名前のない魔剣1
見上げていると首が痛くなるほど高い天井を眺めていたエリオットは、よく見るとそこに模様が刻まれている事に気が付いた。何を表しているかまでは分からないが、きっとその形にも意味があるものなのだろうと予想する。
セレイア地区は帝都の文教エリアと言われており、学校や研究施設などが多く集まっている。地区の中央に建てられている神聖教会の大聖堂はセレイアを代表する建造物の一つだ。その歴史は大盟約より以前というのだから相当長い。所属する神官が全員男性であるのもかつて男女で仕える神殿が分かれていた伝統の名残りで、同様に女性神官のみの大聖堂はカルデナント女王国にある、とはエリオットが地下鉄に乗っている間にネット検索で得た知識だ。
帝国は広く信仰の自由を認めており国教も定めていない。帝国は現存する国家の中で最も長い歴史を持っているが、その成り立ちからずっと皇帝が絶対的な規範であり支配者であった証でもある。他にも、領土が広く長い間多種族が共存してきた経緯からも、それぞれの文化や習慣に対し良くも悪くもフラットな対応をする環境があったので、そもそも宗教そのものについて他国よりはずっと馴染みが薄い。簡単に言うとこだわりがないというか本質的な意味で無神論者が多いのだ。
そんなわけで世界最大の宗教組織で、各国の多くの有力者が信者となり、中央大陸に自治区まで有する神聖教会であっても政治に関係するなんてことは当然全くなく(法でも政教分離が明確に記されている)帝国においては他と同じ普通の一信仰対象の位置づけだ。
エリオットが今入口に立っている大聖堂も本来は古来より続く土着信仰の女神を祭るものであったものだが、件の女神信仰が神聖教会の基になっていることから、中世以降次第に教会の祈りの場となっていったと歴史の教科書には書いてある。神聖教会の本拠地である中央大神殿を除けば他国にある最大の神殿がこのセレイア大神殿なのだから、そういった意味でも、帝国内で神聖教会そのものへの関心がさほど強くない事実はさておき教会側としては重要な拠点の一つとなっていた。
その荘厳で重厚な大聖堂に本日エリオットが平日真っ昼間より訪れた理由は上司であるルーカスに頼まれた物を受け取るためである。いわゆるお使い業務だ。
長引いた会議の隙間に連絡してきたルーカスから受け取り物がなんなのかについては生憎聞けなかったが、ついでに昼休憩でもして来いと言われたくらいなのでそんなに難しい物ではないだろう。
セレイア地区は学生や研究者が多いこともあって、お洒落なカフェからファストフードに大盛りが売りの定食屋まで色んな種類の飲食店が揃っていた。しかもリーズナブルなところが多い。安全な任務にホッとしつつ、久しぶりの本部職員食堂以外でのランチにエリオットは何を食べようかと少々ワクワクして席を立ったのだった。
正門でセキュリティチェックを受けたついでに身分証の提示と用向きを伝える。既に話は通っていたのか、警備員の「エントランス付近でお待ちください」の言葉に従い、大聖堂に一歩を踏み入れたエリオットは、その内部の思いがけない広さと少しヒヤリとした空気に自然と立ち止まった。
何本もの大きな石の柱が支える天井は遥か高く重厚で、緩くアーチを描いている。正面には祭壇があり、その背後の壁には大きなパイプオルガンが配置されているようだ。両脇に大小幾つもある窓からは陽の光が差し込んでおり、シャンデリアの明かりと混ざり合って石タイルの床に複雑な模様を描いていた。
