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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ルージュを描いて

作者: 兎束作哉


 ある日俺は理想の唇と運命的な出会いをした。ただ、そいつはクラスメイトの男だった。


 昼休みに入った二年三組の教室は、四限目の、すぐにキレる数学大好き老害先生の雪山のような授業を乗り越え、春のような陽気を取り戻していた。購買に一目散に走る男子や、教室の隅で机をくっつけてお弁当とお菓子を広げる女子、我慢していたトイレに駆け込む男子や、まじめにノートを取っている女子など三十人が一人として同じ動きをしていない。

 それから、陽キャ女子の「でさー」から始まる接続語不明な会話が教室の端から聞こえてきた。「あの老害今年で定年退職だってえ」、「それ去年も言ってなかった? 来年も絶対いるじゃん」と、老害生の前では絶対に出さない態度で喋っている。その女子たちは、折ったスカートは膝上に、ヘアアイロンで整えた前髪はノリのようにガチガチに固めている。老害先生はとにかく耳がよく、小言も、消しゴムを落とす音さえも拾いあげて、ネチネチと説教をする。女子たちだけでなく、男子からも嫌われている先生だ。ただし、あの老害先生の授業は、厳しいが分かりやすいため、めちゃくちゃにクラス全体の成績がいい。


 俺――霜月紅輝(しもつきこうき)は、そんな老害先生の授業を真面目に受けているフリして、マナーモード・通知オフにしたスマホを机の下で構っている。バレそうになったこともあったが、普段からテストでいい成績を収めているためスルーされた。いや、単純にバレていなかったからかもしれない。数学テストのために犠牲にした教科は数知れず。そんな俺が危険を顧みて見ているものは、新作コスメのレビュー欄、口紅限定。母親がデパ地下で働いており、小さいころから口紅に触れてきたため、つい目が行ってしまう。高校生になってからはバイトで稼いだお金を口紅につぎ込むほど、口紅マニアである。ただ俺の唇と、購入してきた数々の口紅は、毎回相性が最悪で、ムダ毛を一本残らずモデル並みにツルツルに剃った腕に塗って発色を試すしかない。もちろん、もったいないので、腕の上をすべり溶ける口紅の感触も楽しんでいる。だが、自分の唇に塗った時の出来は最悪で、あれほどよかった発色がくすみ、黒々しくなって、唇のシワが強調される。自分に合った口紅を探しているのだが未だかつて、自分に合った口紅と出会えていない。といっても、口紅以外で、唇に塗るものは買っている。唇が乾燥すればリップを塗るし、そのリップも保湿の性能だけで選ばず、匂いや感触、唇に塗った時の溶け感を重視している。もし俺が女であれば、どんな口紅

も似合ったのだろうか。俺の唇がもっと均等な形で、健康的なシワで、塗らなくても赤く少し出っ張った感じのアヒル口だったらよかったのだろうか。整形してまで口紅の似合う男になろうとは思わないし、そればかりは後悔してもどうにもならない。

 また、こんな趣味を持っているということを他の人に言えるわけもなく、男友達から「どんな女性が好み?」と聞かれたときには、「笑顔が似合う人だな」と答えることしかできない。中には「胸はC~Dの間。大きくもなく小さくもない、形がよくて、張りと弾力もあって、アレの色は薄いピンクがいい」と、細かい設定をいうやつもいる。しかし、髪の毛の質・キューティクルがとか、天然二重瞼でまつげが

長いとか、そういう目につきそうで目につかない好みというのはあまり出てこない。だから、俺は自分の性癖が特殊なんだ、と胸の内にとどめておくことにした。しかし、俺も健全な男子高校生なわけで、自分の性癖を語り合える仲間が欲しかった。


(んなの、いねえんだよなあ……)


 はあ、とため息をついて、俺は机の下に入れておいた一本六千五十円の口紅のキャップ部分を親指と人差し指で弄る。まだ買ったばかりで、実際の発色を見ていないが、色は貴高いルージュだった。好きなブランドの新作ということもあって期待度が高い。だからこそ、最初の一塗は、俺の腕ではなくて、そのままでも美しいプルプルと潤った唇に塗りたい。しかし、頼める女性はいない。


「この際、男子でも……あ」


 キュポッ、と口紅の蓋が外れたと同時に俺の視線はある一点に集中した。視線の先には、窓際で弁同を食べているクラスメイト、柊木美智彦(ひいらぎみちひこ) がいる。

 美智彦は、居酒屋にあるような袋に入った割り箸を取り出し、パキッと均等に割ると、二段弁当のおかずが入っている方の段から脂ののった大きな唐揚げを掴み上げた。そして、そのまま一口……と思いきや、二口に分けて唐揚げを頬張る。美智彦が噛みしめると、肉の間からジュワァと肉汁があふれ出す。それをもう一口。美智彦の口の周りは、油と肉汁で照り輝き、リップを塗ったような艶やかさを帯びてい

た。それから赤く長い舌でベロりと口の周りを一周する。次に半分に切った春巻きを掴む。断面から炒められた筍とピーマン、春雨が飛び出している。パリ、パリ、と今度は三口に分けて春巻きを食べる。これまた油物で、美智彦の口の周りはテカテカと光る。口周りについた春巻きの皮を先ほどよりも舌を伸ばして、その先端で手繰り寄せる。ゴックンと少し小さめの喉仏が上下した。

 俺は、その一連の動作に目を奪われていた。美智彦はちょうど蛍光灯の真下の席ということもあって、白い肌にもとから血色の良い赤色の唇がツヤツヤと輝いて見えた。まるで、コスメの広告写真に載っている唇のようだ。


「あれだ……」


 理想がそこにあった。俺は早速その日の放課後、美智彦に声をかけることにした。


「おーい、美智彦」

「誰? ……ああ、陽キャくん」


 美智彦が帰宅部で、一人そそくさと消えるように帰ることを知っていた俺は、放課後下駄箱で待ち伏せをして美智彦を捕まえた。美智彦は長い前髪のカーテンを上げて俺の顔を睨むように見つめると、ああ、なんて抜けたような声で「陽キャくん」と言った。俺は陽キャでも陰キャでもない凡キャだと思っているのだが、陰キャな美智彦にはそう見えるらしい。それにしても、真正面から美智彦の顔を見たことがなかったから分からなかったがキレイな顔をしていると思った。前髪に隠れている目はぱっちり二重で、長い睫毛は上向きにハネている。陶器のような滑らかな肌は白く、毛穴もニキビもない。着飾るこでしか自分をよく見せられない量産女子と比べるまでもない天然美人だった。

 美智彦の黒い双眼が俺を見つめている。眉間にシワが寄っているのに気づいた俺は、美智彦の唇を一度見てから本題に入った。


「このあと暇?」

「暇じゃない。新作のゲームする」

「……六千円の」

「六千円? そのゲーム、五千円なんだけど」

「ああ、ちがくて。六千円っていうのは……口紅のことで」

「は?」


と、当たり前の反応が返ってくる。さらに顔が険しくなり、俺はポケットからあの六千五十円の口紅を出した。


「美智彦の唇に、これ、塗らせてほしくて」

「は? 何で?」

「美智彦の唇が、俺の理想の唇だから」


 どうにか言いくるめられないものかと思い、必死に頼もうとしたら、ついうっかり本音が漏れてしまった。美智彦は頬を引きつらせて汚物を見るような目で俺を見てきた。


「は? 男が好きってこと……?」

「違う、違う。なんでそうなるんだよ。口紅マニア。あと、唇フェチ。別に性別関係ねえって、ただそこに俺の理想の唇があったから声かけたんだよ」

「意味わかんねえし。で、何? 僕の唇が欲しいと」

「いや、使わせてほしいって話。新作の口紅の初めてを貰ってほしいというか」

「さらにヤバい。何、口紅の初めてって。てか、それって僕に何のメリットあるの?」

「六千円払う」


 美智彦は、ふむ、と汚物眼をやめて俺を品定めするように見てきた。続いて俺よりも頭一つ分低い美智彦は上目遣いで睨む。俺は、な? と作り笑みを向ける。多分俺も頬が引きつっていると思う。ろくに喋ったこともないのに、いきなりこんなこと言われたら気持ち悪いに決まっている。しかし、美智彦は、分かった、と言って俺の口紅を奪ってきた。


