おもしろくない
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トントン。小気味良い音が鳴り響く。おそらく、確かな腕を持った料理人であることは彼の手を見てすぐにわかった。マメのつぶれて塞がった痕、他には火傷の痕など長年に渡って風化したものばかりだった。
「……」
カウンターはあるが、キッチンは奥にあるので姿は見えない。前にも話したが、とにかく透明感のある店内は彼のまとう様相そのままを表現しているかのようだった。
雪原、そんな景観が頭に浮かんだ私が次に思うのは……あまり大人としての冷静な意見とは言えない。
(崩したいなぁ……新雪の上を踏みしめるかのように)
手元を口で抑える。何かしらの衝動が溜まった時のルーチンだ。父の味を至高として、今まで数多くの店を巡ってきた。まだ若輩者という最低限の謙虚さも持ち合わせている自負はあるのだが、それでもまだまだ学ぶ姿勢が足りないのだろうと上司から思い知らされる。私の書いた記事は、ほとんどが修正のかかったものばかりだ。
『お前の舌は確かなものだ。だけど、判定が辛すぎる。そんなんじゃ面白い記事なんて書けない。お前はお前の求めている味しか認められていない。枠が狭いんだよ』
思い出したのは、デスクの言葉。なんでこんな時に思い出すのかと、天を仰ぐ。あちゃーといった感じ。
そのポーズって、よく料理の匂いが通るのね、とまた私の嗅覚に思い知らされる。
(……これは)
私の鼻に辿り着いたのは、クリームの甘い匂いとベリー系の果実の新鮮な匂い。
「お待たせ致しました」
目の前にあるのは、ショートケーキ……のはずだ。純白の皿にまるで浮いているかのように苺が乗っている。よく目を凝らして見れば、苺の下に三角形のケーキがあることが分かる。
「……綺麗」
正直な感想が漏れた。まるで一点物の造形品のようだった。真っ白な肌に赤いルージュ。
「春香る木苺のレアチーズです。お召し上がりください」
なるほど、レアチーズケーキか。それで断面まで白かったわけだ。春香る、か……ちょこんとあしらってある桜の花びらが小生意気な印象だ。いや綺麗だけど。
「では、遠慮なく」
フォークでそっと新たな断面を作る。驚くほど滑らかに進む。踏みしめるというよりは、滑るという感覚の方が適切な印象を受ける。視覚的な満足感は、今までの比ではない。これはきっと至高の味に出会えたのだろう、と、期待感で胸がいっぱいだった。
そうして私は、口の中にその一片を運ぶ。ふわっと溶ける。舌の上に広がるのは、チーズケーキ特有の濃厚なコク、そして後味にはレモンのさっぱりとした酸味、そしてこのケーキの根幹を支えるのは牛乳本来の甘さ。それが全てを包み込むようにマッチングしている。とてもよくできた……。
「……」
「……?」
そう、とてもよくできている。
これ以上ない完成品だ。
(……ああそうか)
私は、フォークを置く。静かに。
「どうし……」
「ありがとうございます。大変美味しかったです」
「……え」
困惑する彼の顔を振り切るように、最低限のあいさつだけを済ませ、その場を後にした。不思議と私を止めようとするような言葉は、彼から投げかけられなかった。
「……」
※※※
「……ふう」
その晩、当たりに出会えなかった私の儀式的なルーチンが行われていた。
「ああもう……」
今日のメンソールはやけに辛く感じた。嫌な味だ。それでもポケット灰皿の中には溜まっていくピアニッシモ。彼の味を思い出す。そして彼の最後の表情を思い出す。そうするたびに、私の表情は曇るばかり。
そんな私を照らすのは、街灯と微かに覗く満月のか細い光。
「完成品、か……」
紫煙とともにあふれ出るのは、やり場のない気持ちからくる苦言だった。