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ごちそうさま

 真っ白い空間のさらに奥に広がっているであろう銀の世界は、彼の戦場だ。だけど、なんだろうか、彼の空気からは戦うという雰囲気は伝わってこない。むしろ戯れているようで無邪気な空気が広がっているのだ。

それは、この前にケーキを振る舞ってくれた時にも同じ事を思ったが、今日は休みなのかこの前以上に空気が柔らかい。

「お店、ランチからのオープンなんで、まだもう少し時間あったんですけどね。驚きましたよ、怪しい人だったらどうしようかと思って」

 胸中の疑問に答えるかの様に、厨房からふわふわと大きな声が響いた。ほんとーに、ごめんなさい。少し前の自分の様子を振り返って、十分に怪しい人だったと、とにかく恥ずかしくてたまらない。

「あ……」

 心象イメージでは、穴ぐらの奥深くで優雅に暮らしていた私を、地上へと引っ張り出すほどの香りが漂ってくる。

 バターの香りと…ミルクの……

「オムレツ!?」

 思考が完結するよりも先に脊髄反射の如く声が轟く。叫んだ私がビックリだ。

「……せいかいです」

 笑いを堪えてなのか、クスクスと少女のように歯に噛むのは彼だ。口元を押さえ……なんか、私よりも可愛い? いや、私は童顔なだけで可愛くは……

「どうぞ……お召し上がり下さい」

「……」

 ブワっと何かが目の前で舞ったような気がした。目の前にあるのは、言ってしまえばなんの遜色もないオムレツ。布団のようにフワフワした生地の上には、アクセントのように赤く絨毯が広がる。微塵切りの玉ねぎを一緒に炒めたかのようなツブツブのあるケチャップ。バターを基調とした甘い香りとともに酸味を含んだ新鮮な香りが鼻腔をくすぐる。

「……」

 ただただ、見惚れていた。見た目の華やかさで言えば、この前のケーキに劣る。でも、なんだろうか、目の前の一皿に対しここまで引きつけられてしまうのは。

「い、いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

 一口目を頬張る。見た目から想像できた味。ふんわり卵の食感はすぐに消え去り、すぐさま、まろやかな舌触りが駆け巡る。

 甘い。直感的にそう感じた。決してくどい甘さではなく、自然と体に馴染んでいくようなそんな甘さ。卵とミルク、その本来の甘さが口の中いっぱいに広がる。そして、香りでは、甘さを際立てていたバターも、味ではほのかな塩味をもたらし、さらに甘みを強調させる一役に……無限に広がる幸せな甘さ……幸せ……

「喜んでいただけて何よりです」

「あ、あれ?」

 もしかして声に出てた!? やだ、恥ずかしい!

「……今のも声に出てますよ」

「あ、えっと」

 プププ、と破顔する一歩手前まできているであろう様子が伝わってくる。

「うう……」

「し、失礼しました」

 そう言いながらも、お腹を抱えて笑い出す無邪気な彼。そこまで笑わなくてもいいのに、と私も子供のような気持ちに帰ってしまう。お互いに、まるで童心にでも帰ったかのような戯けたような不思議な空気。ただ、私ばかりが笑い者になってしまってないか、と思うが私に原因があるわけだし、でも……

「……」

 ジロリとひと睨みするくらいはいいでしょう? それでも、彼は意にも介さない様子だ。無理もないのだけど。

「……」

 改めて、スプーンを握りしめ、二口目を口の中へ。今度は、ケチャップのかかった部分を口に入れる。目の覚めるような酸味が口の中で弾けたと思うと、今度はまた甘みがじんわりと押し寄せる。一口目の甘さがリセットでもされたかのように、全く違う甘さに、つい酔ってしまいそうになる。

「……」

 これは、もう素直に言わずにはいられないだろう。いやさっき、ついこぼしていたようだけど。

「……美味しいです」

「ありがとうございます」

 お互いに正面から向き直り、美味しさを共有する。私が感じた『美味しい』という気持ちと、彼が受け止めた私の『美味しい』がはじめて繋がった。 

 それからは、しばらく穏やかで静かな時間が続いた。私が、黙々と食べてそれを黙って彼が見守る。白い空間の中に、陽だまりのような温かい空気が広がっていく。

 その幸福感も、私の空腹をゆっくりと満たしていく。ゆっくり、ゆっくりと。

「……あ」

 気がつくと、終わりがきてしまった。こんな経験は久しぶり。とても美味しい料理を、ゆっくりとじっくりと堪能して、ちゃんと空腹を満たされたのは。

「ごちそうさまでした」

 だからこそ、自然と声が出たのであろう。

「お粗末様です」

 彼の表情は、今でも陽だまりのように朗らかで私をお腹いっぱいにしてくれた。

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