エリオット・オーウェンの休日1
今回から新しいエピソードになります。
その日、ルーカス・ハルベリー上級捜査官はいつも通りに出勤し、特異現象捜査室のオフィスにある自分のデスクに腰かけていた。その片頬もいつも通りに棒付きキャンディーで膨れている。今日はオレンジ味だ。
眠そうな目で見つめている机上のディスプレイには、先日、部下であるエリオット・オーウェンから提出された北方大公領の街エルクランでの騒動に関する報告書が表示されている。
「ほぼ冒険旅行記だなこれは」
もちろん、エリオットは真面目に報告書を書いているのだが、内容についての感想としては十人中八人くらいはルーカスと同じになるだろう。
「で、黒幕とやらについてはまだ分かってない。と」
エリオットからの報告とは別に、軍当局の方にもその後の調査について訊いてみたところ、一応報告書のようなものが送られてきてはいる。ルーカスは手元にある2つの報告書を並べて画面に表示してみた。
軍サイドからの報告によると実行犯の吸血鬼の裏に彼を手引きした者がいるのは確からしいが、それが誰なのかについては調査中らしい。
当局が短い報告書の中で本当の事を教えてくれているかどうかはさておき独自に聞いた『噂』によると、犯人の吸血鬼男に黒幕について聞いても、そういった存在が居たことは覚えてはいるが誰なのかや特徴などについては分からないと答えているらしい、とのことだ。精神分析や深層記憶検査等々の結果も芳しく無いとの噂も聞いているし、何らかの術がかけられているのか暗示なのか怪しい薬なのかは謎だが、本当だとすれば裏にいるのは相当に周到で面倒くさい相手のようだ。個人ではなく組織である可能性も出てくるだろう。
出来ればなるべく今後関わりたくないなと思いながら、ルーカスは軍の報告書をデータ上から完全に削除した。
ともあれ、特異対としてはハルベルトが同行していても普通に接することが出来て、問題を大きくすることもなく、不興を買う事もなく、それどころか幸か不幸かはさておき気に入られて、無事任務を完了出来たのだからそれだけでもエリオットを褒めるべきに違いない。
事実、ルーカスがノーガードでハルベルトの近くにいたとすればその圧倒的な存在感に中てられ吐き気程度では済まないだろう。尤もハルベルト側が人界では無害になるように装っているようだから実際はそこまで心配はないのだけれど、知っているからこそどうしても一線を引いてしまう。
ルーカスは分かった上での反応だが、何も知らない一般人は元より魔力耐性の値が高いとされる者であっても所謂第六感と呼ばれる類にあたる本能の危機感からハルベルトに対し無意識下で畏怖の念を抱いてしまい自然にふるまうことは難しい。それに関してはハルベルトが完全に人に溶け込めるよう装いを調整すればいいだけな気もするが、彼は彼で面倒を回避するために、わざと微かに本性を匂わせるように調節しているので性質が悪いといえばそうなのだが。
エリオットのあの、そのあたりのことがまるで何も気にならない鈍感さは、耐性の高さを抜きにしてもある意味称賛に値する。自覚がない本人にとってみればそれこそ何の話だか分からないだろうけれど。
「……ん?」
不意に通信を知らせる通知が表示される。しかも緊急のものだ。
朝っぱらからやれやれなどと思いながらもルーカスは素早く飴を口から出し応対する。
「こちら特異現象捜さ……ちょっと声量下げてくれ。で、失せ物探し??……あぁ、なるほど。了解した」
相手は新人なのか慌てすぎてほぼ一方的だった通信を終え、右手にキャンディーを持ったルーカスは情報を集めるためキーを操作しつつ口を開く。
「おーい、エリオット。任務だ。なんでも第二界の――エリオット?」