「……一万円で手を打つ。あと、変なことしたら殺す」

「え、あ、マジ? いいの?」

「一万円。ほら、早く一万円。一万円」

「は、はい」


 手を出してきたため、俺はリュックから黒い長財布を出し、その中から最後の一枚の一万円を出す。それを美智彦は奪うように懐に突っ込んで、歩き出した。どこで塗らせてもらえるのか、最も今日じゃないかもしれない。そう思っていると、美智彦は自分の家に連れていくと言って案内した。美智彦についていけば、フロント付きのマンションにたどり着き、エレベーターで七階に上がる。真っ白なタイルが敷かれた廊下を歩き、角部屋の扉の前で、ピッとカードをかざして中に入る。


「早くしろ」

「……うっす」


 俺は、促されるまま「お邪魔します」と、一礼し、美智彦の部屋の中に足を踏み入れた。



◇◇◇



「待て、汚い」

「人の部屋上がっておいて汚いって何だよ。失礼な」

「足の踏み場。うわっ、飲みかけのコーラ」

「……」

「掃除しようぜ」

「やだ」


 美智彦の部屋は、それはもう足の踏み場がなく、一歩踏み出せば足の先端にゴミが絡まるような汚部屋だった。コツンと足下に落ちていた飲みかけの炭酸が抜けてそうなコーラを拾って賞味期限を確認すれば、一ヶ月前のものだった。完全に炭酸が抜けてるな、とおもい、キッチンの流しに捨てて、中身を洗う。


「何してんの?」

「掃除。いや、こんな部屋で気持ちよく口紅塗れないだろ」

「気持ちよく口紅塗るって何? てか、僕は掃除しないから」

「ありえねえ……っ、こんな汚部屋でよく過ごせるよな、全く」


 美智彦は、鞄をベッドの上に乱暴に置くと、靴下をその周りに脱ぎ散らかして自身もブレザーを脱いで、飾りネクタイをとってベッドに寝っ転がった。背中を丸めてゲームをする姿は猫そのものだった。

 それだけで、美智彦が掃除をしないというのが分かったので、俺はとりあえず、大きなビニール袋を引っ張り出してきて掃除をすることにした。


(名前の割に、全然美しくねえんだけどこいつ)


 関わったことなかったから、美智彦が普段何をしていて、どんな性格か知らなかった。自分の無知な行動に呆れつつも、あの唇さえ手に入れば……という一心で部屋を片付ける。美智彦はその間も両手にしっかりとゲーム機を掴んでゲームに集中していた。リビングがこんなに汚いのなら、きっとお風呂やトイレもさぞ汚いことだろうと思いつつ、そこまで面倒は見えないと、足の踏み場だけ作ってビニール袋の口を閉じる。


「ふぅ……」

「終わった?」

「終わったって、お前なあ……」

「陽キャくん」

「俺の名前は陽キャくんじゃなくて、霜月紅輝だよ。んなこといったら、お前の事陰キャくんって呼ぶぞ」

「……霜月」

「何だよ」

「金払えば、また掃除してくれんの?」

「はあ?」


 ゲーム機から一旦視線を逸らし、美智彦はとんでもないことをいいだした。俺を家政婦か何かと勘違いしているのだろうか。


「つか、お前ひとり暮らし?」

「あの学校通うために、受験した。ひとり暮らし」

「あっそ」

「聞いたくせに、何?」

「いや、この生活力でよくひとり暮らしできているなあって思って」


 俺がそう言えば、美智彦はムスッとした顔を俺に向けてきた。前髪がかかっていて、その眉が上がっているのか下がっているのかは分からなかったが、目つきが鋭かった。まあ、こんなヒョロガリに殴りかかられても、押し返すことはできるだろうし問題ないだろう、と俺は鼻を鳴らす。その、ゲーム機で後頭部を殴られたらまずいかも知れないが。

 そんな想像をしながら美智彦を見ていれば、美智彦は、はあ……と大きなため息をついて、人差し指をくいくいと曲げ、こっちに来るようにと指示してきた。


「何だよ」

「口紅、塗るんだろ?」

「お、おう……」


 美智彦の部屋の片付けですっかり忘れていたが、本来の目的を思い出し、俺は美智彦の座るベッドの前まで来た。向き合った方がいいのか、高さを合わせた方が塗りやすいか、そう思い、ベッドに足をかけた時、美智彦にドンと胸を押された。


「ベッドにはのんな」

「なら、口で言えよ。危ねえな!」

「……なんか、お前危険だから」

「はあ?」

「いきなり、口紅塗らせてくれとかいったやつ、信じられると思う?」

「なら断りゃよかっただろ」

「金がない」

「………………」

「いい単発バイトだと思った」

「ああ、そうかよ!」


 正直に話してくれたことは嬉しいが、まさか、バイトと同一視されているなんて思ってもいなかった。確かに、唇に口紅を塗らせるというバイト一万円と考えたらやろうと思うのか。


(んなこと、こっちもどうだっていいんだよ)


 そこに美しい口紅があった。だから、ぬらせて欲しいと思った。あっちは、割のいい単発バイトだと思った。その利害の一致で今ここにいる。

 俺は、美智彦からあの六千円の口紅を返して貰い、傷がついていないかだけ確認した後キャップを外した。


「なあ」

「早くしろよ」

「……いや、どうせ塗るなら、真剣に塗っていい?」

「真剣とか、真剣じゃないとかあるの? 塗るだけじゃないのかよ、口紅って!」


と、美智彦はもう勘弁ならないといった感じで叫んだ。まさか、そんな短気とは思わず俺が瞬きすれば、俺から口紅を奪うように取り上げてそれを直接塗ろうとした。


「ちょちょちょ、高いんだから、やめろよ」

「お前がいつまで経っても塗らないからだろ!」

「手順があるんだよ!」

「だから、なんでそんなに詳しいんだよ!」

「……っと、危ない。ほんと、暴力的だなお前。まさか、美智彦がそんなヤツだとは思わなかった」

「僕も、霜月がそんなやつとは思わなかった」


 互いにそう言いあって睨み合う。そんな無意味な時間が過ぎていき、俺は息を吐いた。こんなことをするためにここに来たのではない。掃除もそうだが、美智彦という人間を理解していないから起きたアクシデントだ、と一度落ち着くことにした。

 美智彦は、機嫌を損ねたのか、チラチラとゲーム機を見て今すぐにでもゲームを再開しそうな勢いだったので、俺は鞄から、化粧道具をとりだした。


「それ何」

「化粧道具」

「お前、化粧するのか?」

「いや? これは、母さんが貰ってきたやつ。ああ、新品だから気にすんな」

「……」

「後、口紅とリップはちょっと違うからな? そのまま塗ればいいって問題じゃないし、手順があんの。上手く塗るコツっていうの?」

「塗れればいいんじゃないの?」

「いーや。発色とかも試しつつ、立体的に、美しくその色を乗せるためには、細かい手順があるんだよ。そしたら、綺麗に見える」

「お前の、母親どこ勤務?」

「デパ地下の化粧品売り場。俺、その影響で昔から口紅とかリップとか好きで。綺麗な唇見るとついつい塗りたいなあーって欲求が膨らむっていうかさあ」

「自分には塗らねえの?」

「俺、似合わないから」


 美智彦は、少し俺に興味を持ったような口を利く。俺もつい話し込んでしまったが、こんな話をしたのは、美智彦が初めてだった。新作の口紅を試せるから少し気が緩んでいたのかも知れない。本当は、こんな話、面白くもないし、一般的には気持ち悪いだろうに。

 それでも美智彦は、気持ち悪い、とはいわず興味津々といったように俺の持ってきた化粧道具を見つめていた。興味を持ってくれている、ただそれだけでも嬉しかった。気軽に話せる友達なんていないから、つい俺は自分の持っている引き出しから知識を引っ張り出してきて喋ってしまった。


