや魔人戦に派遣されたのかな……、大丈夫なのかな、今の心の状態で。大丈夫なのかな……。」
白髪の乙女は、今にも瞳から宝石の一雫を垂らそうとしていた。
私の心臓は、酷く嘆き喚いている。純粋な彼女を見ているうちに、戻らない命さえ惜しむようになってしまった。
「と、取り敢えず、私達は街の外に避難しなくてはならない。急ぎましょう、リリーナ。」
ユーリは徽章も威厳も、全てを放り出して、唯泣き目のリリーナの小さな手を取って、ギルドを逃げようと駆け出す。
私達がギルドから出た時には既に、大半の民衆が避難を済ませていて、人気は常夜に比べても極端に少なかった。
「ステアさん、大丈夫なのかな……。」
リリーナは耳を澄ませなければ聞こえない程にか弱い声で呟く。私は唯、唇を強く噛み締めて彼女の手を引くことしかできなかった。
「………大丈夫。彼ならきっと、生きてる。」
ユーリは、私は、まさかそれが自分の口から出た言葉だとは心底思えなかった。
…自分に対する皮肉?
何処かで微かに抱いている希望?
いずれにせよ、今はもう何を望んでも仕方の無いことだと目に見える。彼が生きている可能性は極端に低い。後悔に駆られ、自分の劣等感を身に染みて感じる。だから、だからこそ、私は今目の前にある守らなくてはならない命を最優先して守るべきだと心に刻む。
「裏道から逃げるよ。」
絞りに絞って出た言葉は、案外質素なものだった。だが、そんな情けない私に彼女────”リリーナ=ミクシア”は、黙って着いてきてくれる。彼女の嘘偽りない瞳が、私に対する信頼を物語っていた。
…それにしても、長い。避難経路はそこまで複雑ではないはずなのに、何処と無く道のりは長く感じる。
街頭は輝きを失い、木々の小鳥達は囀りをやめ、去っていく。さらには、夜空らしい藍の濃淡さえも真黒に染まってしまう。
そして、リリーナ含めユーリはある時、災いの境界線を踏んでしまった。
「……何の音ですか…?」
パキッ。と、何かが弾ける音。
「安心して、思い込みすぎよ。それより早く逃げないと。」
リリーナは、ふとしたことで驚きすぎだ。と、私は分かりきっている嘘で安心させた。
そんな時、再び聞こえる。何かが弾ける、というよりも、崩れる音……?
その音は次第に、数を増して聞こえてくるような。
そして、一回瞬きする頃には街を囲む外壁を始め、家諸共勢いをつけて壊れ、”流れる”。
「…何で海も川も無いのに、水が………。」
目の前には、私達の景色を容赦なく破壊する濁流が流れ、その流れは分水嶺のように枝分かれし、一つは私達の方に流れてくる。
「操られてる。」
リリーナは急に何を言い出したかと思えば。彼女は指を二本、三本鳴らして、唱える。
『*空気の器を現出せよ。』
水の重音の中から、華奢で、何処か頼りない声が鮮明に聞こえてくる。
そして、私達に向けて刃物のように迫ってくる水は、見えない壁に反射して雨のように降り注ぐ。
「ひぇ……」
私は不意に、情けない声が漏れてしまった。その声は濁流の音に掻き消され、僅か一センチ先にさえも届かない。
…しかし、鳴らした指はたかが三本だ。一回水を受け止めて、それきり消失してしまう。
それでも容赦なく、刃物は迫ってくる。
「っ持たないよ!リリーナ!…相手は魔人だよ……?!」
「此処で暫く待ってくれたら、ステアさんは絶対に来る。私は、信じるよ。」
「そんな駆け引きをしてる場合じゃない!何時死ぬかなんて、分かったものじゃない!逃げようよ……!」
彼女は、リリーナはステアさんを過信し過ぎだ。来るわけなんて、無いのに………。
『*空気の器を現出せよ!』
『*っ空気の器を、…現出せよ!』
もう、九本鳴らした。
私は、無力で最低だ。ただ、彼女が傷ついて戦っているのを(防御一方)視界に投影させ、来るわけもないヒーローが、遅れて登場するって戯言を肯定するだけの、非人格者だ。
荒い息を上げ、リリーナは孰れ座り込んでしまう。
「リリーナ!っわ、私が背負って逃げるから、掴まって!」
私は魔法とやらが使えないから、此処では逃げることしか脳がない。でも、そんな私を信頼してくれた、彼女を絶対に、裏切りたくはない。
「孰れヒーローが!」
「都合良くヒーローなんて来ないよ!!」
リリーナは呆然とする。私も言ってしまった感が否めない。でも、こうでも言わなければ────彼女は普通に死ぬ。
「君が、誰かが望んで、ヒーローが登場するなら。犠牲者だって一人も出ないはず。それに、ヒーローよ来い!なんて、そんな魔法はこの世に存在しないでしょ。ただ動かずに、何かを望んだって、それが叶うわけない!人生は、規定のルートを進んでるの。」
これは、私の解釈だ。無力で最低な奴の、解釈だ。
「動けってこと……、?戦えってこと……、?」
「違う!!逃げろってこと!!」
彼女の瞳には、刹那ハイライトが灯った。それはそれは、街頭よりも明るく、この夜を照らすような、そんな光が。
「……逃げよう。」
リリーナのその一言には、恐らく様々な意味合いが込められているのだと思う。自身との葛藤や、それでも微かに抱いてる希望。いずれにせよ、こんな私の言い分に心を動かされたのだ。少し、自分の存在価値が見えてきたような気がして、また失せた。
…………彼女は、叶いもしないヒーローとの再会を夢見ている────。
私は、どうにも心が苦しかった。嬉しいけど、何処か強く、深く突き刺さるような心境が、私の思考を鈍らせる。
「……ユーリちゃん、だから逃げよって!」
「あっ……うん!」
今度は、私の方がリリーナに催促されてしまった。
私達はそれから、とにかく逃げた。私、ユーリが彼女を背負う形で。
その後、魔人の術から逃げ隠れしながらも、何とかこの地域を出る大門まで辿り着くことができた。
「……重いから、そろそろ降ろすよ。」
「っあ!重いって言った!ユーリちゃん、私に向けて重いって!」
体力を消耗し、傷だらけになったリリーナは、漸く少し歩けるまでになった。
大門は普段閉まっていて、兵士が両脇に佇んでいるのだが、今日に限っては避難経路として解放されていたので、あと二、三歩踏み出せば街を出られる状態だった。
「じゃあ、もう此処で躊躇している余裕は無いから、早く出るよ。この街から。」
自分でも言ってて、少し切なくなった。
そして、私達は互いに顔を合わせて不安を打ち消しあった後、門を潜ろうと正面を向いた────時だった。
見たことのある服装で(濡れていた)、私達の目の前に佇む一人の男の子。
「うぁ、びっくりしたぁ。」
リリーナは少し肩を上げた後、………絶望した。
私も同様、驚愕せざるを得なかった。何で、と考える前に、まず彼女の様子が気になって、横目に見る。
「………ステア、さん…だったんだね…。」
リリーナは、涙で霞んだ視界を拭って呟く。
それは再会を喜ぶようにも、変貌を嘆くようにも捉えることができた。
◆ ◆ ◆