皇帝陛下のお気に召すまま
世界最大の大陸、エリュシア大陸。
世界地図上、中央から北に位置するその広大な大陸の全土を掌握するアシュタルト帝国は、強大な軍事力のみならず魔導科学技術・医療・政治・経済などあらゆる分野において先進的な国として知られている。
固定観念に捕われない魔導科学理論の提唱と実現、近年の具体的な例では新たなエネルギー機関の発明やそれに伴う様々な製品の開発など技術革新を続ける一方で、医療や教育分野にも力を入れており、保険制度や義務教育制度をいち早く取り入れるなど国民の生活水準は世界的に見て最高レベルと言って良い。国土と領海の広さから埋蔵資源も多く、歴史ある大商会や有力企業の多くが拠点を置くなど経済活動も非常に活発で豊かさにおいても群を抜いている。
そんな名実共に超大国たる帝国を統べる現皇帝は圧倒的な国力をさらに発展させ維持する手腕だけではなく、それを支える明晰な頭脳と実戦で戦える武力、類稀なるカリスマ性、そして神々しいと称えられる程の容姿の美しさまでをも兼ね備えていた。
性格は冷静沈着かつ冷徹であり、敵には容赦ない苛烈な一面も持っている。それは今から6年前、皇太子であった彼が、前皇帝の突然の崩御後に僅か9歳にて即位し間もなく敵対関係にあった前皇弟とその派閥に属する貴族を全て粛正した一件からも明らかだ。ともすると暴君とも言われかねないが、前皇弟派は貴族の権利を義務以上に主張し、既得権益を過剰に守ろうとする特権階級意識が強い旧態依然の貴族の集まりでもあったために、元からある皇帝一家への忠誠心に加えてあからさまに見下された民衆からの支持は低いどころかマイナスであったことからむしろやっちまえとばかりに好意的に受け入れられていた。
更に言えば、現皇帝の治世になってからそれまで以上に国は発展し生活も便利で豊かになった実績からも文句のつけようがない。(尤も、皇帝の残虐さを知っているからこそ例え不満に思ったとしても公には口を開けない事実が無いとは言えないのだが、ともあれ逆鱗に触れない限り)貴賤問わず公平な視点を持ち粛々と公務を成す少年帝は、臣民からの圧倒的な支持を得ていた。
絶対王者たる偉大なる若き皇帝の元、アシュタルト帝国は世界一の大国としての繁栄を謳歌するとともに揺るぎない盤石な地位を築いていた。
さて。
ここはアシュタルト帝国の帝都にある皇宮の奥まった一角。
真っ直ぐ伸びる廊下にはタッタッタッと早足で進む一人の青年の姿があった。皇帝の住まいとなる皇宮でも特にあらゆる意味で中枢となる区画であり、特別に許可された者しか立ち入ることが出来ないためか他に人影はなくとても静かだ。
青年が歩みを止めないまま、小脇に抱えたタブレットを持ち直す。
近年、帝国東方大公領にある鉱山から発掘された新たなレアメタルのお陰で技術革新が大幅に進んだ事もあり、中身の性能だけでなく製品の重さも薄さもかなり改善された。ただし、彼のそれは旧型であるためにその恩恵からは少々遠いのだが。
かつて魔法と呼ばれた、魔力を持つ者だけが訓練することで扱える特別な能力がもたらし得ていた恩恵は、今では魔鉱石より抽出したエーテルを動力源とする魔導機器(あるいはエーテル機器とも呼ばれているもの)にて実現することが出来る。青年が持っているタブレット端末もその一つだ。
エーテル自体の供給システムについても、既にかなり以前からインフラとして確立されており、各施設や家庭などに設置された専用プラグからいつでも得ることが可能である。
真っ直ぐ前を見据え急いだ様子で進む青年の顔色はあまり良く無い。余程慌てていたのか、猫毛気味のふわふわした茶色い髪に好き勝手についた寝ぐせもそのままだし、深い藍色にグレーのストライプ柄のネクタイも歪んでいた。特にこれといった特徴のない平凡な容姿はいつも以上にぽやんとしていて、いかにも寝起きすぐ支度もそこそこに飛び出てきたといった風体だ。その酸っぱいものを食べた時のような渋い表情からも何か良くないことがあったのは容易に想像がつく。
パタパタと早足で進んだ先、廊下の突き当たりの扉の前で一度立ち止まった青年が意を決したようにノックを4回すると、一応律儀に返事があるまで待ってから両手で扉を大きく押し開く。
「へっ陛下ーー!!」
青年の声に、呼ばれた方は先日実用化されたばかりの、机上の空中に立体映像でデータが表示される、実体を持たない複数のディスプレイから目を離す事なく平然としている。恐らく何らかの資料を読み込んでいるのだろう。艶やかな黒髪にいろんな色の光が淡く反射している。
なにか不測の事態でも起こったのかと聞く姿勢をとるでもなく、まるで青年の襲来をあらかじめ予想していたかのような落ち着きっぷりだ。
「陛下!ゼクスン共和国の使者殿が消えたって本当ですか!?」
「――騒々しいな、エリオット。消えただと?下らん」
「す、すみませ…ッ!でも、じゃあ使者殿はご無事なんですね」
慌てて頭を下げながら、それでも良かったと青年ことエリオットがホッと息を吐いたのもつかの間。
「ゼクセンに返した」
「なーんだ……ッてえっ!?」
「気に入らん」
「一体何があ「第一声がそれか?」」
エリオットの言葉に被さるように投げられたその口調は平坦でありながら鋭く、答えを違えれば命さえ危ういのではと思わせた。
齢15歳にして帝国を統べる皇帝は既に賢王として名高い素晴らしい為政者ではあるが、決して博愛主義で慈愛に満ちているようなお優しい人柄ではない。何か少しでも気に触るような事があれば次の瞬間には首を切り落とされていてもおかしくないのだ。