「指で塗っていいか?」

「は?」

「指で、あっ」

「あっ、て何? 指? そんなだけ色々道具出しておいて指?」

「いや、指で馴染ませた後に、最後の仕上げにもう一回直に塗るっていう塗り方で。その方が馴染むし、立体的になるし……な!」

「な! じゃないし、え、え、何、そんな面倒なの?」


と、美智彦は眉間に皺を寄せていた。美形は顔を歪めていても美形だなあ、と見惚れながらも、俺は頼む、と顔の前で両手を合わせた。美智彦は少し悩んだ後、「一万円……単発バイトだし」とぼそりと零して、その唇を突き出した。オッケーということだろう、と俺は解釈し、手の甲に口紅の色を落とし込み、パウダーと馴染ませる。見立て通りの高発色のルージュにうっとりしつつ、俺はそれを美智彦の唇にトントンと馴染ませる。美智彦は目を閉じていたため、目が合うということはなかったが、目を閉じても分かるまつげの長さに俺は驚いていた。


(ほんと、綺麗だよな……磨けば光るっていうか)


 でも、フルメイクの技術は俺にはなく、俺はあくまで唇をプロデュースしたいんだ、と美智彦の唇をなぞる。俺は、コンシーラーを使っても、唇の色と形が悪いせいでどの口紅ともリップとも相性が悪かった。それに比べ、美智彦の唇には、気高いルージュが映える。まるで、美智彦の唇に塗るために作られてきた唇のようだった。


「美智彦、ちょっと口開いてくれないか」

「ん、あー……これで、いい?」

「ん、そのままキープな」


 歯並びもよし。と、俺は余計な所までチェックしつつ、今度は直に口紅を塗る。美智彦の下唇の中心に口紅を塗り込み、その上から先ほどのパウダーで縁をなぞる。すると、ぷっくりとグラデーションによって浮かび上がった唇が完成した。元からよかった発色の唇が、さらに彩られ、まるで女性のように美しい顔が目の前にある。吸い付きたくなるような、ぷるぷるの唇を前に、俺は口紅のキャップを閉めて美智彦の下唇下をなぞり、色が落ちないように配慮しつつ自身の顔を無意識に近づけていた。


「……」

「終わった?」

「あ、ああ。終わった」


 パチンと弾かれたように、美智彦の言葉を聞いて我に返った俺は、美智彦から離れ、近くにあった鏡を美智彦に渡した。美智彦は俺が慌てていることなど気にも留めず、自身の唇を確認していた。


「ああ、絶対触るなよ!」

「どうせ、落とすのに?」

「いや、でも暫くはそのまま。写真も撮りたいし」

「はあ……別料金で」

「うっ……」

「うそうそ、さすがに、部屋も片付けて貰ったし、そこまで僕は鬼畜じゃないし」

「何だよそれ」

「でも、そう……こんなふうになるんだ」


 美智彦は、色んな角度で自身の唇を見ていた。元々、アヒル口まではいかずとも、絶妙に突き出た唇は、口紅によってその立体感を増し、どの角度から見ても美しく見える。実際に人に塗るのは初めてだったが上手くいったみたいで、俺も鼻が高い。彼も、どことなく満足げに笑っているので、結果オーライだろう。


(つか、俺さっき何しようとした?)


 俺は、自分のガサガサな唇に触れながら、先ほど美智彦にしようとしていたことを思いだしていた。美智彦が何も言わなかったら、きっと俺は美智彦にキスをしていたと思う。別に、美智彦が好きとか、男が好きとかじゃなくて、吸い寄せられるような、そんな引力を持っていた。ただ、美しい。そう感じたから。


(キスとか、考えたことなかったな。いや、もっと気持ちがられるし、しようとは思わねえけど)


 もししたら、彼の色が移るのだろうか。そしたら、俺もマシな色を唇に乗せることができるのだろうか。

 親指でなぞる唇は、やはりガサガサとしていて触り心地が悪い。きれそうな部分があったので、帰ったら保湿しようなんて考えながら、美智彦の方を見る。ほんと羨ましいくらい美人が、そこにいる。なんで誰も彼の美しさに気がつかないのだろうか、そう不思議になるくらいに。


「おい」

「な、何だよ。美智彦」

「また、呆けて、何考えてるんだ。やましいこと?」

「だから、何だそうなるんだよ」

「やっぱ、お前、危険」

「危険って、仮にも同級生にむかって……で、何考えてるって? いや、綺麗だなあと思って。さすが、俺がプロデュースしただけあるって感じ?」

「まあ、悪くはない……かも。それでだけどさ」


と、美智彦は改まったように俺の方を上目遣いで俺を見た。潤んだ黒真珠の瞳は綺麗で、男の俺でもグッとくるものがあった。これが意識的か、意識的じゃないかで、重罪か、重罪じゃないか変わってくる。無意識的だとしたら、とんだ魔性だ。


(いや、男に魔性ってのもおかしいかもだけどさあ……)


 自分でもよく分からなかったが、柊木美智彦と人間に俺は少しだけ興味が湧いてしまったのかも知れない。


「僕の部屋掃除してくれたら、また唇かしてやってもいいよ」

「なんで上から」

「いや、まずお前がお願いしてきたんだから当たり前だろ。僕は唇をかしてやっている側なんだから」

「はあ? お前、それはちょっと無理ないか?」

「無理ない。あと、お前、金なさそうだし、巻き上げるのも気分悪いから、部屋片付けるので勘弁してやる」

「いや、毎回来て、部屋散らかってたらそれもそれでどうかと思うが?」

「……僕の部屋は三日で汚くなる」

「…………」

「何だよ、その目」


 ギロリと睨まれたが、別に怖くもなんともなかった。ただ、三日で汚くなる生活をしている、というのが驚きで何も言葉が出なかった。

 とにかく――と、美智彦は勝手に話をつけて転がっていた俺のつくし型のブラシをとってその先端を向けてきた。


「これは、僕とお前の秘密。秘密にしてくれたら、僕は仕方ないから、お前のその趣味に付合ってやる」

「お、おう……」

「返事は、はいだ。霜月」

「……はい…………って、だから、同級生だよな、お前!?」


 この男は……と思いつつ、これからも、こいつとの関係が続きそうだ、ということに何処かほっとしている自分もいた。また、それと同時に期待と、これまで試せなかった口紅やリップを塗れるのか、と柄にもなくわくわくしている自分もいた。それを感じてか、また美智彦は、汚物でも見るように「キモっ……」と口にし、口論になったのはいうまでもない。




◇◇◇



「――美智彦」

「学校では喋りかけてくるなよ」

「そういっても、お前、一人で食べてるだろ?」

「陽キャくんは、一緒に食べるやつ他にいるだろ……僕なんかと食べても面白くな……あ、またどうせ唇見る気だろ」

「あ、バレた?」

「当てずっぽうでいったのに……こわっ、離れろ」


 あの日から、俺たちの関係は少しだけ変わった。といっても、俺の方から美智彦に話しかけに行くことが多くなり、それを嫌々ながらも、別に席を立つわけでもなく、声を荒げる出もなく、美智彦は流すようになった。一種の諦めに近いものなんだろうが、美智彦も別に俺と一緒にいて、嫌だ、という感じではなかった。

 俺は、自分でいうのもあれだが、人付き合いが悪い方ではない。しかし、なあなあとした関係で、誰かに固執したり、何処かのグループに属したりしたことはなかった。ただ成り行きで、流れるがままに生きていた。だから、俺にとって美智彦という存在は、珍しかった。誰にも渡したくないとか、そういう執着心ではないが、興味や好奇心からか一緒にいたいと思うようなそんな、自分でも上手くいえない感情を美智彦に抱いていると感じた。もっといえば、友達という友達がいなかった俺からすれば、美智彦、という特定の誰かと関わる事が俺の中では珍しくて、楽しいのかも知れない。友達、といえる関係なのかはどうか分からないが、少なくとも、今俺が興味を持っている人物である、というのは変わりない。