いつもならすぐに返ってくる声がない事に彼の机を見遣ると、そこにいつも座っている部下の姿がない。そこでようやくルーカスは思い出した。
「そういや、休みだったな」
小さくため息を吐き出したルーカスはやれやれと呟きつつ、椅子をきしませて立ち上がった。
帝都の北西。
政府機関の多くが集まるクラン地区。
クラン地区から地下鉄で一駅、徒歩でも通える場所に何棟か建てられている、白く清潔感のある外観の官舎……ではなく、その奥の方にひっそりとある古いレンガ造りの建物の一室に、エリオットは中央捜査局入局以来から住んでいる。
蔦がそこかしこに這っている外観は良く言えば趣がある。だいぶ老朽化しているように見えるがこの旧館も一応立派な公務員宿舎なのだ。厳選たる官舎の抽選で新館から外れた者の住む所ではあるが。
旧館の2階、奥から2つ目の1LDKがエリオットの部屋である。
「フんガッ」
つまりその部屋の寝室から聞こえる何かが潰れたような声は部屋の主、すなわちエリオットのものだ。
容赦なく2回踏んづけられた鼻をさすりつつ、まだ半分以上寝ている意識でもって視界を薄らと開いたエリオットは、枕の横でお行儀よく座っている愛猫の姿に目を瞬いた。
「……クロさん……」
寝起きのしょぼくれた声で『クロさん』と呼ばれたその名の通りの黒猫は、毛足の長い尻尾で何かを訴えるようにタンタンとシーツを叩く。
少しの間、ぼーっとしていたエリオットはクロさんの青い目が待ちきれずきゅうと細められた頃になって急にハッとした顔で飛び起きた。
「し、仕事!遅刻!!」
壁に掛けられた時計の示す時刻は始業時間である9時をゆうに30分は過ぎている。
あわあわしながらエリオットが寝巻きがわりのTシャツを脱ごうとしていると「うにぁあ!」というクロさんの不機嫌そうな声が聞こえてきてまたハッとする。
「ああ!そうかクロさんの朝ご飯!ご、ごめん!休みだと思ってつい寝過ごしたか……ら……」
自分の台詞に自分でハッとするエリオット。起きてから三度目だ。
「そうか、今日は、休みだったぁ」
思わずヘナヘナと力が抜けてベッドに座り込む。そのままパタンと背中を倒す。
エリオットは本日物凄く久しぶりの休日だった事を自分の台詞で思い出した。どれくらい久しぶりかというと寝起きにウッカリ忘れるくらい久しぶりである。
ベッドに投げ出されたエリオットの腕に、クロさんが身を寄せる。その頭を優しく撫でてから、エリオットはぺこりと頭を下げた。
仕事の遅刻は免れたが、同居人(猫)の朝ご飯が遅れたのは事実である。
「本当にごめんね、クロさん」
そうして、少し勢いをつけてベッドから立ち上がるエリオットに合わせ、クロさんもぴょんと床へと降りた。
あくびを噛み殺しながら、エリオットがキッチンの棚からキャットフードの箱を取り出し、カリカリをクロさんのご飯用に用意している陶器の皿に入れる。足元ではクロさんが早く早くと急かすように見上げながらスリスリしていた。スネに触れるフワフワした猫毛のくすぐったさがなんだか嬉しい。
こうして少し遅めの朝ではあるものの、エリオットの休日はクロさんと共に穏やかにスタートしたのであった。
旧館は3階建てで、全て同じ間取りの部屋が23室ある。ただし、3階は使われておらず、物置と化しているので実際には1階の5室と2階の9室の合わせて14部屋のみが入居可能となっていて、現在はそのうちの半分にあたる7部屋が埋まっている状態だ。
その昔は旧館と同じ造りの官舎が幾つもあったらしいが老朽化や新館の建て替えなどで壊され、今はエリオットの暮らす男子寮旧館1棟しか残されていない。
クロさんと朝食をとった後、おもちゃで遊んだりグルーミングをしたりと久しぶりに愛猫との時間を満喫したエリオットは、そろそろ買い出しに行かなくてはと窓際でスヤスヤと寝ているクロさんを名残惜しそうに横目で見ながら部屋の玄関を出た。