向けられた当の本人のエリオットは一瞬言われた意味が掴めず虚をつかれたようにキョトンとした顔をしている。どうしたものかと思案し、ややあって何かを思い出したらしく『あ!』という顔をするとワタワタと焦った様子で改めて背筋を伸ばし口を開いた。
「失礼いたしました!おはようございます、ユリアス陛下」
そこでようやくディスプレイから顔を上げた皇帝、ユリアスはエリオットに向けて呆れたような眼を向けた後、見るものが見たら分かる程度ほんの微かに満足気な笑みを浮かべた。
「まぁいい――おはよう、エリオット・オーウェン。それで、何の用だ」
「あっ!そうです!えっと、ですから、使者殿を帰したというのは……」
「興が削がれた」
ほかに理由が必要か、とエリオットを鷹揚に見遣るその琥珀色の瞳が語る。こんな時、目の前にいる4歳年下の少年は大帝国に君臨する王であるのだとエリオットは改めて思い知らされる。
若き覇王
帝国史に名を残す賢王
美しき帝国の星
冷酷な暴君
暴虐の主
彼を表す言葉はたくさんある。叙事詩に語られるような英雄譚も震え上がる程の恐ろしい逸話もたくさんある。
諸々事情があり、恐れ多くもユリアスと直接関わる機会がたまにだがやってくるエリオットにとっては、そのどれもが正解のような、それでいて間違っているような、はたまたそれだけではないような底知れない印象を持っている。全てひっくるめて『ユリアス』という存在なのだろう。とはいえいろんな意味で恐ろしい事は確かなのだが。
ともかく、頭と胃は痛いがこれ以上はエリオットが介入出来る話ではない。外交に口を出す資格は自分にはないからだ。そもそも口を出したとしても聞いてはくれないだろうけれど。
「夜の予定を空けておけ」
俯いてシクシク痛む胃を抑えていたエリオットは、ユリアスからの命令に顔を上げる。
視線の先、少年皇帝は既にディスプレイに顔を向けている。先程の話はもうこれで終わりということらしい。
「……はい?」
強烈な嫌な予感にエリオットの口が酸っぱいものを食べた時のようにキュッとなる。
そもそも今日明日とエリオットは久しぶりの休みの予定だった。件のゼクスン共和国から来た使者との会談に、別件で手が離せなくなった上司に代わって急遽エリオットが皇帝の従者の一人として出席する予定になったのが昨日で、それが無くなったのが今さっきだ。ならば本来の通り休みにして貰えるのでは!?と勝手に思っていたところである、のだが。
「今夜の帝都歌劇場にエメラインが出る」
「確か話題のピアニストですよね?」
エメライン・オルネット。
帝国出身で、今、祖国だけでなく世界的な人気を博しているという天才女性ピアニストだ。音楽に明るくないエリオットでも知っている。
なんでも奏でる音も天上の調べのようならば、彼女自身の容姿も女神のように美しいらしい。一度演奏を聴いてみたいとは思うが、争奪戦的にもお値段的にもとてもじゃないがチケットは手に入らないだろうなと友人達と話していたのはつい先日のことだ。
「ちょうどいい。夕刻に迎えを寄越す。それまでに精々見られる姿にしておけ」
「え?……ま、まさか僕が行くんですか?」
青い顔のエリオットに、それが何だと言わんばかりにユリアスが片眉を上げる。ユリアスの中性的で怖いくらいに整った相貌には、その何気ない仕草でも妙な威圧感があった。
「ちょ、ちょっと待って下さい!僕は」
「話は終わりだ」
「いやいやいやお待ちください!」
エリオットがぶんぶんと首がもぎ取れそうなほど横に振って抵抗を試みる。
この皇帝が戯れでこんなことを言い出す筈がない。つまり観劇に見せかけたなにかしら『仕事』の一環であるということだ。しかも『ちょうどいい』ということは恐らく今ここに来ていることを指しているのだろう。例えば登城するのがあと半刻遅ければ違ったかもしれないとかそういう意味だ。つまり、思わぬ貧乏くじということである。
「返事は?」
「……い、Yes Your Majesty.」
最初から返せる答えは分かっていた。
エリオットがトホホと肩を落とす。仕方がないとはいえこれで1か月ぶりの休みが泡となって消えてしまった。
(あぁ……久しぶりにクロさんと思いきり遊ぼうと思ってたのに……)
仕事で戻れなくなる際には兄またはご近所さんに預かってもらっている、黒くてフサフサの毛並みの愛猫の姿を思い浮かべる。そのうち飼い主としての存在を忘れられそうだ。
次に会える時には兄やご近所の皆へのお礼は勿論、クロさんにもオヤツという名の賄賂を山盛り持って帰ろうとエリオットは心に決めた。
「エリオット」
不意に名を呼ばれ、エリオットは慌てて背筋を張る。
「はい」
読み込んでいたデータから視線を外した皇帝の瞳が真っ直ぐにエリオットを捉える。
「――あと半年、か」
「陛下?」
「もう良い。下がれ」
「?は、はい。失礼いたします」
すぐにまたディスプレイに意識を戻した少年に、最終的にはしっしっと追い払われたエリオットは首を傾げながらも大人しく帰るしかない。
あくび混じりに朝走って来た道を歩いて戻りながら、ついでに街でクリーニング屋に預けたままのタキシードを取りに行かねばなと遠い目をしていた。
帝国中央捜査局所属の新人特別捜査官エリオット・オーウェン19歳の日常は割といつもこんな調子なのであるが故に、一部では皇帝陛下の下僕あるいはペットと呼ばれていることを幸か不幸か本人は知らないのであった。