 美智彦の席に椅子を持っていけば、美智彦はまた嫌そうに眉間に皺を寄せていた。いつも、教卓から見て右側の、窓側の席。そこで一人で食べている美智彦は、弁当を開く途中だったみたいで、弁当箱を開ける手を止め俺を見た。


「学校では一緒にいたくない」

「何でだよ」

「別に、そういう関係じゃないし」

「そういう関係って何だよ。ただの同級生、友達、じゃないのか?」

「友達?」

「え、それ思ってたの俺だけだったりする?」


 俺がそう聞けば、美智彦は驚いたというように目を丸くした。前髪を横に流しながら、何度か瞬きして首を傾げる。


「同級生」

「友達じゃなくて?」

「業務提携……利害の一致?」

「酷くないか」

「いや、お前と喋らないし。てか、お前が唇フェチの、口紅マニアってことしか僕知らないし。それって、友達って言えるの?」


 美智彦はそういって、割り箸をわる。

 確かにそう言われれば、俺たちの関係って友達というより利害の一致関係なのかも知れない。でも、日常的に利害の一致関係です、なんて思わないし、それならただの同級生か、顔見知りか、そういって欲しいのだが、美智彦は頑に友達と認めなかった。


「友達じゃないのか」

「友達だと思ってた方が不思議なんだけど、僕からしてみれば」

「なんで?」

「何でって、さっき言った。互いのことよく知らないのに、友達って」

「そこから、友達は始まるものなんじゃないのか?」

「……友達いたこと無いから分からない……し」

「俺も」

「は? いや、陽キャくんは、いるでしょ。一人や二人」


 掴んだ卵焼きが、弁当箱の中に落ちる。美智彦は、また怪訝そうに俺を見た。まるで、俺が友達がいて当たり前だと。

 友達の定義は人それぞれだし、仲がいいから友達というわけではないだろう。これをいってしまうと、周りの人達に申し訳ない気持ちになるし、あっちが友達だと思っていても、俺が思っていなかったら、というすれ違いが起きかねない。少なからず、友達かと言われたら仲のいい同級生かな、と答える程度の関係だと俺は思っている。現に、グループで固まっている男子たちは毎日一緒にいるし、毎日同じ話題を話していても楽しそうだし。俺が途中で、その話題に入っても快く向かい入れてくれて、俺がいなくなってもその話を続けているような奴らだし。上手く付合っているといえば、そう。けれど、友達と言える関係の同級生はいなかった。だからといって、美智彦が友達なのかといわれれば、これも一方通行なのだろう。


「いないし。てか、仲良くしてれば友達っていうのがおかしくないか?」

「じゃあ、僕とはそもそも仲もよくなければ、あまり喋らないし、知らないしで、もっと友達じゃないだろ」

「いや、でも、俺は美智彦に興味があって」

「それ、ただのストーカーじゃない?」

「いやいや、そんなストーカー呼ばわりされるような……はあ、お前、もしかして頑固か?」

「は?」


 美智彦の癖だ。分からないと、は? といって固まるのは。

 美智彦は、俺を見て、再度首を傾げ、口元を歪めていた。


「いや、頑固じゃん。この友達か友達じゃないか論争やめようぜ。そんな、友達に定義づけしてたら、俺達一生友達できねえし、友達になれねえじゃん」

「唇フェチのお前とは友達になりたくないけど」

「酷くねえ? お前だって、汚部屋野郎って言われたら怒るだろ?」

「……まあ」

「それと一緒だから。あんまいうな、人の気にしてるところ」

「気にしてるのか?」

「……お前意外に、このこと話したやついねえから」


と、俺はぼそりと言った。誰も俺達のことなんて気にしていないだろうに、誰かに聞かれたら……という自己防衛から、俺は美智彦にだけ聞えるようにいった。美智彦は、ふーんと、どうでも良さそうに返事をしたが、そうか、と次の瞬間には納得したように頷いた。


「確かに、秘密共有してたら、共犯者とか、それこそ友達かも知れない」

「共犯者と友達を並べられるのは意味分かんねえけど。そう言うこと。俺と、お前は友達ってことで」

「はあ」

「いや、そこで溜息つくなよ。まあ、そういうことだから、学校で一緒にいてもおかしくねえだろ?」

「……綺麗にまとめようとしただけ。てか、食事は一人がいい」

「えー二人で食べた方が美味しいとかいうじゃんかあ」

「ひとり暮らしだし、そういうのあんま考えないから」


 そういうと、美智彦は、しっしっと手で追い払いつつ、俺が立ち退かないと諦めれば、俺がそこにいないかのように振る舞い、先ほど落とした卵焼きを食べた。ぷるぷると下唇が、黄色い卵焼きをついばみ、口元についた食べかすを赤い舌が絡め取っていく。


「みんな」

「あっ、悪ぃ。何か、食べ方エッチだよな」

「は?」

「あっ」

「失言多すぎる。お前、口と脳みそ繋がってるの?」

「凄えパワーワードだな。いや、確かに思った事すぐ口に出るかもだけどさあ」

「その癖気をつけた方がいいよ。余計なこと言って、人傷付けそう」


 美智彦はちらりとこちらを見て、今度はもやしのナムルを口に入れる。こちらはごま油を使ってあるため、彼の口はテリテリと輝き出す。脂ものと、美智彦の唇って合うよな、とやっぱり彼の唇を見てしまう。美智彦ははじめ食べにくそうにしていたが、また最終的には諦めたようで何も言わずに食べていた。俺も、ぐぅ、と腹がなったので美智彦の邪魔にならないように弁当を広げて食べる。冷凍食品を詰め込んだ茶色い弁当は、美智彦の彩りのいい弁当とは天と地の差だ。


「なあ、美智彦、自分でそれ作ってんの?」

「簡単だし、これくらい作れるだろ、普通」

「いや、起きて弁当作るのって大変だろ? ついは、母さんが朝起きて作ってくれててさ。でも、忙しいから冷凍食品ばっかり」

「あっそ」

「少しぐらい、俺に興味持ってくれてもいいだろ? てか、あの汚い部屋でよく作れるよなあ……その弁当くらい整理整頓されてればいいのに」

「だから、思った事そのまま口に出すな。傷つく」

「え、傷ついた?」

「傷ついた」


 美智彦の顔を見るが、傷ついているのかぱっと見では分からなかった。目を凝らしていても、怒っているのか、悲しんでいるのかさえ。美人はどんなかおをしていても美しいというが、美智彦は喜怒哀楽の表情を見せないんじゃないかとすら思った。彼の唇は、毒を吐くか、美しく咀嚼するかの二つしか動かないのではないかと思うほどに。だからこそ、より彼の色んな表情を見たいと思った。


「傷付けたんなら、悪い。謝る」

「ごめんじゃないの? 悪い、謝るって何?」

「ごめん」

「まあ、別に怒ってはないし、いいけど」

「じゃあ、話題変えて」

「……ほんとに反省してるのか、お前」


 ご馳走様、としっかりと合掌をし、美智彦は弁当箱を片付ける。

 俺は、美智彦が何処かに行ってしまう気配を察知し、弁当を無理矢理喉に押し込んで、ガッと口元を擦った。すると、美智彦はまた顔を歪めて、ポケットからハンカチをとりだした。


「ん」

「え、何?」

「唇フェチのお前が、そんな拭き方でいいのか。だから、唇荒れてるんじゃない?」

「……あ、サンキュ」

「はあ」

「追い打ちのため息はやめろよ。少しときめいたのに」

「ときめきって何」

「女子力高いなあと思って」

「……お前は、トイレいったあと、そこら辺に水まき散らかす小学生なのか?」

「明日からちゃんとハンカチ持参します」


 きれい好きなのか、そうではないのか分からなくなってきた。あの汚部屋を知っているからこそ、この行動に違和感を覚える。このハンカチはしっかりと洗濯したのだろうか。貰っておいて、そんなことを考えるなという話だが、少し考えてしまう。とりあえずありがたくいただき、俺はそのハンカチで口元を拭った。すると、ハンカチの擦ったところには、冷凍パスタのケチャップが付着してしまい、真っ白なハンカチにシミができる。


