雀と青鷺 二
やっと辿り着いた風鈴の地。
しかしまだ風熱は始まっていない。
三人が滞在する屋敷にはその夜、医者の健闘を祈るため村中から人々が集まって宴が催された。
「今年は患者が出る前から来てくださって。ありがとうございます」
「いえいえ。風熱を根絶するのは私たちの夢でもありますから」
蓮が村の人々と酒を酌み交わしながら語らっている。
「去年家内がやられましたがお医者様のお陰で助かって。その節はありがとうございました」
「お医者様がいてくださったお陰で毎年少しずつ患者が減っております!」
この何年かこの季節は風鈴にこもって治療にあたり、さらに白鷺の薬と青鷺の鍼を組み合わせたことで、以前はかかれば最後死は免れないと言われていた風熱も、重症化する前であれば治る病になって来たのである。
そしてそれが、この忌むべき病の根源を突き止めることに繋がると、三人は信じているのである。
夜が更けるに連れ、村人にも屋敷の人間にも医者にも酒が入り、みな顔が赤くなっていった。
しかし、一人だけどんどん顔が青くなっていくものがいた。名前の通り、青鷺である。
実は青鷺、酒には弱く、宴の最初の一杯から気分が悪化、物陰で自分の腕に鍼を施しつつなんとか誤魔化していたのである。
何杯も飲まされてへろへろでも鍼の技術は正確なのはもはや神の領域か。
(なんとかやってきたが、さすがにもう限界だ…)
仮にも医者、そういう加減を見極めるのは専門である。宴の中にある主役の一人であるから抜け出すのは難しいが、さすがに気持ち悪い。
変な汗をたらたら流しながら、もともと色白な顔をさらに青白くして、青鷺は口を開いた。
「そろそろ僕は引っ込みます、まだお師匠様の出された課題が終わってませんので」
「おお?青鷺、珍しいな、いつもそういうのは真っ先にやるじゃないか。だいたい出さないのは白鷺くらいなものであって」
「うう、お師匠様手厳しい!」
「大丈夫か?何かあったか?」
蓮はいつもと違う様子の青鷺に首をかしげた。
(嘘です、お師匠様!課題なんてとっくに終わってます!)
「大丈夫です、今日は長旅の疲れを取るため早くに寝たいですし」
「せっかくの宴会なのに…村人の皆さんが寂しがるぞ!そうですよね、皆さん」
「そうですよ」「青鷺さんがいないと」
青鷺は白鷺を睨んだ。ずっと一緒に過ごしてきた兄弟、白鷺は弟のことに気づいていながらふざけてこんなことを言っているのだ。
青鷺の睨みに、白鷺も観念した。
「分かったから分かったから。いいからそんなに睨むな、怖いぞ弟よ」
「分かってくださったならばいいんですよ白兄。ではお暇いたします。すみません、せっかく宴を催していただいたのに。お師匠様と兄がおりますから、引き続きお楽しみください」
よろめきつつも宴会を抜け出し、貸してもらった自分の私室に向かう青鷺の背中には、
「お前の分まで呑んどくからなー!」
という白鷺の笑い声が響いた。
宴会が行われていた大広間から青鷺がもらった私室までは、案外距離がある。田舎の郷主の邸宅とはいえ、奥方は現刑部大臣の義妹、普通の屋敷よりは広く作られているのである。
慣れない屋敷で同じところをぐるぐる回るなど、少し迷子になりかけながらも、なんとか私室に辿り着いた。
(ふう…課題も終わっているし、早く寝よう。うう、まだ気持ち悪いし…)
襖を開けると、屋敷の誰かが気を遣ってくれたのだろう、すでに布団が敷かれていた。
(ああ、数多の神々よ感謝申し上げます…!)