静謐な空間というのだろうか。
外界とは切り離されたように思える場の雰囲気に、エリオットは素直に感動していた。
現在帝国に暮らしてはいるものの、自身も家族も信者ではないこともあってあまり縁が無く、エリオットが大聖堂を訪れたのはこれが初めてだった。今回のお使い任務がなければこれからもなかったかもしれない。
観光や文化財の観点からもかなり有名な場所だとは知っているが、比較的近くにいるからいつでも行けると思うとなかなか訪れないものである。観光地付近在住者あるあるだ。
そんなわけで入り口から一歩入った先の、邪魔にならない壁際にてぐるりと視界を動かしながら内部を眺めることに熱心になっていたエリオットはすっかり気を取られており、横から近付いてくる人影に全く気付いていなかった。
「貴公が帝国中央捜査局からの客人だろうか?」
唐突に掛けられた声にエリオットは比喩ではなく10センチは飛び上がった。出掛かった悲鳴を両手で抑え込み間一髪、抑えられたのは日ごろの捜査官としての訓練の賜物かもしれない。察知能力の方は残念ながらあまり培われていないようだ。
手で口を覆ったまま、横を伺ったエリオットの目に、数歩ほど離れた距離に立つ一人のローブ姿の青年の姿が映る。薄暗い堂内でも輝いて見えそうなほど整った容姿だ。その綺麗な顔で惜しげもなく目を見開いている様子から分かるように今のジャンプを見て驚いているのは間違いない。それはそうだろう。特に大きいわけでも意図があったわけでもなく普通に声をかけた相手がいきなり口を抑えて飛び上がったのだから。エリオットでも驚く自信がある。
「ふぉ、ふぁい…」
思わず両手を外すのも忘れふごふごと返事をするエリオットに対し、青年はすぐに平静を取り戻すと口元に手を充てクスクスと吹き出す……どころでなくアハハと豪快に笑い出した。エリオットの顔が急激に真っ赤になったり真っ青になったりする。よく見たら青年だけでなく、たまたま付近にいたらしいご婦人や老紳士達にも和やかにクスクスされていた。とんだ赤っ恥である。いくら集中していたとはいえ、いや、そもそも仕事中に気を取られている事が問題ではないかとあれこれぐるぐると脳内で考えながらようやく手を横に戻したエリオットは、改めて体を青年に向けると恥かしさを誤魔化す意味も込めて勢いよく頭を下げた。
「ッ失礼しました!中央捜査局から来ました、エリオット・オーウェンです!」
「いや、こちらこそ笑ってしまってすまない。私はベネディクト・テスレイという。宜しく。」
パッと差し出された手を慌てて握り返す。
なんというか、明るくてハッキリとした気持ちのいいタイプだ。少なくとも怒ったり機嫌を損ねたりはされてないと見ていい。助かった!とエリオットは内心ホッと息を吐いた。
「では捜査官。早速だが、こちらに来てくれるだろうか」
「はい。分かりま――」
「テスレイ枢機卿!」
ベネディクトの先導でエリオットがどこか場所を移動しようとした時だ。
幾分抑え気味とはいえ背後から聞こえた小さくない声に、二人は揃って振り向く。視線の先、廊下の向こうから初老に近い年齢くらいのローブ姿の男性が慌てた様子で走り寄ってきた。
「おや、大司教。壮健なのは結構だが聖堂内を走るのは褒められないな」
男性に手を上げ、咎める意思は感じられない軽い口調で答えるベネディクト。
エリオットは邪魔にならないよう一歩退いたところで、瞬きを数回繰り返した。聞き間違えじゃなければ今彼は『大司教』と言わなかっただろうか?