「あ、洗って返す」

「いや、洗って返してくれないと困るんだけど。お前の口拭いた後のハンカチとか嫌だし」

「じゃあ、トイレの後は?」

「予備に持ってる」

「お前は、潔癖なのか、そうじゃないのかどっちなんだよ」 


 俺が苦笑いすれば、美智彦は別に、といって顔を逸らした。その顔が、何だか恥ずかしそうにしていたのが、揺れる黒髪の隙間から見えた気がした。



◇◇◇



「よーし、掃除完了だな」

「最近、手際よくなってるよな。卒業したら、かせいふとか目指せばいいのに」

「いや、大学は行きたいし。美智彦は、そういう夢あるの?」

「別に」


 恒例行事ともなった、美智彦の部屋の掃除。俺は、一通り、散らかったゴミと、洗濯物を洗濯機に入れ、買ってきたコーラをグラスに注いだ。その間、美智彦はベッドの上から一切動かず、ゲームとにらめっこをしていた。ここまで来れば、美智彦がぐーたらで、手伝ってくれないことは分かっているので、掃除の邪魔だけはしないようにいって、俺は黙々と掃除を進める。美智彦のいうとおり、かせいふといわれれば、かせいふなのかもしれない。

 まあ、そんなことはどうでもよくて、俺は高校卒業後、都内の私立大学に進学できればなと思っていた。別に目標とかはない。コスメ系の会社に就職したいというのはあるが、趣味は趣味としてそっとしておきたいのもあり、となると、経済系に進んで一般企業に就職か、とも考えている。どっちにしても、国公立にいける頭はないので私立止まりかとは思っている。母さんは、好きなようにすればいいと、そこまで俺の進路に口を挟むことはなかった。

 興味本位で、美智彦に聞いてみたが、美智彦は答えてくれなかった。


「そういや、片付けてたら、クローゼットから、デッカいキャンバス? っていうの、出てきたんだけど、これ……」

「……っ」


 ビクンと大きく身体が跳ねたかと思えば、美智彦は、もの凄い形相で俺の方へ詰め寄ってきた。驚いた拍子に手があたり、机の上にコーラが広がっていく。


「見た?」

「見たって、え、あの赤い絵?」

「……」

「もしかして、美智彦が描いたとか?」

「…………」

「いや、別に馬鹿にしてるわけじゃなくて」

「中学校の時の絵。今は描いてない」


と、求めていなかった情報まで付け加えて、美智彦は口にした。胸倉を掴む勢いで突進してきた美智彦だったが、意気消沈したように視線を下に落とした。もしかして、触れてはいけない何かだったのだろうか、と俺はどうにか言葉を紡ごうとした。しかし、その時美智彦の余計なことをいう口だ、ということを思い出し、何も言わない方がいいのかと俺は唇を噛んだ。ちょうどきれそうになっていたところが、きれてしまい、鉄の味が舌の上に広がっていく。


「美智彦……」

「……あの絵、何に見えた?」

「何って……いや、しっかり見てないから」

「じゃあ、みせるから、何か言ってみろ」


と、美智彦は、クローゼットをバッと開けて、後ろ向きにおいてあったキャンバスを片手で掴むと、その表面を俺の方に向けてきた。そこに描かれていたのは、真っ赤な街、と赤い鳥……らしきもの。画面一面が真っ赤で、血の海のようだった。炎にでも包まれているのだろうか、この街は。


「街」

「他には?」

「鳥……あと、空?」

「何を感じる?」

「燃えてるな、とか」

「……」

「燃えてない?」

「僕の目に映った綺麗な景色。別に、燃えてるわけじゃない」


 そういって、美智彦は絵を床に置いた。その間も、美智彦は絵に視線を移すことなく、何かを探すように、または、見ないようにと視線を漂わせる。

 燃えているような真っ赤な絵。けれど、そこにオレンジや、黄色といったものが混ざっているわけではない。純粋に、『赤』と呼ばれる色だけで構成された絵だった。初めて美智彦に塗ったあの口紅のようなルージュで描かれている。


「……普通そう思うよな。赤から連想するものなんて、それくらい。燃えてるとか、太陽とか……さ。これ描いてたとき、コンクール狙ってた。昔の話だけど……これ、見た教師、何ていったと思う?」

「え、美智彦の、むかしばな……先生が何言ったって? 赤い……とか? いや、これじゃ、普通か」

「戦争の絵でも描いているのかって」

「戦争」

「普通の人間には、そう見えるらしい。お前はどうか知らないけどさ、確かに、街も空も赤く描いて、おまけに鳥がそこを飛んでいる。戦闘機の風刺か? っていわれて。そんなつもり一切なかったのに」

「美智彦?」

「……他の絵、捨てたけど、僕は赤だけで絵を描いてた。お前も好きだったよな、赤」


 そういって美智彦は、顔を上げた。久しぶりにしっかりと彼の顔を見た気がする。美智彦の瞳には、涙が溜まっているように見えた。それが、照明の光を受けてキラキラと反射する。きっと美智彦にとっては辛い過去だっただろうに、その顔がとても美しく見えた。


(――って、何考えてんだよ。真剣に話してくれてるのに)


 元はといえば、俺が美智彦の隠していた? 絵について触れたことが原因で、少しだけ、俺に心を開いてくれた美智彦が初めて話してくれた昔話で。真剣に聞かなくちゃいけないのに、美智彦の見せた表情が、グッとルージュの唇を噛み締めたその顔が、酷く美しかった。

 俺は、そんな邪念を払うために、美智彦の絵を見た。街が燃えているといっても、その街の家屋は、煉瓦で作られており、ヨーロッパを思わせるもので、空も、夕焼けといった感じではなくて、青をそのまま赤色に置き換えたような色をしていた。そして、飛んでいる鳥も、自由に空を飛び、遠くに見える高い太陽を目指しているようにも見えた。何というか、自由で、赤色一色で描かれているのに、その赤が無数にある気がして、多分常人の俺じゃあ理解できないんだろうけど、これはそういうアートなのだと思った。

 赤、ルージュで描かれた絵画。


「そう、だな……俺も、赤好き、かも」

「だろ。だからかも知れない。お前のこと受け入れたの。いや、今も、変なやつだって思ってるよ。でも、僕も……同じ、変人の部類かも知れない」


と、美智彦はいって自傷気味に笑う。


 変人、といわれたのは癪に障ったが、それ以上に、美智彦が何故人を避けていたか、というのが分かった気がして、俺は、それに歩み寄るべきだと思った。同類と、そう見てくれているのなら、俺から歩み寄るべき何じゃないかと。


「変人でいいよ」

「は?」

「いや、美智彦が、初めて俺に自分のこと話してくれたなあって思って。ちょっと、感動というか……てか、絵はもう描かないのかよ?」

「……中学校の時、それで揉めた。教師……顧問と。僕の見える世界を、描く世界を理解してくれる人が周りにいなかったから筆を折った。部活もそれでやめたし、もう絵を描くつもりはない」

「勿体ないよな」

「それは、僕が決めることだし。お前には関係無い。あと、単純にゲームしてたいし」


 美智彦はそういうと、キャンバスを片付け始めた。こいつにとっては、もう終わった過去であって、掘り起こすほどのものでもないのだろう。自分の中にとどめ、それで完結している。確かに、俺がすぐに美智彦の描く赤い世界というのを理解できるかと言われたら、確かに理解できないと思う。だから、安易に、理解したいとそう踏み込むのはいけない。あくまで歩み寄るだけで。

 俺は、名残惜しく思いつつも、美智彦が片付ける姿を見ていた。もう書かないと言ったくせに残している絵。丁寧に、クローゼットの扉や、他のものと当たらないように立てかけて、それから扉を閉める。過去に蓋をするように。


