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私はこの村が嫌い。でも家にいるのはもっと嫌いだった。家にいるのは祖父母と叔母、許嫁である従兄弟。私は特にこの従兄弟が大嫌いだった。この従兄弟は三十代半ばのどうしようもない男だった。仕事はせず、日向家の名前を語ってやりたい放題。女遊びは酷く、喧嘩ばかりするような暴力的な男。
この男は私が幼い頃からよくベタベタと体を触ってきた。
決定的だったのはつい先日。「お前も股から血が出るようになったか」とニタニタと私の下着をどこからか持ち出してきた時はぞっとした。
この男の子供を産まなければならないという事実が心底気持ち悪かった。
両親はいない。母親は私を産むと同時に亡くなり、一年前に父も死んだ。
父が死ぬと従兄弟はすぐに私の布団に潜り込んできた。その時は大暴れして叫んですぐに祖父母が来てくれた。
その時は従兄弟をこっぴどく叱ってくれたが、その時の説教の内容が「まだ早い」であった。「まだ」、「早い」ということはいつかはその時が来ると言うことで私はそのいつかが来るのがたまらなく嫌だった。今は祖父母の隣で寝ているが、従兄弟と同じ部屋で寝かされる日がきたら。そのことを考えるだけで悪寒が止まらなかった。
とにかく家にいたくなくて、私は学校から帰ると日が暮れるまで村を散策してすごした。日向家の娘というだけで、同じ頃の子供は私を遠巻きに見て、関わろうとはしない。友達と呼べる人はいなかった。日向家一派の信心深い村人は私が通るたび「ありがたや」と手を合わせた。
誰も彼も気持ちが悪かった。
空も赤く染まり、カラスがうるさくなってきた頃。私は村外れにある小さな祠に向かった。そこにはよく饅頭が備えてある。カラスに取られていなければそれが私のおやつとなる。
祠が見え始めてすぐ、先客がいることに気がついた。
祠の横であの優男が座り込んでいた。
そこは私の特等席であったからいい気持ちはしない。
「なにしてるんですか」
男の目の前で声をかけると、膝に突っ伏していた顔を上げて、男は「ああ、君か」と弱々しい声で呟いた。
「いや……月見里さんの家を訪ねたんだが、門前払いをされてしまって」
「あの家になにしにいったの?」
「妹に会わせてもらおうと思ったんだ」
「いもうと?」
男はこくりと頷いて、手帳から一枚の写真を出して、私に見せてくれた。幼い兄妹らしき人物が寺のような建物前で立ちすくんでいる。
少年はジャケットに洒落た学生帽を被っている。着ているジャケットも上物だ。面差しは優男によく似ていた。おそらく本人だろう。少女の方は痩せこけてお世辞にも可愛らしいとは言えなかった。服はよれよれとした。ほとんど下着のような格好。
あまりに違うのに、確かに兄妹と思ったのは二人が手を繋いで幸せそうな笑顔で写っていたから。
「俺と……妹の明。五つ下なんだ。すごく美人で気立がいい子なんだよ」
明。優男が探していた月見里の跡取り女。そうかこの村に来るまではこの男の家族だったのか。
「月見里にはなんて言われたの」
「明なんて女はいないと言われた。この村にそんな娘はいないと……絶対にここにいると思ったんだが見当違いか……」
再び頭を抱える男に私は眉をひしめた。確かに明という女はこの村にいる。この写真の少女かと問われれば分からないが。月見里が門前払いをする通りはない。
「検討ちがい?知ってて来たんじゃないの?」
思わず口を滑らす。あっと思った時には遅かった。男はがばりと顔を上げると目を見開いてこちらを見つめる。
「やっぱりいるのか?」
期待に熱のこもった。まるで縋るような目にもはや嘘はつけなかった。
こくりと頷くと、男は肺の空気を全て押し出したかのような大きく長いため息をついた。
「元気なのか?」