少々大袈裟に感謝しながら、青鷺はありがたく布団に倒れこんだ。
数刻が経っただろうか。
泥のように眠り込んでいた青鷺の耳に、微かな布ずれの音が聞こえてきた。
(なんだ…?はあ、くそ、また白兄か)
酒にめっぽう弱い青鷺が休んでいるとき、決まって邪魔してくるのが兄、白鷺である。兄として弟が可愛かた仕方ないのか、やたらとかまいたがるいつまでもやんちゃな兄なのだ。
青鷺も最早恒例となっているこの兄の悪戯に慣れていて、兄の様子と方向を目を開けずに耳だけで探った。白鷺は案外力が強いので、弟の青鷺は不意打ちが兄を負かす最善策だと知っているのである。
兄の悪戯に鍛えられ、青鷺もいつの間にやら医者とは思えないほど武術が強くなってしまった。
その感覚を全て枕元にいるらしい兄の物音に向け、精神を集中した。
(今だ!!)
一息で枕元にいた兄の腕を掴み、そのまま勢いに任せて自分の布団に押さえつけた。腕を掴んで押さえたまま兄の胸ぐらに手を置く。これが兄弟の間では決着のしるしなのである。
青鷺は息を切らして、兄がいつものように
「分かった、すまんすまん!分かったから離してくれよ、苦しい!」
と降参するのを待った。
しかし、訪れたのは静寂。
ん?と違和感を感じると共に、青鷺は自分が掴んでいる腕が兄のそれより細いことに気がついた。
体つきも青鷺より白鷺の方がいいはずなのに、今布団に押さえつけた人間はどう考えても青鷺よりも弱々しく思える。
布団に倒れこむ時に灯を消してしまったので、部屋に差し込むのは三日月のか細い光のみ。暗闇に目が慣れても、ようやく物の輪郭が分かるか分からないかといったところだ。
そして、青鷺は一番まずいことに最後に気づいた。
押さえた相手の胸ぐらは、兄のように平らでないのである。青鷺の手は何かを包み込んでいるかのような感覚だった。しかも、手を動かすと男の胸倉のはずがやたらと感触が柔らかい。その感触に青鷺は本能的に焦った。何かがおかしい。
そして慌てて立ち上がり、蝋燭に火を灯してみると、青鷺の布団にいたのは、白鷺でも盗人の類でもなかった。
そこには長い雀色の髪を三つ編みに垂らした、青鷺とほぼ同い年の乙女が着物を乱して固まっていたのである。
脳が完全停止する中、青鷺はそれまでの自分の動きを思い出した。手を突然掴んで布団に引きずり込み、押さえつけて胸を…!!
「…ひ、ひ、ひぃ…」
思わず間抜けな声が出ると共に、先程の酒が戻ってきたのか、自分のしたことが恐ろしすぎたのか、青鷺の視界がぐにゃりと曲がり、そのまま気を失ってしまった。
しばらくの後。
青鷺は、額に当てられる冷たい布の感触で目を覚ました。見れば、先程の雀色の髪の乙女が青鷺を看護していた。
「目を覚まされたみたい…ですね」
「それでは、先程の一件は、夢では、ないと…」
「そう、ですね」
青鷺は再び顔を真っ青にして飛び起き、少女に自分史上最高の土下座を披露した。
「先程は、申し訳ございませんでした!!兄と間違えてあんなことを!どうかお許しください!」
「横になっててください!私は大丈夫です!そもそも私が無断でお部屋に入ったのが悪いんですから、青鷺さんは悪くありません」
「僕のこと、知ってるんですか」
「ええ、私もこの町の住人ですから。この町でお医者様三人を知らない人はいませんよ」
少女はくすりと笑った。どうやら先程の一件はあまり気にしていないらしい。青鷺はほっと胸を撫で下ろした。
「私、この家の娘で、雀と申します。今回は本当にすみませんでした」
少女がいかにもの名を名乗ったが、青鷺はまたその言葉に顔色を青くした。今日は青くなったばかりである。
「この、屋敷の?む、娘さん?」
「はい。って、そんなに焦らないでください!体に悪いですよ。大丈夫です、父や母には言いません。そもそも私が無断でお部屋に入ったのがいけませんし」
「そういえば、何故この部屋に?」
「…話さないとですよね。あの、お願いなんですが、これから話すこと、うちの両親には言わないでいてもらえます?」