「で、今日はいいの?」

「いいのって、何? え?」

「……口紅。また持ってきたって、朝いってた」

「ああ、覚えてたんだ。そ、そうそう! 今日は、ちょっと暗めの色。俺が塗ると、けばけばしくなっちゃってさ。美智彦なら似合うかなーって持ってきたわけよ」

「はあ」


 美智彦は、ベッドに腰掛けて、自身の唇を触っていた。相変わらず潤った、形のいい唇に俺は今日もほれぼれする。

 いつものように、手の甲に口紅を塗り広げ、パウダーを馴染ませ、美智彦の唇に塗る。これでもう、一〇本、十五本目くらいだろうか。慣れてきたはずの、この関係と、動作に違和感は無いものの、毎回初めてのようなそんな感覚になる。

 手の甲のパレットから人差し指で、トントン、と美智彦の唇に映していく。暗い色のルージュは、美智彦の唇にだんだん滲んで広がっていくようだった。さっき見たあの絵見たいに、濃淡のあるルージュ。


「ん……」

「美智彦も慣れてきたよな」

「おまへがつきあわへるからだろ」

「動くなって、ズレるだろ」

「……」


 目を閉じていれば、本当に人形のような美男子が座っているというようにしか見えなくなる。長いまつげが影を落とし、また長い前髪も切りそろえられ、艶やかで。少し白い肌は紅潮すると可愛らしくて、そして主張する唇は――


「――」

「――――っ!?」

「……っ」


 塗り終わって数秒だったか、時間さえおかなかった。吸い寄せられるように、暗いルージュの唇に、俺は自身の唇を押しつけていた。その瞬間、カッと見開かれた美智彦の目とあってしまい、俺は慌てて後ろに下がる。ドン、と机にぶつかり、そのままのりあげ、上に乗ってたお菓子と、空のプラスチックのコップが床に転がる。腰の痛みとは別に、顔が熱くなって、俺は口元を拭った。

 目の前では、ポカンと口を開き、大きく目を見開いた美智彦が、真っ直ぐと俺を見つめている。


「……みち、ひこ……わる……っ」

「霜月?」


 美智彦は、驚きながらも、その指先を、口紅が塗られた唇に持っていき、数度下唇を撫でた。彼の人差し指には、口紅の色が付着し、口の端はきれてしまったように線がいっている。せっかく塗ったのに、と落ち込む暇もなく、俺達は見つめ合っていた。


(俺、今、美智彦に――!)


 謝ろう、今すぐ謝れば……いや、関係が崩れる。そう、やけに回転の速い頭が信号を出していた。なのに、触れたところが熱くて、口紅独特の匂いと質感が、自分の唇にも付着していて、その場から動けなかった。

 そうして、弾かれるように意識が戻ったのは、「おい」という美智彦の震えた声だった。


「わ、悪い……いや、ごめん、ごめんなさい。美智彦、俺、今――っ」

「いや、分かってる。分かってる……大丈夫」

「いや、大丈夫じゃないだろ。俺、今、お前にき――」

「いうな」


と、美智彦は、冷たくいった。


 ああ、終わったな、と感じつつも、何処か期待している自分もいて、彼は震えながらも、唇を手で何度も擦って、その瞳に涙を浮べていた。だが、その顔は真っ赤だった。


「最悪、最悪、最悪……いつか、こうなるんじゃないかって思ってた」

「美智彦」

「……お前、好きなの? 意味分かんない」

「いや、俺」

「……」

「…………」


 ぐしゃりと歪めた顔を見ていると、先ほどの紅潮から一気に身体が冷えていくのを感じていた。自分の趣味に付合って貰っている、友達に、自分は何てことをしてしまったのかなんて。すぐに分かった。顔を見なくとも、したことぐらいは自分でも説明できる。反省、謝罪をしたところで、今、美智彦に何を話しても受け入れてもらえないだろうなと思った。

 俺は、とりあえずコップを机の上に戻し、身の回りと整えて、一番目につくだろう口紅をズボンの中に突っ込んだ。

 美智彦は、口の周りと、目元がぐちゃぐちゃになりながらも、まだその顔を隠すように擦っていた。

 最悪だよな。男にキスされて。いっそ、ここで嘔吐された方が、まだ救われると思った。本当に拒絶してくれれば、俺はきっと一生、こいつに関わる事はないだろうと。逃げのようなものだった。でも、それと同時に、まだ何処か諦められなかった。

 別に、男が好きとかそういうんじゃなくて、単純に――


「……美智彦、ごめん」

「こうなると思ってた」

「……」

「お前、僕の唇見すぎ。あの日」

「あの日?」


と、美智彦は、ようやく落ち着いたようにこっちを見た。怒りや、悲しみといった色が見える、それでもどこか熱に浮かされたような涙目が俺を捉える。


「あの日……最初、お前が、僕の唇がっていって、六千円の口紅塗らせてくれっていった日のこと。あの時も、お前、僕にキスしようとしてただろ」

「……っ、れは」

「あの時、本当は怖くて目、半分開いてた。で、お前の顔が近くにあってびっくりした」

「ごめん」

「……時効だし。けど、今回は、現行犯」

「おう……」

「僕のファーストキス」

「……」

「責任は」

「……とる」

「どうやって?」


 美智彦に一方的に責められていたが、俺は何も言えなかった。言い返したら、きっと全てが言い訳に聞えてしまうだろうと思ったから。

 けれど、ここで関係が終わってしまうのだけは嫌だった。自分がどうしようもないやつだなとおもいながらも、執着しているのが、美智彦の唇なのか、美智彦自身なのか。これが、何なのかは俺にも分からない。でも、ここまできて、友達になりかけている……いや、それもおかしい話で。


(わけわかんねえ……)


 自分がままならない感覚に戸惑っていた。今すぐ床に頭をこすりつけて謝って、それでも許して貰えないだろうけど、謝って。それで、終わり? 違う。

 美智彦の顔が見えないまま、俺は、先ほどとは打って変わってまわらない頭に頼りながら、正解を導こうとしていた。


「奪ったものは、返せないけど。お金でも」

「分かってる」

「……」

「じゃあ、もう、関わらない。これなら、いいか」

「よくないし」

「じゃあ、俺は――」

「とりあえず、一旦落ち着こう。僕も、お前も。今、話し合える空気じゃないだろ」

「……ああ」


 俺は、こんなに内心ぐちゃぐちゃだというのに、美智彦はそうではないようで、淡々と、そういうと、俺の荷物をまとめ始めた。その行動が、ここから出ていけ、というように感じてしまって、俺はチクリと胸を指されながらも、美智彦から鞄と脱いだ制服を貰って家を出る。かかとを踏んだまま、お邪魔しました、と一言いって、振返る。いつもは、面倒くさそうにしながらも見送りに来てくれる美智彦の姿はない。でも、玄関から直で繋がっているリビングで、美智彦が自分の唇を撫でている姿が見えてしまった。また、期待した。

 俺は、自分の浅ましさが嫌になって、ドアノブを捻って、ぶつけるように扉を閉めて家に帰った。早く帰っていた母さんに「早いわね。アンタ、唇どうしたの」と言われたが、何でもない、と部屋に籠もる。

 バタン、と勢いよく閉めて、そのまま扉を背もたれに、俺はしゃがみ込んだ。縮こまるように、足を山の字に曲げ、膝の上に肘を乗せ、顔を覆う。唇を噛めば、口紅の苦い味が広がった。


「さい……ていだな、俺」


 やると思っていた。いつかは、やると。

 自分でもそう思っておきながら、やってしまった。明日、どんな顔をして美智彦に会えば良いか分からなかった。美智彦は学校に来ないかも知れない。ここ数ヶ月築いてきたものが一気に崩壊するそんな音を聞いた気がする。

 頬に食い込むくらい爪を立てて、俺はぼやける視界で暗い自分の部屋の中を見渡す。最近、片付けていなかったこともあり、少し散らかっていた。その様子が、美智彦の部屋と重なってまた嫌になる。


「……口紅、キャップ取れてんじゃん」


 ねちょりとした感覚をおぼえ、ズボンのポケットに手を突っ込めば、キャップが取れた口紅が何かに押し潰されたように変形していた。これは、もう使えない。ズボンも洗っても落ちないかも知れない。