ぽそりと呟いた問いかけに私は答えはしない。
「なんでここにいるって知らなかったの?妹なんでしょ」
「え……ああ……」
「怪しい人には教えられない。大体貴方誰なのよ?本当に月見里の女の兄貴なの?」
しばらくの沈黙の後、男は観念したように天を仰いでから顔を覆った。
「俺の名前は折原開人。すまない……明は本当の妹じゃないんだ」
「いもうとじゃないなら何?恋人かなにか?」
もしそうなら、本当は少しだけ素敵だなと思った。
「そんなんじゃない。血の繋がりって意味でだ。感覚的には本当に妹だよ。明は赤ん坊の頃、俺の実家の寺に捨てられたんだ。兄妹同然に育ったんだ。だから明は妹」
それは嘘だと思った。写真の少女は見るからに少年と差をつけられて育てられていた。しかし捨て子として育てられていたのなら納得がいく。
「俺は寺を継ぐのが嫌で、数年前に家を飛び出しだ。ほぼ絶縁状態だったが、去年ふと思い立って実家に顔を出したんだ。そうしたら明はいなくなっていて、親父を問い詰めたら、産みの親がいるっていう村に引き取られたって言うんだ」
「それがうちの村ってわけ。でも妹も薄情ね。育ての親を捨てて出ていでちゃうんだから」
「そんなわけないだろ!明は親父に売られたんだ。明を引き取って行った奴は手切金だって金を置いて行ったんだ。明はついていくしかなかったんだよ」
息を荒くして、折原はこぶしを握りしめていた。
「でも、随分遅いのね」
「え?」
「だって妹がこの村に引き取られたのって二年も前よね。迎えに来るにしても随分遅いじゃない」
「分からなかったんだよ。所在が。親父の奴……金に目が眩んでろくに素性もわからんやつに明を売りやがって……」
金に物言わせて人身売買。月見里がやりそうなことだ。
「でもここにいるってことは分かったのよね」
折原は「ああ」と返事をするとスーツの内ポケットを探って一枚の葉書を取り出した。
受け取って見ると、それは月見里が今年の正月に配っていた年賀状だった。宛名には竹岩寺、折原開人様と書いてある。
「これが今年の正月に届いたんだ。筆不精の親父のせいで見つけるが遅くなったがな。この宛名の字は明の字だ。字を教えたのは俺だから見紛うはずがない」
折原はがしがしと頭を掻きむしる。
「確かに明という女は二年前にこの村にきたよ。多分生きているとは思う。元気かは分からないけど」
「本当か!」
折原は飛びかかるような勢いで私の肩を掴んでくる。恐怖に顔がひりつくが、彼はすぐ我に返ったように「すまない」と手を引っ込めた。
「多分っていうのは……なんだ。あまり交流はないのかな」
「あまりもいうか……私は日向家の人間だから月見里とは関わっちゃダメなの」
簡単な自己紹介をかねて、私は月見里と日向家の関係性を話した。私と明が両家の間跡取りであることも。
「そうか朝子ちゃんは日向家の御息女なんだね。明は月見里家の」
「うん。私たちのお役目は二つ。その一つができるだけ子供を産むこと。子供の私にはまだ関係ないけど……明は頑張ってるみたい」
もうすぐ子供じゃなくなるけど。そんな想いは胸にしまって愚痴代わりに呟いた。
「じゃぁ明はこの村で結婚しているのか……幸せならいいんだ。一目見れればそれで東京に帰るよ」
ほっと、したように折原は笑った。結婚して子供を産むことは女としての誉だ。それが名家となるとなおさら。男はそう考える。
「してないよ」
「え?」
「多分明を嫁にしたいと思う人はこの村にいない」
「だって……その……役目ってのを頑張ってるんだろう」
「うん。頑張らされているって方が正しいかな」
淡々と言う私に折原の顔が曇っていく。
「あっ、明はどこにいるんだ?無事なんだよな?」
憔悴しはじめた折原があまりにも気の毒だったので、私は彼を明の元に案内してあげることにした。丁度夜の帳も降り始めた。闇に紛れて月見里に向かうには丁度良い。