「え、ええ」
雀はゆっくり話し始めた。
「私、実は看護に興味があって。親には内緒で独学で勉強してるんです。本を侍女に頼んで手に入れてもらったりして」
「そうなんですか?」
「はい。で、その本やら何やらを自分の部屋に隠していて…。実はこの部屋、私の部屋だったんです。お医者様がいつもより来られるのが早かったので、自分の部屋に隠していたものを回収するのを忘れてしまって」
「それで、こっそり取りに来た、ということですか?」
「そうです。でも実をいえば…青鷺さんは若くして桜鈴の看護の権威だとお聞きしました。どうしても会ってみたくなってしまった…というのもありますね。部屋に入り込むなんて、変態ですよね」
「いえいえ。そんなにも看護に興味をお持ちなんですか。それでさっき僕を看護してくれていたんですね」
「はい。青鷺さんにしていいような看護じゃないんですが…」
青鷺は先程自分の額にあてがわれていた冷たい布に触れた。温度も最適、よく考えれば自分の気持ち悪さが消えているし、汗も拭き取られている。
「独学だとは思えませんよ。雀さんはどうやら看護の才能がおありですね」
「えっ…本当ですか?!」
「僕は鍼と看護に関してはお世辞はいいませんよ。お師匠様に厳しく教えられたのでね。本当に、雀さんには才能がおありだと思います。看護を手伝ってもらいたいくらい」
青鷺は驚嘆を隠さず、雀に言った。
女好きな白鷺と反対に、本来青鷺は極度に女性が苦手なのだが、雀には初対面でも不思議と話が弾むな、と青鷺は思った。
「ご家族に話して、ここでの治療を手伝ってもらえませんか」
「そう言っていただけるなんて嬉しくて信じられないくらいなんですが、両親は私におしとやかな『良妻賢母』に育ってもらいたいようで。きっと、駄目だと思います」
「そうですか、残念ですね」
なんとなくしんみりした空気が流れ、雀はそろそろ戻らないと、と隠してあった看護の本を出した。
「それ!」
「え?」
「僕が今使っているものです、かなり難しいと思いますが、それを読んでいるんですか?!」
「あまり理解できてないんですが、一応…」
部屋を出ようとする雀を止めて、青鷺は提案した。
なんだか、これだけでこの少女との縁を切ってしまいたくなくなってしまったのだ。
「せめて、これを雀さんが理解するお手伝いをさせてもらえませんか。お教えしますから」
「え…いいんですか?お忙しいでしょう」
「そうですけど、人に教えるのは僕にとってもいい経験になります。一日の最後に、この部屋で待ってていただければお教えできます」
「本当に…いいんですか」
雀は抱えていた本を抱きしめ、目を輝かせた。
「もちろんです。雀さんさえ…よければ」
「とんでもない!青鷺さんさえ良ければ、是非お願いします、でも…」
「でも…?」
青鷺は不安そうに雀の顔を覗き込んだ。
雀は満面の笑みを輝かせて、言った。
「私のことは雀さんじゃなくて、雀ちゃんって呼んでください、みんなにそう呼ばれてるんです!」
雀は最後にそう言い残し、部屋を出ていった。
「雀、ちゃん…」
残された青鷺はそっとつぶやき、一人頬を赤らめた。
それからというもの、雀と青鷺は毎日夜に集まっては、看護の本を読み漁った。
雀が質問したり、活発に議論してみたり。二人の敬語は抜けなかったけれど、「青鷺さん」「雀ちゃん」と呼びあって、二人の距離はどんどん縮まっていった。
「青鷺さん、じゃあ患者の体温を下げたいときはこういう方向に冷やせばいいんですか?」
「ううん、そうじゃなくて、上げたいときはこっちでしょう?だから、こっち」
「?」
「だからね、」
青鷺が雀の後ろから机に広げた図に身を乗り出した。雀が後ろから青鷺に抱きしめられるような格好になり、青鷺の見えないところで雀の顔が真っ赤に染まる。
「こっちに血液が流れてる。だから上げるときはこっち。だから下げたいときは逆なんだよ」
青鷺の声と息が雀の首筋にあたり、雀は腰が砕けそうになりつつぶんぶん頷いた。
(どうしよう、顔が熱い!)