「ついてない……つか、最低だわ」


 ははっ……と、乾いた笑みは、暗い部屋にこだますることなく消えていった。




◇◇◇



「おおぉ……霜月どうしたよ。風邪?」

「いや、ちょっと……唇きれて」

「は? リップ塗ってりゃいいだろ。ああ、俺達男子はそんなの普通は持ってねえか」

「……保湿のため、マスク、な?」


 学校に行けば、普段マスクをしていないためか、同級生に絡まれ黒マスクは似合っていないなど馬鹿にされた。今は、風邪が流行っている季節ではなかったが、ぽつぽつとマスクをしている人はいて、その人は大抵毎日つけている。だから、俺がいきなり黒マスクなんてつけてきたから、物珍しかったのだろう。


(男でも、リップ持ってるやつぐらいいるだろ)


 何で、男は――とか、限定するのだろうか。俺は、突っかかってきたやつの思考が理解できず、でも、それが一般化されていないこともまた事実であると受け止めながらも、嫌な気持ちで席に着いた。ふと顔を上げて、美智彦の席を確認したが、まだ来ていない。昨日の今日だし、休むかも知れない、とは思っていたが、空席を見るとやっぱり、と胸が痛む。

 自分のせいだとは分かっていても、それを受け止めるだけの余裕が今の俺にはなかった。

 結局昨日は、一睡もできなくて、昨日以上に頭が回っていない。午前の授業寝てしまうだろうな、とおもいながら、俺は引き出しに教材をつめる。

 それから、いつも以上にけたたましくチャイムが響き、授業が始まった。午前中は、予想通り爆睡し、ノートにはミミズ文字がくねくねとしている。午前中、数学がなかっただけ幸いか。

 そうして、あっという間に昼休みになったが美智彦の席は空席。今日は、こないだろうな、と久しぶりに一人で昼飯を食べるかと、手を洗うために席を立つ。

 いつもは、ウザ絡みだと分かりつつも、美智彦がいて、一緒に昼飯を食べて、美智彦に怒られて。そんな日々を送っていたせいか、物足りなかった。誰かと食べることもできたが、どこを見ても、グループになっていて、俺の入る隙間はないな、と何処か諦めのようなものを抱いていた。思えば、本当に、俺は美智彦しか友達、親しいと言える人間がいないのかも知れない。別に、これまではそれでも良かった。けれど、美智彦と関わりだしてから――


「……っ、わ、るい。前見ていなくて。美智彦?」

「……お、はよう」


 教室の扉から出ようとすれば、前を見ていなかったためか、人とぶつかった。俺の不注意で、と謝ろうと顔を上げれば、そこには鞄を背負った美智彦がいて、気まずそうに俺を見上げていた。顔色は、いつも通りだし、唇も……


(――って、俺は、また……)


 懲りずに、また美智彦の唇を見てしまう。それを察してか、美智彦はさっと唇を覆った。


「美智彦、俺――」

「ここ邪魔だから、中はいらせて」

「……お、おう」


 美智彦の後ろにも、俺の後ろにも人が集まっており、早く退くよう美智彦に急かされる。周りが見えなくなっていた自分を恥じつつ、席に鞄を置いて、俺の方を見た美智彦の顔はやはり陰っているように見えた。また、軽快しているようで、常に眉間に皺を寄せている。


「今日、学校こねえと思ってた」

「……朝、病院行ってただけだし。てか、お前隈酷いけど」

「寝れてない」

「……あっそ」


 心配するようなめをしつつも、冷たく離され、やっぱり怒っているよな、と現実を突きつけられる。美智彦の行動一つ一つが刺さって辛かった。自分が招いた結果ではあっても。


「放課後、家、僕の家、くる?」

「え、なんで」

「話し合うなら、そっちの方がいいだろ。僕の家、ひとり暮らし用のだし」

「いいのか?」

「いいのって、話さなきゃダメだろ……もう一回、ちゃんと」


と、美智彦はいって、唇をなぞった。


 怒っているんだろう、軽蔑しているんだろう、でもその指の腹で唇をなぞる行為が、どっちを意味しているのか分からなかった。俺自身もどんな顔で、美智彦を見れば良いか分からず、なるべく見ないようにと心がけるしかなかった。しっかりと、反省しているという意思表示として。

 そんなふうに、お互い気まずくしていれば、朝絡んできたやつが、俺の肩にのしかかってき、「なーにしてんだよ」と、脳天気な声で話し掛けてきた。


「お前ら仲良かった?」

「うるせえ。今、そういう空気じゃねえだろ」

「喧嘩してる? てか、柊木って喋れるんだな。喋ったとこ見たこと無くてさ」


 などと、ぺちゃくちゃと空気を読まない調子で話を続ける。これには、美智彦も顔をしかめ、俺に助けを求めて来た。美智彦は陰キャだし、こういう一般的な陽キャは苦手なんだろうな、というのが伝わってきた。正直、俺もこういうやつは苦手だ。話すが、別に話は面白くない。

 だが、俺達の空気を読めないそいつは、美智彦にもちょっかいをかけようと、俺の肩から腕を退け美智彦の方にむかって歩き出した。分かりやすく、美智彦の方が揺れ、俺は咄嗟に手を伸ばしたが、ガタン、と美智彦は、椅子に腰をぶつけ、その拍子に彼のポケットから黒い小さな箱のようなものが落ちた。


「何だこれ」

「あ、それは――」

「リップ?」

「あ……」


 俺の口からも、驚きの声が漏れた。それは、俺が初めて美智彦に塗った六千円のリップで、確か、美智彦の家に置き忘れていたやつだった。

 陽キャの野郎はそれを拾いあげ、美智彦の方を見た。美智彦は、顔を青くして固まっていた。それをみて、核心を突いた、とでもいわんばかりに陽キャはそのリップを美智彦に差し出した。


「まさか、柊木にこんな趣味が――」

「そ、それ俺のだから」


 頭よりも、手よりも先にそんな言葉が出た。何も考えずに張り上げたものだから、食事をしていた同級生の視線は一気に俺に注がれる。それでも、ここで何も言わないわけにはいかず、俺はそのまま陽キャ野郎から口紅を奪って自分のポケットに突っ込む。


「これ、俺の。ほら、俺、母親がデパ地下の化粧品コーナーで働いてて。それ、母さんので。この間、美智彦の家に行ったとき、置いていっちゃってたんだよ。俺、あの後母さんに怒られてさあ。テスターで、家で試し塗りしようとしていたの二って、はは。サンキューな、美智彦」

「……霜月」

「なーんだ、そうだったのか。柊木、疑ってわるかったな」

「え、あ……うん」


 拍子抜けしたような、そんな声で美智彦は陽キャ野郎に肩を叩かれていた。その間も、何が起きたか分からないように、でも叩かれたときは分かりやすくピクンと身体が揺れていた。でも、その目は俺だけを見ていて、先ほどの陰りもなくて輝いていた。


「美智彦、それで……」


と、嵐が去った後、俺は美智彦に話し掛けようとしたが、それを阻むように、近くにいた女子たちが一気に俺の周りに集まってきた。


「霜月君のお母さん、デパ地下で働いてるってほんと!?」

「テスター、私も試し塗りしたいかも。高いやつでしょ?」

「いいなあ。霜月君は使わないんだから、ちょうだいよーなんか、お母さん言いくるめたりしてさ!」

「い、いや……高いし、貰えないんじゃな。てか、俺がどうやって言いくるめんだよ!」


 適当にあしらって美智彦に話しかけに行くつもりが、その後も、逃がさないと、ハイエナのごとく目を光らせた女子たちに絡まれてしまい、俺は美智彦に喋りかけにいけなかった。そんなこんなで昼休みは終わる……はずだったのだが、口紅を持ってきたと先生に呼び出され、説教を喰らってしまった。それも、あの老害数学先生にだ。しかし、責められる俺に助け船を出してくれたのは、美智彦で、美智彦は、忘れ物を届けただけだ、と、そう後から証言してくれた。