(それに、確か)
ベネディクトの台詞で、周囲から控えめな視線を受けている事に気付いた大司教と呼ばれる男性が急いで姿勢を正す。小走りをゆったりとした足取りに変えると、ベネディクトの前までそのまま真っ直ぐ進んできた。
「テスレイ枢機卿!お部屋にいらっしゃらないのでお探ししておりましたよ」
「ああ、それはすまない」
額に汗を浮かべた大司教の控えめな嗜めにもベネディクトは全く気にするつもりはなさそうだ。案内は私共がいたします、いや私がしたいのだ、などなど。目の前での会話を壁と同化しながら聞いていたエリオットは瞬きの回数を更に多く早くしている。
これはもう間違いようがない。後から来た初老の男性は大司教で、ベネディクトは枢機卿で確定だ。
この大聖堂を管理しているのが大司教であるのは教会に馴染みのないエリオットでも知っている。つまり男性はここで一番偉い人という事になるわけだ。更に枢機卿といえば大司教よりも上の位で、教皇に次ぐ地位とされている。故に神聖教会内でも厳選して選ばれた数人しかいないのだと歴史の講義で聞いたことがあった。当たり前だが教会の大幹部である。
物を受け取るだけとしか聞いていないが、もし万が一にでも何か不都合があった場合、下手をすれば帝国と神聖教会との問題に発展しないとも言い切れない。
正直な話、お使いだと思い完全に油断していたエリオットは出来るだけ邪魔にならないよう気配を消しながら、瞬きのしすぎで痙攣している瞼をそのままに張り付いたような笑顔を浮かべていた。
通りでルーカスが、音声のみの通信にした上で申し訳なさそうに代役を頼みながらも最後の方は「ゆっくり休憩してこいよ!」なんて語尾に星が三つはつきそうなくらい楽しそうに送り出すわけである。しかしながら、例えその場で異変に気付いていたとしてもおいそれと断れないのは新人部下の悲しい定めなのだが。
ちょうどその頃、部下に厄介な任務を代わって貰えるならつまらない会議もたまには役に立つなぁなんて呑気に考えていたルーカス・ハルベリー上級捜査官が、室内に響き渡る程の特大くしゃみをしてしまい、それが彼を訓練校時代より勝手にライバル視している相手の発言の最中だったことから、また強力に睨まれることになったのは余談である。
■■
結局、大司教が無理矢理押し切られて折れる形となり、ベネディクトの後についていく事になったエリオットが案内されたのは大聖堂の奥にある回廊を抜けた更に先の廊下を下ったこじんまりとした四角い部屋だった。
大司教の、せめて付き人を!という声もいなされ途方にくれている顔に非常に恐縮しつつも、勝手ながら同じ部下としての親近感を覚えてしまったのはエリオットだけの秘密である。
応接室というよりは取り調べ室といった方が似合いそうな窓のない室内にはランプの明かりの他に光源はない。聞けば大聖堂全体としてエーテルが通っている場所は少なく、殆どが中世の頃と同様に動力には魔石を用いているとの事だった。
端と端に寄っても数歩で届いてしまいそうな空間で木製の机を挟みベネディクトと向かい合ったエリオットは、なんだかこれから尋問されるような心地を覚え小さくぶるっと震える。初対面時の失態を考えると絶対に無いとは言えないのが悲しいところだ。
「寒いかな?すまない。あまり人目につかない部屋が好ましくてね」
エリオットの懸念を別の意味にとらえたらしいベネディクトが気遣わしげに眉を顰めエリオットを覗き込むように見遣る。
「いや!大丈夫です!!」
慌てて両手を振ったエリオットの様子にベネディクトは一つ頷くと、二人の間にある布に包まれたものへと目線を向けた。合わせてエリオットも彼の視線を追う。
細長いそれは、ちょうど机と同じくらいの幅がある。目算でエリオットの身長の八割位にはなりそうだ。ベネディクトが机に据え置いた時の音を考えると素材は金属だろう。それも結構な重量のあるものだ。棒状で金属製の何かといえば園芸用の鋏か、杖か。
「……剣、ですか?」
伺うようなエリオットの言葉に、ベネディクトが満足そうに眉を上げる。
「その通り」
言いながら、覆っていた布を片手で捲る。するりと滑るように払われた布の中から現れたのは、飾り気がまるで無い細長い片手剣だった。ざっと観察してみるが、エリオットの目には特に変わったところがないように見える。尤も剣など博物館や教科書でしか見たことがないのだが。
少し顔を近づけて見ると光の加減によって銀色から僅かに翡翠色を帯びているように思える。それを咄嗟にチョコミント色だなと思ってしまったのは、エリオットの脳内の端に、前回の休日に遭遇したとある事件の過程でアイスクリームの割引チケットを無駄にしてしまった切なさが残っているからである。食い意地が張っているともいう。
顔は下に向けたまま目だけを動かしてベネディクトを見遣ると、エリオットの反応を見ていたらしいベネディクトの深い青色の瞳と視線が合う。キュッとレンズを絞るように瞼を細めたベネディクトが、目を逸らさないまま殊更ゆっくりと確かめるように口を開いた。
「ただし――『名前の無い魔剣』だ」
ランプの火がゆらりと揺れる。
奇妙な程に傷ひとつ無い鞘には、エリオットの驚きに満ちた顔がうっすらと映し出されていた。