一方の青鷺は、その後雀が戻ってからふとした時に、
(思えばさっきの…恥ずかしい!!)
一人頬を染めたのだった。
しばらくすると、やはり今年も恐ろしい病が始まった。しかし、ほとんどの者が初期に蓮たちを呼んだので、医者は大忙しだったものの死者は出なかった。
そんなある日。
「青鷺、お師匠と俺は次の患者を診てくる。この患者にはもう薬も飲ませたから、鍼打って容態を安定させてもらえないか」
「わかった、白兄」
青鷺は先代の師匠からもらった愛用の美しい鍼箱をとりだした。蓋には、貝の装飾で鷺が二羽かたどられている。
正確な狂いのない手捌きで、患者の女性に鍼をうっていく。ふと見れば、喉がひどい炎症で腫れていることに気がついた。
(そういえば、風熱患者には初期に喉の炎症が多いような)
ちょうどその時、女性が目を覚ました。
「大丈夫ですか?」
「私…?」
「急に倒れられて、運び込まれたんですよ。風熱でしょうね、でも薬を飲んで熱も下がりましたし、心配ありません。今鍼をうってますから、あと一週間安静にしていれば治ります」
「そう…ですか…」
女性は嗄れた声で頷いた。
「喉、腫れてますね。痛みます?」
「…そうですね。結構痛いです」
「普段は何を飲まれてますか」
「私民謡の歌い手をやってまして。しょっちゅう喉が渇くので、風鈴の湧き水を汲んで飲んでいますわ。この辺りの皆さん、たぶんあの湧き水を重宝してる方がほとんどですわね」
「その湧き水は…」
「あの竹筒の中に汲んできたものがありますが、もとは裏の丘で汲んできました」
その夜、青鷺は私室で持ってきた女性の竹筒の水を調べた。
「青鷺さん、それ何ですか?」
「ああ、雀ちゃん。これはね、今日診察にいった女性が飲んでいた風鈴の湧き水なんだ。その人、すごい喉の炎症があって。そういえば風熱は喉の炎症を起こす人も多いから、何か関連があるかと思ったんだけど…」
「だけど?」
「はずれみたいだ。さっきからどの薬にも反応しない。お師匠様ももう調べてるかもね、これくらいは」
「そうですか…残念ですけど、いつかきっと原因を見つけられますよ、青鷺さんなら!」
「ありがとう、雀ちゃん」
その時、笑って立ち上がった青鷺の懐から、広げた湧き水の盆へ鍼箱が落ちた。
「ああ、先代のお師匠様からもらったものなのに…」
青鷺が慌てて鍼箱を拭こうとすると。
「…!」
鍼箱の貝の装飾の部分がみるみるうちに黒ずんでいくではないか。美しい二羽の鷺が、黒鷺に変わる。
「これはまさか…」
「どうしたんですか?」
「貝の装飾が水に反応したんだ。もしかしたら…」
青鷺は積んであった本を漁り、一冊の分厚い本を持って戻ってきた。
「『桜鈴の猛毒図絵』ですか?」
「うん。もしかするとここに…」
青鷺の開いた頁には、ある猛毒の名が記されていた。
『星輝』