◇◇◇



「――昼間言えなかったけど、サンキューな」

「僕を助けたのは、お前だろ。僕は証言しただけだ」

「……それでも、あのまま長いこと説教されてたらと思うと、さ。だから、ありがとな」

「別に」


 放課後、約束通り、美智彦の家に来た。

 テーブルを挟んで向かい合い、その上にはコーラの入った透明なプラスチックのコップが二つ置いてある。広げられたポテトチップスには手を付けておらず、俺も美智彦も、何から話せばいいか、切り出し方が分からない空気だった。

 昼間の一件もあって、少しは話しやすくなったと思ったが、いざ二人きりになってみると、やはり話すのは困難だった。忘れかけるが昨日の今日。忘れようにも忘れられない、あの鮮明な記憶は、互いに残っているはずなのだ。被害者である美智彦は尚さら――


「霜月」

「は、はい、なに!?」

「そんな、大きな声出されても困るんだけど。はあ……」

「た、ため息……いや、ほんと、ごめん。昨日は。友達、やめたいよな」

「友達」

「えっと、友達じゃなかったっけ。俺ら」

「僕は、友達とか考えたことない」

「……」


 そう美智彦は一言いうと、コーラを飲んだ。

 友達じゃない、その一言は俺にとってはかなり痛く重いもので、俺は、美智彦の友達だと勝手に思い込んでいた。あれだけ一緒にいれば、秘密を共有していれば。でも、それはただ俺が描いた理想像だったと痛感する。

 友達だと思っていたのは、俺だけ。

 俺が視線を下に落とせば、美智彦はハッと顔を上げ、コップを叩き付けるようにおいた。


「友達じゃない、とかいってないし」

「いや、今の文脈からそれは無理あんだろ! まず、友達には、キスしねえから」

「……それは、その通りだけど」

「じゃあ、友達じゃない」

「お前がそれ否定したら、本当に友達じゃなくなるだろ」


と、美智彦はいって俺の額にデコピンを喰らわせてきた。それも、かなり溜めて弾いたもので、額にじんとした痛みが走る。いてえ、と抑えながら顔を上げれば、呆れたような美智彦の顔がそこにあった。そして唇が。


「また見てる」

「……っ、ごめん。俺、本当に……癖。直せない、かも。やっぱ、気持ち悪いよな。ははっ、こんな趣味とか、性癖とか」

「まだ何も言ってない」

「でも、毎回注意してくるから、美智彦が。そうなのかもって思うじゃねえか」

「そりゃ、普通に恥ずかしいから」

「恥ずかしい?」

「恥ずかしいだろ。見られたら」


 そう消え入るようにいうと美智彦は、頬を染めて俺の方を見た。


 恥ずかしい――


 そう言われて、美智彦にも恥ずかしいという感情があるのか……とどうにも、似合わないその単語に俺は困惑していた。だから、その言葉をしっかりと、受け止めきれていなかった。


「なんかいえよ」

「いや、だって、美智彦に、そんな恥ずかしいとかいう感情あったんだって」

「僕のことなんだと思ってるの」

「……陰キャ」

「……」

「ごめん、そうじゃなくて、あー……そーだよな。見られたら恥ずかしいところくらいあるよな。俺だって、裸見られるの、親にでも嫌なのに」

「それと、これとはまた違うだろ」


 ごめん、といいながら、ようやく俺は美智彦の顔をしっかりと見れた。恥ずかしがっている、赤い顔。そこに、いやとか、気持ち悪いとか、そういう感情は一切になかった。本当に、単純に恥ずかしいと訴えかけてくるような表情に、俺は、また手が伸びていた。


「……っ、と。ごめん、俺また」

「お前、僕のこと好きなの?」

「は?」

「いや、ごめん、今のは忘れて」

「いやいや、今のって。好きって……その、ライク? ラブ? え、どっち。あの、キスは、その、ほんとお前の唇が素敵だなっていう無意識で」

「じゃあ、ライク?」

「ライク?」

「ラブじゃなくて?」

「美智彦は?」

「僕?」


 質問を質問で返すことが、一番楽だと、逃げに走ってしまった。それがよくなかったと思ったのは、美智彦が眉間に皺を寄せてからだった。

 好きか、とどういう意味で聞かれたのか。反射的に、ライクだと答えたが、実際の所どうなのか。俺は、美智彦のことを友達だと思っていた。美智彦は、違うのか。だったら、美智彦は何を俺に求めているのか。


「僕は……教えない」

「何でだよ」

「お前が、はっきりしないから」

「はっきりって……でも、ほんと、あのキスは」

「キスキスうるさい。もう、いい、怒ってない。それだけ、いいたかったから」


と、トン、と胸を押される。


 でも、その一言が、たった一日だったけど、俺に繋がっていた鎖を引きちぎった気がした。

 そっか、と俺の中でぷつんと糸が切れたように、その場にへたり込む。美智彦が、大丈夫か? と、上から声をふらせてきた。その声も、先ほどと違って、少し明るいような気がした。


「もう、怒ってない? 美智彦は」

「何」

「……いや、許してくれたのかなあって思って。だったら、嬉しい」

「はあ?」


 呆れたような怒ったような声も、いつも通りな気がした。

 俺は声を上げて、綻んだ笑顔を美智彦に向ける。美智彦はぎょっと目を剥いたが、すぐに口を覆った。


「なんで、口覆うんだよ」

「お前、またキスしそうな顔してたから」

「どんな?」

「知らない」

「てか、美智彦の方が――」

「僕の方が何?」

「いーや。いったら怒られそうだから、いわねえよ」


 俺がそう言えば、また「はあ?」とドスのきいた声で俺を睨み付ける。

 今はまだ言わないでおこう。


(キスして欲しそうな顔、してんのそっちじゃん)


 俺も、そんな顔見たら、またキスしたくなる。これが、どういう意味を持ったキスなのか、俺自身分からないけれど、こいつと関わっていくうちにその答えが出るかも知れない。だから今はただ、友達として、この秘密の関係を続けていけたらと思う。


「美智彦」

「何だよ。霜月」

「はじめにぬらせて貰った、この口紅、もう一回ぬらせてくれねえ?」

「……いいけど、まず、家、掃除」

「プッ、確かに。昨日の今日で、なんでこんな汚くなるんだよ」


 コーラのペットボトルが散乱し、脱ぎ捨てた下着やシャツが足下を覆う。昨日食べたカップ焼きそばの匂いが立ちこめる部屋の中、俺はビニール袋をとって立ち上がった。


「霜月」

「何? 美智彦」

「ベッドの上も綺麗にして。ぐちゃぐちゃ」

「お前が、ぐちゃぐちゃにしたんだろ」


 ポンポンと、叩かれ、ベッドに手招きされているみたいだった。俺は、シーツも、毛布もぐちゃぐちゃになって、床に流れ落ちそうな美智彦のベッドの上に足をかけて、美智彦が寝ていたベッドを綺麗に直した。その間、美智彦は、転がっていたペットボトルだけ、袋に入れて、部屋の端でゲームをしていた。それから、数分後には綺麗さっぱり、足の踏み場もある部屋に生まれ変わった。


「不意打ちしたら、殺す」

「え、何が?」

「早くしろ」


 ベッドサイドに腰掛けた美智彦に、いつものように指示される。

 俺は、口紅のキャップを外し、手の甲でパウダーと馴染ませ、指につける。そのルージュを、艶やかで、少し小さい美智彦の唇に優しく押し当てた。


「動くなよーズレるから」

「はいはい」

「フッ」

「何笑ってんだ!」

「いやあ、毎回目、閉じるから。じゃなくて、喋るなって。ズレるだろ?」


 馴染ませて、それから、直接ルージュを引いて、また上から縁取って。塗り終わった美智彦の唇は、過去一のできばえだった。同じ色のはずなのに、いつもより鮮やかに、そのルージュが輝いている。

 美智彦に鏡を渡せば、いつ見ても慣れないな、みたいな顔で鏡を見たが、フッと口の端を持ち上げていた。満足そうに、呆れ笑うような、でも、あどけない笑顔で――


「すっげえ、綺麗」




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