「お、エリオット。おはようさん」
名を呼ばれ顔を向けると、ちょうど階段を上がってきた赤髪の青年が「よ!」と片手を上げていた。
「おはようございます、シーナさん。もしかして今帰りですか?」
疲れた様子で廊下を進んでくる彼はエリオットの隣にあたる一番奥の部屋の住人シーナ・ミュラーだ。
ちょうどエリオットの兄と同じ24歳になる彼は、帝国軍に所属しており中尉の階級をもつ軍人である。本人曰く『内勤で地味な仕事』らしい。
「そうなのよ。美女が俺を離してくれなくてさ」
エリオットの前に立ち止まると壁に手をつき、もう片方の手で髪をかきあげながら参っている風を装うシーナだが、残念ながらあまり困ったようには見えない。
その台詞からも推察出来る通り、シーナは中々に女性のお友達の多い人物らしい。少し垂れ目の甘いマスクに加えて会話も上手く気配りも出来るとなればそれはモテるに違いないなというのが、羨ましがりながらも一致した周囲の感想である。自他ともに認める遊び人だが、性別問わず友人も多く交友関係が広い事からも彼の人柄は保証されていた。エリオットにとっても尊敬する先輩の1人である。
「どっか行くのか?」
「はい。買い出しに行こうかと」
「マジか!気が向いたらでいいから牛乳と林檎買ってきてくれ!」
「向かなくても買ってきますよ。いつもクロさんがお世話になってるんですし!」
エリオットが仕事で家を空けなければならない時など、旧館の住人達には度々クロさんを預かって貰っている。この気のいい隣人の手を借りることもしばしばだ。
勿論、シーナを始め皆の気持ちや都合が第一だしその都度お礼はしているが本当に助かっているエリオットとしては何度お礼をしてもしたり無い。
ぺこりと下げられたエリオットの頭にシーナが微笑みながら手を置く。少し乱暴に撫でられた頭に、エリオットが焦った声を上げた。
「いいっていいって。俺もクロさんといると癒されるし」
心から楽しそうにウインクしているシーナだが、実はクロさんに何故か初対面から毛嫌いされており、一緒にいる時は出来る限りに距離を取られ、それでもシーナが気にせず撫でたり抱っこしようとするものだからキレたクロさんからの容赦ない高速猫パンチを食らう仲であるということは本人達しか知らない。シーナにそれだけ優しくされても全く靡かないという至極珍しい女性のひとりがクロさんなのであった。
「いつも本当にありがとうございます」
「気にすんな。気をつけてな」
「はい」
じゃあな〜と手を振りながら廊下を進むシーナの足取りは眠いのか若干重い。彼が無事に自室へ帰り着いたのを見届けて、エリオットも玄関ホールへと足を進めた。
ちょうど玄関先の掃き掃除をしていた旧館の管理人であり退役軍人でもある雄ネェ様、マダム・ケリィに挨拶をすれば、彼女お気に入りのゾウさんが刺繍されているピンクのエプロンには収まりきらない見事な胸襟のお陰でピッチピチになっているポケットから取り出したアイスクリームのスペシャルチケットを貰えた。なんでも最近人気の店らしく、これがあれば3段盛りのところを5段盛りにサービスしてくれるらしい。今日までの期限だが行けそうにないからということだったのでありがたく頂戴しておいた。マダムに手を振りながら踏み出した外は雲一つない良い天気で、春の風が心地いい。
普段通勤や出掛けるのに自転車を使うことが多いエリオットだが、爽やかな陽気に誘われたまには歩くのも良いかと自転車の鍵をポケットに仕舞い込んだ。
スキップしそうな程に足取り軽く出掛けたその数時間後。
エリオットは幼女を抱え路地裏を全力ダッシュしていたのであった。